YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ヴェネツィア

● ヨーロッパ編・フィレンツェの風景


車内で日記を書く作者
車内で日記を書く作者

 ミラノはとても満足のいく街だったけど、ここは当初の計画(といってもほんとにおおざっぱなものだけど)では通過するはずの街だった。ここで本来の予定にそってフィレンツェに向かうべくミラノ中央駅に戻ってきた。列車はすいていたので6人用のコンパートメント(個室)を占領し、駅前のマクドナルドで調達したバーガーをかじっていると殆ど音もなく列車は動き出した。気兼ねのない空間で時折窓の外を眺めながらのんびりと時を過ごす。実はまだ4日目なのだが、すでに国境を2回越えている。この辺でいちど旅の記録をまとめておこうと思い、日記を開く・・・。

馬に乗る警官
馬に乗る警官

 ちょうど3時間後に列車はフィレンツェ・サンタ=マリア=ノヴェッラ駅に到着した。中山がベルンのユースでほかの日本人宿泊客から仕入れておいた情報をもとに今晩の宿を探す。駅前は広いが街の中はごみごみとしている。細い道を押し分けるように古ぼけた大型の路線バスがゆっくりと通っていく。急に視界が開けると、そこにはアルノー川が流れていた。だんだんとオレンジ色の光に染まっていく夕方の街並みを眺めながら橋を渡り、再びごみごみとした街の中に迷い込む。もうそろそろ見つかってもいいはずだ。おかしい。道を間違えたかと少し戻る。脇道に逸れてみる。もう一度もどる。あっ。あれか!

 PENSIONATO PIO X というその宿は、もとは教会関係の建物だったらしい。鉄の門をくぐり中庭からおそるおそる階段を上っていくと、正面に宿の名のもととなったローマ教皇ピオ10世の肖像がかがげられている。事務室で今晩とめてもらいたい旨を告げると宿のおばあさんは微笑みながら椅子をすすめてくれた。手続きは簡単に済んで18号室の鍵を手に僕らは部屋に向かう。こざっぱりとした広い部屋。シャワーは共同だが、1600円ちょっとで泊まれるのがありがたい。窓を開けるとそこは中庭。赤茶色の瓦にクリーム色の壁、濃緑色のよろい戸。遠くの緑の中には昔の要塞らしい茶色の塔も見える。いかにもイタリアらしい雰囲気がいい。ここには2泊することに決めた。

ベッキオ橋の夜景
ベッキオ橋の夜景

 フィレンツェの町に多いもの・・・、バイク、日本人、そして中華料理店(笑)。ルネサンスの時代そのままに細い道を小型車やバイクがすり抜けていく。観光都市だから外国人が多いのは当然にしても、その中でもやたら日本人が多い。そこかしこで日本語が飛び交う。

 「アナタ日本人デスネ! ワタシ皮ヲ貿易シテマス。皮ノじゃけっと安イネ」

 町を歩いていると、突然イタリアの自称皮革貿易業者から話掛けられたりするのである。日本人が多いからかどうかは知らないが中華料理店も多い。フィレンツェに着いた晩のご飯は「京都大酒楼」という店で食べた中華になってしまった。

プラダに並ぶ日本人
プラダに並ぶ日本人

 翌日は1日をフィレンツェ観光に充てる。朝、再びアルノー川を渡り、大聖堂のドームを目印に街の中心部へと向かう。日本人が群がっているのプラダの店の角を折れて、とりあえず最初の目的地はウフィツィ美術館。高い塔を持つこの褐色の石造建築は、かつてフィレンツェ共和国、トスカナ大公国を支配したメディチ家のウフィツィ(=オフィス)だった建物である。ボッティチェリの大作「春」と「ヴィーナスの誕生」そして、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」、ラファエロの「聖母子像」「レオ10世」。それほど広い美術館ではないが、こういったルネサンス期の超名作がところ狭しとならべられている。まさにイタリア有数、いや世界有数の美術館といえるが、しかし、それだけに観光客が多い多い。ボッティチェリの部屋なんかは、後ろの方にいたのでは、観光客の頭の上で三美神が微笑んでいるのが見えるだけだ。こんな状態ではとてもゆっくりと鑑賞してなんていられない。まあ人のことを言えたものじゃないのかもしれないが、鑑賞マナーのなっていない人も多いような気がする。残念だとしか言いようがない。

(左上)ボッティチェリ「春」
(上)花の聖母大聖堂
(左)大聖堂上からの眺め

 美術館を出て、広場から細い路地へと入り込み、しばらく歩くと大聖堂のドームが家々にのしかかるようにその巨躯を現した。聖堂前の広場で100m以上の高さのあるそのドームをしばし見上げる。無数の鋭い針を天に向けたミラノの大聖堂とは対照的に丸みを帯びたドーム、白、赤、緑の三色の大理石に彩られた外壁など、まさにその姿は「花の聖母大聖堂」の名にふさわしい。数百段の石段を登って今度はドームに登り、強い風のなか眼下に広がる花の都フィレンツェを見下ろす。赤褐色の煉瓦屋根が一面に広がる。いくつかの教会のドームや尖塔と、大聖堂のすぐ隣に建つジョットーの鐘楼がその褐色の家並みから突出ているが、調和を乱すものは何もない。おそらくはルネサンスから続き、そしてこれからも続いていくであろう永遠の街並み。日本では絶対にありえない風景だ。

ダヴィデ像
ダヴィデ像

 午後はスパゲッティ・カルボナーラを食べた後、アッカデミア美術館を見た。ここで有名なのはもちろんミケランジェロの「ダヴィデ」像。もとはウフィツィの前にあったものだが、今はその場所には複製が置かれ、本物はこちらに収蔵されている。あまりにも有名なこの巨像は美術館でも別格に扱われ、円球の天井の下でひとり巨人ゴリアテの幻をにらんでいる。ちょっと手が大きいかなと感じたが、美術表現上のものだろう。あとはさまざまな書籍で見た通りである。まさにフィレンツェ・ルネサンスの代表格ともいえるこの像、そういえばこの町の土産物店ではダヴィデの局部アップの絵葉書まで売っていた。

少し喉が痛い。風邪かもしれない。今日は早めに切り上げよう。

 午後はアッカデミアを見ただけですぐ宿に戻った。夕食はいろいろと探し回った挙げ句、結局ちかくの店をのぞいてみることにした。店の外に貼り出されたメニューを眺めていると、隣でも眼鏡をかけた長身の外国人男性が同じようにメニューを眺めている。ふと顔を見合わせ、入りましょうか、といったようにお互いにあいまいな笑みを交わした後、四人は店の中に入った。しかし三人と一人は別々のテーブルに座っていた。なんだか居心地が悪い。三人でごちょごちょと話合った結果、いちばん英語力のまともな中山が彼のテーブルに行った。

「That's Nice Idea!」

 すでに運ばれていた料理を手に彼は僕らのテーブルに迎えられた。

 フランスから来た観光客らしい。車で奥さんと来たが、奥さんは風邪を引いて宿で寝込んでしまい彼だけが外に食事に来たようだ。リヨンの近くにある人口8,000人ほどの小さな村で幼稚園で先生をしているとのこと。先生といわれてみると確かにインテリっぽい感じもする。何を話したか、だいぶ忘れてしまったが、日本や東洋のこともよく知っている。台湾と中国の関係について話したかもしれない。シラク大統領の風評について聞いたような気がする。「地球の歩き方」を見せながら、こんなガイドブックを見ながら旅をしていると言ったら、彼も笑ってフランスではこのガイドブックがメジャーだと言いながら地球を旅人が背負った表紙のついた本を見せてくれた。このあとパリに戻ったときに見たら確かに駅の売店でこの本をたくさん売っていた。

 フランスの人は英語を話さないと言われるが、それは自尊心からというよりは結局フランス人は英語がうまく話せないのだと思う。しかし日本人にとってフランス人の英語はゆっくりとしてたどたどしくて、容赦なく喋る英米人やドイツ人の英語よりむしろわかりやすい。などというと僕らはずいぶんけっこうな英語を喋っていたように聞こえるが、なんのことはない彼と僕らの会話は1対3でなんとか半分くらい意味が通ずるといった程度のことに過ぎなかったのだけれども。

 でもこうして実際にフランス人と会話してみるとなんとなくフランスという国が、フランス人という人々が少しは近くなったような気もした。彼は奥さんや幼稚園の子供たちになにか僕らのことを話したりしただろうか。そして僕は、これを読んでいるあなたに、このありふれた旅で出会ったフランス人の先生のことを話している。ひょっとしてこんなところから日本とフランスの距離は縮まったりするのかもしれない。

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