YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ヴェネツィア

● ヨーロッパ編・ヴィーンの風景


 イタリアの列車は室内はきれいでもたいてい外装はひどく薄汚れてくすんでいるのだが、いま乗っているオーストリア国鉄の列車はつややかな赤と黒に塗られていてとても小綺麗な列車である。クシェットという3段式の簡易寝台車で、寝台に座ることもできないほど頭の低い寝台だったが、なんとか一夜を過ごす。寝台にはサービスで炭酸ガス入りのミネラルウォーター(なんでヨーロッパ人はこんなのを好んで飲むんだろう?)と明日の朝の朝食券がついている。よく眠れないまま朝6時23分にヴィーン南駅に到着。タダ飯というのがちょっと申し訳ないほど綺麗な駅のレストランで朝食を済ませる。

 オーストリアの通貨シリングを持っていなかったのでユーレイルパスでも乗れるSバーン(国電)でドナウ河に近いユースホステルに向かう。両替も済ませユースを予約し荷物を預けてからUバーン(地下鉄)に乗る。地下鉄と言っても車両も路面電車をいくつかつなげて長くしたようなもので、走っているのも高架線がほとんど。少し高い目線からヴィーンの街並みを眺める。近代的で、かつ落ち着いた街並み。Laengenfeldgasseで6号線から4号線に乗換えSchoenbrunnで降りる。黄色いロココ朝の宮殿はここから歩いてすぐだ。

 シェーンブルン宮殿。ここはヨーロッパでもっとも由緒ある王家、ハプスブルク家の宮殿だった。女帝マリア=テレジア、フランツ=ヨーゼフ1世、そしてその皇后エリザベート。受付で買ったチケットにはバーコードの横に時刻が入っていて、所定の時刻にならないと改札を通れない。10分ほど待っただろうか。その時刻、10時56分になってようやく宮殿の中に入る。内部はオーストリア帝国の事実上最後の皇帝となったフランツ=ヨーゼフが執務し生活していたままになっている。緻密なロココ朝の装飾に囲まれて、今も老いた皇帝が、彼と同じく老いた帝国の行く末に心を悩ませている様子が目に浮かぶようだ。彼がお見合いの場で一目ぼれして求婚した美貌の皇后エリザベート(実は彼女の姉がお見合いの相手であり、エリザベートは付添いでついてきていただけだった)は、ヨーロッパ中を放浪し、そして旅先のスイスで暗殺者の手による最期を迎えることになってしまったからあまりこの宮殿にいなかったのだろうが、それでもお土産屋には彼女の肖像画であふれ、今もってその人気がうかがえる。

 しかし美しい宮殿ではあったが、黄色の外装は思ったほど気品のある色ではなかった。フランスのヴェルサイユ宮殿に対抗して造られたという宮殿だが、ヴェルサイユに比べれば少し落ちるかなという印象を持った。

聖シュテファン寺院
聖シュテファン寺院

 再び地下鉄でヴィーンの中心部へ。重厚なオペラ座の建物の前から、それとは対照的に明るく新しい繁華街であるケルントナー通りを歩き、マクドナルドで食事をする。「フィッシュメック・ウント・カッフェ・ウント・アプフェルタッシェ」。なんとかメニューを読み上げると、フィレオフィッシュとコーヒーとアップルパイが目の前に運ばれる。そういえば僕はドイツ語選択だったんだと思い出す。僕にとっては5カ国目のマクドナルド、日本、フランス、アメリカ、イタリア、そしてオーストリア。世界共通といっても少しずつ違いはあるものだが、ここのマクドナルドでは自分でトレーを片づけるという習慣が希薄らしく、あちこちに残されたトレーを店員が回収してまわっていた。

 ケルントナー通りはやがてこの町の中心にある聖シュテファン寺院にぶつかって終わりになる。黒ずんだゴシック式の教会だが、屋根だけは水色や黄色のジグザグで彩られている。向かい側の建物がやたらに超近代的な建物であるのもとりあわせとしては面白い。寺院の前はちょっとした広場になっているのだが、どうしたわけかここで中山や久世くんの知り合いの経済学部の連中に会ってしまう。せっかくなので記念写真など撮ってもらう。

王宮前にて
王宮前にて

 聖シュテファン教会の地下は墓地になっていて、うずたかく骨が積まれていたりするのを見ることができるのだが、案内人の英語が早すぎてちんぷんかんぷんだった。ケルントナー通りから王宮の方へ歩いていく。地図屋を見つけたのでまた地形図を買う。壮麗な王宮の前をぶらぶらする。お天気がいい。馬車がのんびりと客待ちをしている。ちょっとしゃれた店でケーキを食う。中山はオペラを見たいと言い出したがさすがにこんな突然では難しそうだった。

 僕がヴィーンで見たかったものがもうひとつあった。それはリンクシュトラーセ。日本語に訳せば「環状通り」である。

リンクシュトラーセを走る市電
リンクシュトラーセを走る市電

 ヴィーンは他のヨーロッパの町がそうであったように、かつては城壁でぐるりと囲まれていた。16世紀と17世紀、2度のオスマン・トルコ帝国による攻撃にこの町が耐えることができたのも城壁があってこそのことだった(余談だが第2回のヴィーン攻撃のとき、トルコ軍が退却したあとで城壁の脇に置き忘れられていた大量のコーヒー豆の袋が、ヨーロッパにコーヒーを広めるきっかけとなったと言われている)。しかし近代になって城壁は町の発展を阻害するだけのものとなった。そこで19世紀のハプスブルク帝政下でこの城壁は取り壊され、広い環状の大通りとなった。そしてその通りに沿って帝国の繁栄を象徴する数々のモニュメンタルな大建築が造られていったのだ。オペラ座、王宮、国会議事堂、ヴィーン大学、美術館、市庁舎・・・。環状の通りを歩いていくとカーヴの先から次々に大きく古風な建物が現れる。これらの建物が建てられた19世紀から第一次大戦にかけて、オーストリアは、現在のハンガリー、スロヴェニア、チェコ、スロヴァキア、ポーランドとルーマニアの一部、クロアティア、さらにはボスニア・ヘルツェゴヴィナまでもを含んだ巨大帝国だった。今のオーストリアはそれと比べると何分の一かの小国になってしまったが、しかしこのリンクシュトラーセは今でもかつての「帝都」の風格を伝えるに十分な威容を誇っている。オーストリアの帝国支配は、ある場所では民族の対立を助長させるところもあったといえるが、現在では帝国時代のつながりをもとに中部ヨーロッパの連携を深めて行こうという発想も生まれている。今後EUが東へと拡大していく中でかつての帝都が今度はEUの東の都として発展することもあるかもしれない・・・。

 そんなことを考えながら歩いていくと、気が付いたら中山と久世くんをはるか後ろに引き離していた。なんだか体調がすぐれないらしい。・・・そういえば僕の方は、イタリアで風邪気味だったのがオーストリアまで来る間に治っていた。リンクシュトラーセを一周してみたくもあったのだが、仕方がないから通りに沿ってぐるりと環状に走っている、赤白赤のオーストリアの国旗の色をした市電に乗ってユースへ帰った。

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