YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ヴェネツィア

● ヨーロッパ編・ローマの風景


 ローマの中央駅であるテルミニ駅に着いたのは、ピサ中央駅を出てから3時間を経た、午後4時前のことだった。「テルミニ」はターミナルの意味。どこのターミナルでもそうであるように、この近辺には安宿が多い。僕らもこの近くで宿をとることにした。

 宿探しについては一家言もつ中山が「こういうときはだな。他の日本人観光客にいい宿を教えてもらうのが賢いのだ」とかなんとか言いながら、向こうから歩いてきた日本人の女の子グループに声をかけた。はじめかなり嫌そうな表情をした彼女たちに案内をしてもらったのはビルの中庭から階段を上ったところにフロントのある宿で、彼女たちが昨晩とまったホテルらしいのだが、ここは日本からも予約ができるということでオンシーズンの今は既に予約でいっぱいだった。しかし通りを見渡せば似たような形式の宿はたくさんある。ふつうの貸しビルの何フロアかを借りたような宿がたくさんあるのだ。

 2軒目に訪れた宿はHOTEL CONTILIAという宿だった。エレベーターが金網の中を鳥かごが動くような恐ろしい簡略なものでビル自体もなんだか汚かったが、部屋は全体にグリーンがかった色調でとてもきれいだった。風呂もついていた。しかしフロントのおねえさん(すごい美人というのではないが、なんかチャーミングなひとだった)が微笑みながら書いた数字はL180,000という額だった。

L150,000/L120,000

 18万リラ! 1リラは約0.08円だから一人5,000円くらいなもんだが、それにしても昨日の宿の3倍だ。いくら彼女がチャーミングでもそれはちょっと高すぎる。Too Expensive! といって立去ろうとすると、彼女は僕らを制して今度はL150,000と書き直した。久世くんと僕は早く休みたかったのでそれでいいじゃないかと思ったが、中山は譲らない。以前、彼は僕と一緒にニューヨークに行ったとき、深夜に黒人のユスリ相手に20ドルを2ドルまで値切った男だからこの辺は妥協しない。やはり出て行こうとすると、今度は、L150,000の下に2=L120,000と書いた。2泊してくれれば2泊目は12万リラにするわよ、という意味だ。ここまできてようやく中山も納得した。しかし当初価格から比べると平均で25%の割引になったのだから大したものといわざるをえない。

 次の日は日曜日だった。どうしたわけかテレビでアニメ「らんま1/2」がイタリア語でやっているのを見ながら、昨日スーパーで仕入れておいたパンとヨーグルトをすきっ腹に詰め込むと、ローマの休日は始まった。

 落書きだらけの地下鉄に乗ってスペイン広場駅へ。アン王女がジェラートを口にしながら上った階段を上る。スペイン広場の名はもとスペイン大使館があったことに由来。でも映画がなければただのすすけた大理石の石段といってもいいところ。例によって日本人観光客がイタリア人のおやじになにごとかを誘われていたりする。ごみごみとした街並みを抜け、こんどはトレビの泉、えっ! こんなところだったの?という思いをきっと誰もが抱くことと思うが、街の中のさして広くもない空間に大理石の巨大なレリーフがあってその前に水を張った池ともプールともつかないものがあるだけのことである。正しいポーズは池に背を向けて右手で左肩の向こうにコインを投げる。1つ投げれば再びローマに来られる、2つ投げれば素敵な出会いがある。3つ投げれば離婚がかなう。もっとも、とりあえず2枚投げておいた僕には、今のところその効果は現れていないようなだが…。

(左)落書きだらけのローマ地下鉄
(左下)スペイン広場
(下)トレビの泉

 やがて僕らは統一イタリア初代国王を記念したエマヌエレ記念堂の前へと歩を進めた。そしてぴんと鬚を張ったヴィットーリオ=エマヌエレ2世の騎馬像を横目に建物の左側へ回ったとき、僕は大きく心を揺さ振られるのを感じた。ローマ帝国フラウィウス朝最初の皇帝ウェスパシアヌス。彼の造った巨大な闘技場、いわゆる、コロッセオまで、通りは一直線に続いていたからだった。2000年あまりの歴史が目の前にまっすぐ続いている。あのローマ帝国が1kmほど先に聳え立っている。そんな感動がこみあげてきた。もっともイタリア統一とローマ帝国を結び付けるこの通りを造らせたのはかのムッソリーニだったはずなので、どちらかというと僕は、2000年前のローマに感動させられたというよりは、50年前の独裁者の演出に引っかかったというべきなのかもしれないが。

「ブルータス、お前もか! ならば死ね、シーザー!」
コロッセオの前に立つローマ兵
コロッセオの前に立つローマ兵

 帝位にあこがれたひとりの男が兇刃に襲われ、こんな叫びを残して命を落とした元老院の建物が今もそのまま残っている。ローマの神々を祭った神殿の柱が半分に折れたままになっている。コロッセオの前にローマ時代の格好をした兵士が立っている。ローマ時代の一大社交場だった浴場が未だ巨大な石造りの壁を残している。忘却の奥深くに埋もれているはずの歴史が、この町ではあたりまえのようにそこかしこに露出している。すごい。すばらしい。

 が、なぜかその入口は閉ざされたまま。あちこちに赤文字でかかれた横断幕が目に付く。「本日ストライキ中につき、観覧はできません」。コロッセオもローマの遺跡群フォロ・ロマーノもカラカラ浴場も駄目。おいおいおいおいおいおい。はるばるニッポンからきたんだぜえ。そりゃないよ~。と言ってみたところでどうにもなるものでもなく、しょうがない。これでローマにもう一度くるきっかけができたというものだ、と僕は自分を納得させるしかないのでした。やれやれ。

アッピア街道
アッピア街道

 てなわけで市内中心部の見所がのきなみ没になってしまったので仕方なく僕らは郊外に出た。ローマ時代の城門を出て石畳のアッピア街道を歩く。ローマ時代の街道を車が疾走するのは困ったものだったが、しばらく歩くと聖カリストのカタコンブに着く。カタコンブとはローマ時代のキリスト教迫害下でキリスト教徒が地下で信仰を守り、そして埋葬された場所であるのだ。

 カタコンブには西欧の各言語のほかに日本語のツアーもある。僕ら三人ともうひとり日本人の女の子の客が、日本語の吹込まれたテープを持った神父さん(風の初老の男性)について地下に潜る。土壁の洞窟。迷ったら二度と戻れなくなるので列から外れないようにとテープの声は機械的に警告している。テープの声に合わせて神父さんが無言で微笑みながらあちこちを指差す。ここは大勢の信者たちが葬られていた横穴、ここは聖堂、ここには壁画が描かれている・・・。洞窟から外へ出たとき、それまで一言も発しなかった神父さんが、PEACE、とかHEAVEN、とか言いながら包込むようにひとりひとりの手を握ってくれた。僕はクリスチャンではないし、もともと宗教というものを冷ややかにしか見ることのない人間だけれども、それでも何か温かい気分になったのは、神父さんの手が温かかったから、それだけだろうか。

聖ピエトロ大聖堂
聖ピエトロ大聖堂
 翌日は、ホテルをチェックアウトしてから、そのキリスト教の総本山、ローマ教皇の御座所であるヴァティカンを訪れた。列柱に囲まれた広場の向こうに、寺院というよりは教皇の宮殿と言った方がしっくりくるような華麗な聖ピエトロ寺院が建っている。ミラノのところでミラノ大聖堂が世界第二位の教会だと言ったが、世界第一位、最大の教会はとうぜんこの聖ピエトロである。しかもここは同時に世界最小の独立国家でもある。別に国境で検問されたりパスポートを求められたりするわけではなく、ちょうど本願寺か延暦寺の境内だけ別の国になっているようなものなのだが、独立は独立である。国民は教会の職員だけで通貨もないけれど、切手なんかは独自のものを発行している。こんなんで独立といえるのならオレもちょっと独立してみようかという発想をする人も多いことと思うが、そこは世界中のカトリック教徒と2,000年の歴史に支えられたヴァティカンだからこそ許される業なのである。

聖ピエトロ大聖堂前の広場
聖ピエトロ大聖堂前の広場

 列車の発車までのわずかの時間の間にヴァティカンに来た最大の目的は、美術館を見ることにあった。その中でも、・・・決して「ピエタ」像や「アテネの学堂」が目的でなかったわけではないが、最大のお目当ては、システィナ礼拝堂! そしてその天井と壁面一面に描かれたミケランジェロの「天地創造」と「最後の審判」だった。

 天井では、神の指先から最初の人間アダムに命が吹き込まれている、そしてアダムとイヴが楽園を追われる場面、そのほかもろもろの聖書のみせどころが頭上を覆っている。そして正面にはうつむき加減の巨大なキリストが、天に昇るものと地に堕ちるものを分ける姿が描かれている。修復が終わったばかりの壁画は目のさめるような色合いで、キリストの背景は今日の空と同じ鮮やかな空色に塗られている。この強烈な印象の絵を前にして、大勢の、ありとあらゆる国から訪れた観光客がいっせいにフラッシュを焚き始めた。するとどこからか、さまざまな国の言葉での放送が流れる。そして、最後に・・・。

「シャシンサツエイハ、ゴエンリョクダサイ」。
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