YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ブルー・モスク

● イスタンブール・アテネ編・5

7月26日・その2 ボスポラス海峡

 この日の昼食は、ドネルケバブのサンドイッチを買ってホテルで食べた。ドネルケバブは、羊肉を重ねて塊にしたものを回転させながら焼き、削ぎ切りにしたもので、日本でも時々見かけるファストフードである。ここのサンドイッチは、薄っぺたいパンにドネルケバブとトマトとレタスが挟んであるもので、なかなか美味しかった。今日も暑いのでしばらくホテルの部屋で涼み、午後1時ごろに再びエミノニュに出かけた。先ほどはエミノニュのバスターミナルだったが、今度はエミノニュ桟橋の方である。ヨーロッパとアジアにまたがるイスタンブールに来たからには、ヨーロッパ側だけではなく、やはりアジア側へも渡ってみたい。

ケバブ屋の店先 左にドネルケバブの塊
ケバブ屋の店先
左にドネルケバブの塊
ドネルケバブのサンドイッチ
ドネルケバブのサンドイッチ

 一口にアジア側と言っても、エミノニュからはいろいろな行き先の船が出ているのだが、そのうちのカドゥキョイに渡る船に乗ることにした。カドゥキョイは、古代にはカルケドンと呼ばれた町であり、現在はイスタンブールのアジア側の拠点として発展している地区である。やがて船は桟橋を離れ、桟橋前にあるイェニ・モスクやガラタ橋が次第に遠ざかっていく。丘の上にあるトプカプ宮殿も後方へと去っていき、ヨーロッパとアジアを結ぶボスポラス海峡大橋の全貌が進行方向左手に現れる。ボスポラス海峡大橋は、全長は1,510mの吊り橋で、1973年に架けられた。同じ年に架けられた日本の関門橋(当時日本最長)が全長1,068mだから、当時としては世界有数の橋だった。しかし、ボスポラス海峡の交通は、橋1本ではまかない切れず、1988年には日本の援助で第二大橋も建設されている。さらに現在、大成建設ほかの共同企業体により、ボスポラス海峡をトンネルでくぐる横断鉄道の建設工事が進んでおり(マルマライ計画)、その工事を行っていると思われるクレーンが海の中に立っているのが船から見えた。

ボスポラス海峡を渡る。
ボスポラス海峡を渡る。
ボスポラス海峡大橋 手前で海底トンネルの工事中
ボスポラス海峡大橋
手前で海底トンネルの工事中

 船はやがてアジア大陸に近づいて、海沿いに建つヨーロッパの宮殿のような大建築が見えてきた。屋根にトルコ国鉄TCDDのマークが付いているので分かるとおり、この豪華な建物は実は駅舎。イスタンブールのアジア側のターミナルであるハイダルパシャ駅である。ここからバグダードへ続く鉄道は、かつてのドイツ帝国の世界政策の一翼をなしていたため、この駅舎は1908年にドイツ皇帝からオスマン皇帝に贈られたものなのだという。しかし、前述の海峡横断鉄道が完成すると、少し北のウスキュダル地区に新駅ができることになるので、ハイダルパシャ駅は廃止になる予定である。ハイダルパシャ駅の後方には、ナイチンゲールがクリミア戦争のときに看護をしたという兵営の大きな建物が見える。

 ヨーロッパ側のエミノニュ桟橋から30分足らずで、船はアジア側のカドゥキョイ桟橋に着いた。カドゥキョイは、ショッピングの町なのだそうだが、なにしろ暑くてとても町の中に行く気力はない。ならば先ほどのハイダルパシャ駅まで行ってみようかと思ったが、いざ歩き出すと、近そうに見えて意外と距離がありそうなので、これも断念して桟橋に戻る。せっかくアジア大陸のはるか西の端まで来て、何もしないで帰るのもなんとなく悔しいので、海の上に張り出したような簡易なカフェでソーダ水を1杯だけ飲んできた。

 帰りの船は行きとは違う会社の船のようだった。船内にジュースなど売りにくるので、さっきソーダ水を飲んだばかりというのに、ついついまたオレンジジュースなど頼んでしまう。再びボスポラス大橋が見えて、トプカプ宮殿が見えて、イェニ・モスクが見えると出発点のエミノニュ桟橋に着く。まだ午後2時半で、もう少し観光できそうなので、今度はトラムヴァイに乗り換えることにする。このトラムヴァイは、路面電車と言っても1992年に開業したばかりの近代的なものである。グレーの車体に青い屋根をした2両連接の電車が2つつながって運行されているので、輸送力はかなり大きい。新市街のカバタシュを起点にガラタ橋を渡って旧市街に入り、エミノニュ、シルケジ駅を通って、ブルー・モスクのあるスルタン・アフメット地区の方へ走っているので、観光客にとっては最も便利な乗り物である。イスタンブールは坂の町であり、特に海沿いのエミノニュから高台にあるスルタン・アフメット地区へは相当な急坂になっているが、トラムヴァイは狭い通りでも車の邪魔にならないよう、ぐいぐいと力強く登っていく。スイスに本社のあるABB社製の電車だそうだ。

ハイダルパシャ駅
ハイダルパシャ駅
トラムヴァイ
トラムヴァイ

 スルタン・アフメットの次のチャンベルリ・タシュでトラムヴァイを降りる。コンスタンティノポリスは、西暦330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世により建設され、町の名も彼の名をとってつけられた。その当時、このあたりには広場があり、そこにはコンスタンティヌス1世の彫像が置かれた紫の円柱が立てられていた。この円柱は度重なる火災を受け、皇帝の彫像もいつか失われてしまったが、柱自体は1700年近くを経た現在も残っており、トルコ語で「焼かれた柱」を意味する「チャンベルリ・タシュ」と呼ばれるようになったということである。ただし、この円柱は現在修復中のため、塀や足場で覆われていて、どのようなものなのか外側からはほとんどうかがい知ることができなかった。

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