YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ブルー・モスク

● イスタンブール・アテネ編・6

7月26日・その3 スレイマニエ・モスク

スレイマン1世
スレイマン1世

 チャンベルリ・タシュからはグランド・バザール近くの細い道を進み、急な坂道を登ったり下ったりしながら、スレイマニエ・モスクへとやってきた。ここは、16世紀にオスマン帝国の最盛期を築いた皇帝・スレイマン1世が建設した大寺院である。ブルー・モスクよりもさらに一回り大きいため、遠くからでも目立つ建物なのだが、広場に囲まれたブルー・モスクとは異なり、ごみごみした町の中に建っているので、近づいていくと他の建物に遮られて位置がよく分からなくなる。あちこちうろうろしながら探し歩くと、いつの間にかモスクの目の前まで来ていて、その圧倒的な大きさに驚かされた。まさに「大帝」と呼ばれたスレイマン1世を象徴するにふさわしい建物である。

 スレイマン1世は、コンスタンティノポリスを征服したメフメト2世の、ひ孫にあたる。スレイマン1世の時代のオスマン帝国は、メフメト2世の時代からさらに拡大して、アナトリア半島からペルシャ湾及び紅海に至り、エジプトから北アフリカに続く一帯のほか、ヨーロッパ大陸の南東部にあたるバルカン半島のすべてがその版図となっていた。これは古代のローマ帝国の最盛期の領土から、西ヨーロッパを除いた区域にほぼ相当する。さらにスレイマン1世は、1529年にオーストリアのヴィーンに進撃し、2ヶ月間にわたる包囲戦を繰り広げた。冬の到来により、スレイマン1世はヴィーンの征服を断念して撤兵したが、もしこの包囲戦が成功していたら、現在の音楽の都・ヴィーンは、コンスタンティノポリスと同じ運命をたどっていたかもしれなかった。

1566年ごろのオスマン帝国(スレイマン1世の時代)
1566年ごろのオスマン帝国
(スレイマン1世の時代)

 さて、スレイマニエ・モスクは、トルコの歴史上、最高の建築家として知られるミマール=シナンが設計したものである。シナンは、ローマ時代の建築をモデルとして、直径27.5mにもなる大きなドームを載せ、その前後に半円形の屋根をつなげることによって、天井が高く広々とした空間を造り上げた。シナンのこの建築様式が、後世に引き継がれて、オスマン帝国の国内にブルー・モスクを始めとする巨大寺院が建ち並ぶことになるのである。ブルー・モスクは、建物の内外とも白っぽい色彩で、繊細な感じを与えるが、スレイマニエ・モスクは、屋根付近が黒い壁で覆われており、室内も赤いタイルで縁取りがされているので、より力強い印象である。スレイマニエ・モスクの周囲には、学校や病院、公衆浴場といった公共施設が附属しており、これらの施設は、同様に寺院に附属する賃貸店舗の賃料により運営される仕組みとなっていた。イスラム社会において、寺院は、単なる祈りの場だけではなく、このように社会生活を支える役割を担ってもいたのである。また、スレイマニエ・モスクの裏手には、スレイマン1世の墓も造られている。墓といっても石塔などではなく、ドームの付いた建物になっていて内部に入ることもできる。そこには、布をかぶせた皇帝の棺が置かれており、棺の上にターバンが飾られていた。これほど間近に歴史上の人物の棺を見ることができる墓もあまりないのではないかと思う。少なくとも、私が見た限りでは、あとはパリのナポレオン廟くらいしか思いつかない。

スレイマニエ・モスク
スレイマニエ・モスク
スレイマニエ・モスクの内部
スレイマニエ・モスクの内部
スレイマン廟
スレイマン廟
皇妃ヒュッレム
皇妃ヒュッレム

 スレイマン1世の墓の隣には、一回り小さい皇妃ヒュッレムの墓も建っている。スレイマン1世にはヒュッレムの他にも寵妃がいたので、ヒュッレムは自らの子を次の皇帝にすることを画策し、陰謀により他の妃から生まれた皇子を処刑させることに成功した。しかし、皮肉なことに、ヒュッレムの死後、今度は、ヒュッレムの子のセリムとバヤズィットが争うことになり、本命のバヤズィットが処刑されて、アルコール中毒者だったと言われるセリムが次の皇帝になってしまうのである。

 スレイマニエ・モスクから、だらだらと坂を下ってホテルに戻る。この日の夜は、ベリーダンスのショーを見に行くことになっていたので、送迎の車に乗って、新市街にあるナイトクラブに向かう。ステージを囲むようにテーブルが並んでいて、各テーブルには客の国籍を示す小旗が立てられている。入口に近いステージ左手に日本と韓国の団体客、ステージ正面にイスラエルとロシア、右手にはエルサルバドル・ギリシャ・イタリア・スペイン・ホンジュラス・イランと様々な国が並び、私たち2人は、ベルギー・メキシコの隣のテーブルに案内された。

 昨日の店に比べるとあまり美味しくないトルコ料理を食べていると、やがてショーが始まった。最初は、ベリーダンスではなく、「ホロン」と呼ばれる黒海地方のダンスである。黒い衣装を着た4人組の男性が、一列になって手をつなぎ、リズミカルに踊る独特なダンスだった。その4人組の次に、露出度の高い衣装を着た女性が現れてベリーダンスを踊り始める。「ベリー(belly)」は、英語で「腹」を意味するから、直訳すれば「腹踊り」になってしまう。実際、ダンサーは、腕を上下に動かしたり、くるりと回ったりもしているが、最も特徴的なのは腰の動きで、その動きに合わせて腹の肉が波打つように動いている。単に腹に肉が付いていればいいというものでもなさそうで、あのように腹を動かすためには相当な訓練が必要なのだろう。コサックダンスやナイフ投げを間に挟みながら、計3人の女性がベリーダンスを踊り、特に2人目にステージに上がった青い衣装の女性が有名なダンサーなのだそうだ。

ホロン
ホロン
ベリーダンス
ベリーダンス

 ダンスがすべて終わり、入口近くにいた日本人団体客は、添乗員にせかされるようにレストランを出て行った。もう午後10時半だし、食べるものもなくなってしまったので、私たちも帰りたかったが、送迎付きなので勝手に出て行くわけにもいかない。するとこの期に及んで、今度は歌手のおじさんと楽団が現れた。どうやらショーはまだ続くらしい。半ばうんざりしていると、おじさんは、テーブルの旗を見ながら、客の出身国の歌を次々に歌い始めた。韓国人の前でアリランを歌ったかと思うと、ロシア人にはロシアの歌を、イラン人にはイランの歌を歌ってみせる。さすがにホンジュラスとエルサルバドルの歌までは知らないようだったが、その他の国は一とおり押さえているようで、日本人の私たちには、確か「上を向いて歩こう」を歌ってくれた。

 場が急に盛り上がり出した。いろいろな国の人が集まっているので、盛り上がり方にも、お国柄があらわれて興味深い。スペイン人はラテンの血が騒ぐのか、ひどく陽気になっている。逆に、韓国人は、日本人と同様にこういう場面で盛り上がるのが苦手のようだった。おじさん歌手は、韓国人団体客の一番前列に大真面目な顔で座っていた中年男性に歌を歌わせようといろいろとやってみせて、ついにその男性がすっとんきょうな大声で歌を歌うと、場は爆笑の渦に包まれた。日本人は、団体客が先に帰ってしまっていたので、なんと私がステージに呼び出されて、楽団に指揮をとらされたり、相撲の真似ごとをさせられたりと、はるばるトルコまでやってきて、国際的道化を演じなくてはならないはめに陥ってしまった。

 最後は、スペイン人やら何人やらが踊り出して、ほとんど収拾がつかなくなったところで、迎えのバスが来てお開きになった。バスの中で、後ろの席に座っていたベルギー人たちが、何を言っているんだかさっぱり分からないけど、笑いながら私に話しかけてきて、メールアドレスを教えてくれと言う。言われるままに、紙にアドレスを書いて渡すと、後日、ステージ上での私の雄姿?を写したデジカメ写真が、わざわざベルギーから送られてきたのだった。

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