YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ブルー・モスク

● イスタンブール・アテネ編・10

7月30日・その1 パルテノン神殿

 アテネのホテルの朝食は、何の変哲もないバイキング形式の朝食だったが、種類が多くて味も美味しかった。朝食を食べ終えて、8時半にはホテルを出る。アテネもイスタンブール同様、あまりに暑いので、午前中のうちに観光しておかないと、体力的に厳しいのはもちろん、観光名所の方が勝手に店じまいしてしまうこともあるとガイドさんに注意されていたのだ。午後にシエスタ(昼寝)の時間をとるのが、伝統的なギリシャの習慣であるということも関係しているのだろう。

 ホテルを出て、昨晩食事に出かけたプラカ地区の方へ歩いて行く。地区の中心には、ベージュの外壁をしたミトロポレオス大聖堂が建っている。この大聖堂は、ギリシャ独立の直後に建てられ、現在、ギリシャ正教会の大主教座にもなっている権威ある教会である。「ここは聖なる場所です。きちんとした格好でお入りください。」と英語で書かれているので、おそるおそる扉の内側に入ると、シャンデリアが吊るされ、キリストや聖人たちの絵が描かれたきらびやかな聖堂の中で、真っ白な服を着た聖職者が何か儀式を執り行っていた。

 ローマ帝国の中で広がっていったキリスト教は、やがてローマとコンスタンティノポリスの2つの都市を中心に別々に発展していった。ローマ帝国が西方の領土を失って以降、ローマの教会が新しく西ヨーロッパにやってきたゲルマン人の勢力と結びつきを強めていったのに対し、コンスタンティノポリスの教会は、東方の領土に残ったローマ帝国との結びつきを守り続けていたのである。このうち、ローマを中心とした教派を「カトリック」と呼び、コンスタンティノポリスを中心とした教派を「正教会(オーソドックス)」と呼んでいる。ローマ帝国が滅亡した後、正教会の中心であった聖ソフィア大聖堂はイスラム寺院に改造されてしまったが、オスマン帝国の領土内で正教会の信仰は容認されていた。現在でも、ローマ帝国の領土からオスマン帝国の領土になった東ヨーロッパの国々や、ローマ帝国と関係の深かったロシアなどでは、正教会が最も信仰されており、国ごとにロシア正教会やブルガリア正教会などの教会組織がある。ギリシャ正教会もそれらの教会組織の一つであり、このミトロポレオス大聖堂が、その中心ということになる。ちなみに日本にも信徒は少ないながらも正教会があり、その中心となる教会は、東京・お茶の水にある東京復活大聖堂、通称「ニコライ堂」である。

 ミトロポレオス大聖堂を出て、古代ローマ時代の遺跡の横を通り、急な坂道を登っていくと市街地が見渡せる場所に出た。いつの間にかあたりには観光客の姿が多くなっている。ここは、アテネ最大の観光地であり、世界遺産にも登録されているアクロポリスの入り口なのだ。アクロポリスは、古代ギリシャ都市国家において、都市の守護神が住むとされた丘のことである。古代アテネでは、女神アテナが海の神であるポセイドンとの争いに勝利して守護神の座に就いたため、都市の名も女神の名をとってアテネ(アテナイ)と名付けられたのだという。チケットを買って、丘の上に登っていくと、大理石の石段の上に太い列柱の建ち並ぶ門がある。プロピライアと呼ばれるこの大きな門の向こうに、女神アテナを祀っていたパルテノン神殿が見えてきた。

 パルテノン神殿は、紀元前5世紀、すなわち今から2400年以上も前の古代アテネ全盛期に建てられた。当初は高さ11mもある女神像が神殿に祀られていたが、その後、ギリシャがローマ帝国の領土になり、キリスト教がローマの国教となってからは、キリスト教の教会に変えられ、オスマン帝国の支配下ではイスラム寺院に改められた。そして、弾薬庫として使われていた1687年に、ヴェネツィア軍の攻撃で大爆発を起こし、廃墟となった。キリスト教会からイスラム寺院を経て博物館になったイスタンブールのアヤ・ソフィアやカーリエ博物館よりも、歴史が長いだけさらに数奇な運命をたどってきた建物である。

 「ギリシャ」といえば誰もが真っ先に思い起こすであろう、そのパルテノン神殿がいま私たちの眼前にそびえている。大きさは、幅30m奥行70mほどあり、高さは失われている屋根部分まで含めると10数m。ちょっとしたビルくらいの大きさである。整然と並ぶ列柱は横方向に8本、縦方向に17本。すべての部材は綿密な計算により組み上げられ、高さ10m以上ある列柱は、内側に6cmずつ傾けられているそうである。まさに建築としての美を追求した建物であることが分かるが、神殿の横にはクレーンが備え付けられ、今も修復作業が続けられているため、なかなか建築当時の面影をしのぶことは難しい。破風部分にあった人物像などの彫刻も、オスマン帝国の時代に多くが大英博物館に運び去られてしまっている。そもそも、パルテノン神殿は、今は白亜の神殿だが、古代には赤や青など、かなり派手な色に塗られていたそうだ。

ミトロポレオス大聖堂
ミトロポレオス大聖堂
パルテノン神殿
パルテノン神殿

 パルテノン神殿の向かい側には、エレクティオンと呼ばれる神殿が建っている。こちらの神殿は、パルテノン神殿よりも複雑な構造になっていて、長さの異なる列柱が異なる高さに配置されており、特に南側のテラスは、6人の少女の彫像を柱として使用するという珍しい手法が採られている。少女像の近くに立っているオリーブの木は、女神アテナがアテネの国民に贈った聖なるオリーブの木だそうだ(ただし、現在のオリーブの木は後世に植え直されたもの)。これらの神殿が建っているアクロポリスは、自然の岩山に人工の石積みが加えられていて、ギリシャ国旗が翻る展望台からのぞくと下は絶壁のようになっている。2400年もの昔に、これだけの土木・建築の技術を持っていた古代ギリシャの文明の高さに改めて驚嘆せざるを得ない。

エレクティオン
エレクティオン
アクロポリスの石積み
アクロポリスの石積み

 アクロポリスから降りていくと、その真下にはアゴラ(市場)と呼ばれる古代ギリシャの遺跡が広がっている。もともとここに建ち並んでいた多くの家々を移転させて、遺跡の発掘を行ったそうだ。ただし、すべての建物が移転の対象となったわけではなく、古代ギリシャの遺跡の中に、それらより1000年以上も「新しい」聖アポストリ教会の建物がぽつんと建っている。新しいといっても11世紀のローマ時代の建物で、日本でいえば世界遺産の平等院鳳凰堂と同じ時代の建物だから、ギリシャの歴史の長さが感じられる。外観は、昨夜、プラカ地区で見たカプニカレア教会とよく似ており、内部には小さな十字架とイコン(聖像)が飾られていた。

 聖アポストリ教会の他は、崩れかかった石積みや折れた柱が散らばるばかりで、完全な建物はほとんどない。ただ、その中でかつてアゴラの中心をなしていたアッタロスのストア(柱廊)という建物が完全に復元されている。ストアは、建物の前にアーケードのように柱の並ぶ空間が設けられた公共建築で、ギリシャの市民は、ここで市を開いたり、哲学の議論をしたりしていたのだという。入口の柱だけが何本か残ったアグリッパの音楽堂の前を通って、もう1つ完全な建物が残っているヘファイトスの神殿に向かう。パルテノン神殿をやや小さくしたような神殿で、こちらは復元ではなく、紀元前5世紀の建物がかなり原形を保ったまま残されている。もともとはギリシャ神話の英雄・テセウスを祀っていると信じられていたため、「テセイオン神殿」と呼ばれていたが、調査の結果、鍛冶の神ヘファイトスが祀られていたことが分かり、現在の名に改められたのだそうだ。

アゴラからアクロポリスを望む。 右手に聖アポストリ教会
アゴラからアクロポリスを望む。
右手に聖アポストリ教会
ヘファイトス神殿
ヘファイトス神殿

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