YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ブルー・モスク

● イスタンブール・アテネ編・11

7月30日・その2 国立考古学博物館

 遺跡を一通り見たので、テセイオン駅から地下鉄1号線に乗る。2駅目のオモニア駅で降りるとオモニア広場に出た。アテネの治安はヨーロッパの中ではそれほど悪くない方に入るが、この広場周辺はあまり治安がよくないと『地球の歩き方』には書いてある。11時を回り、だいぶ暑くなってきた。汗をかきながらパティシオン通りをしばらく北上し、国立考古学博物館にたどり着く。19世紀の終わりごろの建物だが、ギリシャの建物らしく正面にはイオニア式の列柱が建ち並んでいる。

 博物館の展示品は、なるべく時代順に見て行った方がいいので、入口を入って正面にある先史時代の展示室から見ていくことにする。ここには、古代ギリシャよりもさらに時代を遡り、今から3000年以上前のエーゲ文明の時代の遺物が展示されている。中でもドイツ人シュリーマンによりミケーネで発掘された黄金のマスクが特に有名で、シュリーマンはこのマスクを、ギリシャ神話に出てくるミケーネ王・アガメムノンのものだと信じ、「アガメムノンのマスク」と呼んでいた。そのほか、海洋文明だったエーゲ文明を象徴するように大きなタコの絵が描かれた壺や、現代美術のようにデフォルメされた「フルートを吹く人物像」など、この展示室の品々は、今から何千年も前に作られていながら、不思議な独創性と斬新さを感じさせる。

国立考古学博物館
国立考古学博物館
アガメムノンのマスク
アガメムノンのマスク

 いったん入口ホールに戻って、今度は左手の彫刻コレクションを順に見て行く。始めの方の展示室には、アルカイック期(紀元前7~5世紀)に作られた人物像が並んでいる。この時代の人物像は、あまり動きがなく、どれも「アルカイック・スマイル」と呼ばれる微笑をたたえながら直立しており、正直言ってちょっと不気味な感じ。もう少し時代が新しい古典期に入って、ようやく動きのある彫像が現れ、何かを投げようとする海洋神ポセイドンや、馬にまたがって疾走する少年のブロンズ像などのダイナミックさが目を引く。さらに時計の針を進めてヘレニズム期に入ると、半獣神パンをサンダル?で叩こうとする女神アフロディテといった、かなり凝った意匠の像が登場する。…と、かなり端折って書いているが、ここまで見ていくのに、だいたい2時間かかった。しかもこの後、ローマ時代の彫刻が続き、さらに2階には壺や陶器のコレクションもあるのだから、すべてを丹念に見ていくのは困難である。途中、地下のカフェで休憩を挟みながら、なんとか一通り見終えて博物館を出た。

フルートを吹く人物像
フルートを吹く人物像
アルカイック期の彫像
アルカイック期の彫像
ポセイドン像
ポセイドン像
アフロディテとパン
アフロディテとパン

 地下鉄2号線でオモニア駅からホテル最寄りのシンタグマ駅まで戻る。ピレウスとアテネを結んでいる1号線は、100年以上前に開通した蒸気鉄道を地下鉄にしたものだそうだが、2号線の方は近年できたもので、運営会社も1号線とは違っている。何千年の歴史のある町を掘って造られた地下鉄なので、建設中にはさまざまな遺跡が出てきたようで、シンタグマ駅は駅の中に出土品が展示されているミニ博物館になっていた。

アテネの地下鉄(1号線)
アテネの地下鉄(1号線)
駅の中の博物館
駅の中の博物館

 外は焼けつくように暑くなってきたし、朝からあちこち観光して疲れたので、しばらくギリシャ流にホテルでシエスタ(昼寝)の時間を取ることにする。夕食前になって、日が傾き始めたころに再び外に出た。コロナキ地区と呼ばれる高級住宅街の中を通る、細い坂道をずっと登っていくと、ケーブルカーの駅に着く。トンネルの中を通る小さな黄色いケーブルカーに揺られた先は、この旅行最後の目的地「リカヴィトスの丘」である。

 リカヴィトスの丘は、アテネ市内で一番高い地点で、標高273mある。横浜ランドマークタワーの展望フロアとほぼ同じ高さだが、アテネには高いビルがまったくと言っていいほど建っていないので、市街地の全体をはるかに見渡すことができる。丘の上には、聖ゲオルギウス教会が建っており、その横手にある展望台から眺めると、眼下に国会議事堂とシンタグマ広場、その奥には緑の多い国立庭園、そして左手にはパナシナイコ・スタジアムの特徴ある姿が見えている。パナシナイコ・スタジアムは、1896年の第1回近代オリンピックのときに主会場となった競技場で、2004年の第28回オリンピックで、野口みずき選手がゴールしたのもこの場所だった。国立庭園や競技場の向こうには、白っぽい町並みが一面に広がっており、その先には水平線のぼやけたエーゲ海が続いている。

 右手に視線を移せば、パルテノン神殿を擁するアクロポリスが、現代の市街地の中に浮かぶ島のように屹立している。パルテノン神殿が造られたのは、アテネがギリシャの中心であった紀元前5世紀のこと。その後、ローマ帝国とオスマン帝国の支配を受けたアテネが、再びギリシャの中心として返り咲いたのは、ギリシャがオスマン帝国から独立した19世紀のことだった。その間には2000年以上の歳月が横たわっており、極論すれば現代のアテネと古代のアテネは、場所と名前が同じであるという以上のつながりはないとさえ言える。イスタンブールが、古代・中世から近代へと、千数百年間にわたる歴史を連綿と受け継いだ町であるのに対し、アテネは、古代ギリシャの遺物に飾られた近代都市であるという言い方もできようか。

リカヴィトスの丘より 中央にパナシナイコ・スタジアム
リカヴィトスの丘より
中央にパナシナイコ・スタジアム
リカヴィトスの丘よりアクロポリスを望む。
リカヴィトスの丘より
アクロポリスを望む。

 翌朝、ホテルをチェックアウトし、オリンピックのときに整備された高速道路を通って、ヴェニゼロス空港まで戻った。ギリシャから日本へは、直行便がないので、帰りはイスタンブールで乗り換えとなる。イスタンブール行きのトルコ航空を待つ間、ふと、行先表示を見ると、これから乗る飛行機の行き先は、ギリシャ語で「ΚΩΝΣΤΑΝΤΙΝΟΥΠΟΛΗ(コンスタンディヌーポリ)」と表示されている。ローマ帝国の系譜を引いているギリシャの人々にとっては、いまだにイスタンブールは、ローマの都「コンスタンティノポリス」のままのようだった。

【完】

(主な参考文献)
エドワード=ギボン 中倉玄喜編訳 『【新訳】ローマ帝国衰亡史(下)普及版』 2008 PHP研究所
井上浩一 『生き残った帝国ビザンティン』 1990 講談社現代新書1032
塩野七生 『コンスタンティノープルの陥落』 1991 新潮文庫し-12-3
鈴木董 『オスマン帝国』 1992 講談社現代新書1097
鈴木董 『図説 イスタンブル歴史散歩』 1993 河出書房新社
大島直政 『遠くて近い国トルコ』 1968 中公新書162
陳舜臣 『世界の都市の物語 イスタンブール』 1998 文春文庫ち-1-16
西村太良監修 『世界の歴史と文化 ギリシア』 1995 新潮社

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