YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ブルー・モスク

● イスタンブール・アテネ編・2

7月25日・その2 トプカプ宮殿

 もともとトルコ人は、中央アジアに住む遊牧民族であったのだが、やがてイスラム教に改宗し、イランを経て、アジア大陸の西の端、現在のトルコ共和国のあるアナトリア地方へと押し寄せてきた。そうした、中央アジアからはるばるアナトリアへとやってきたトルコ人の1人にスレイマン=シャーという人がおり、彼の孫にあたるオスマン1世がアナトリアで建てた国が「オスマン帝国」である。アナトリアは、古くからローマ帝国の支配下にあり、ギリシャ人が多く住んでいた地方だった。オスマン帝国は、ローマの領土を蚕食しながら自国の領土を広げていき、アナトリアからさらにボスポラス海峡を渡ってヨーロッパ大陸の南東部をもその版図に加えていった。1453年には、当時のローマの帝都であったコンスタンティノポリスを落としてローマ帝国を滅ぼし、コンスタンティノポリスをオスマンの帝都とした。これが現在のイスタンブールである。

 イスタンブールの中心部には、1478年から1856年までオスマン帝国の宮殿であった「トプカプ宮殿」が今も残っており、ブルー・モスクの次はこのトプカプ宮殿へと向かう。トプカプ宮殿は、中国の宮殿の様式を模していると一般的に言われており、門をくぐりながら、だんだんと宮殿の内側に入っていくような形式となっている。その第一の門である「皇帝の門」をくぐって宮殿の敷地に入る。フセインさんが入場券を買いに行く間、あたりを眺めていると、木々の茂る中庭の片隅に茶色の教会のような建物が目にとまった。この建物は、イスタンブールがまだローマ帝国の都であった頃に建てられた聖イレーネ大聖堂の名残である。オスマン帝国の都となってからは、こうして宮殿の敷地の中に取り込まれ、倉庫などとして利用されていたのだという。

 フセインさんが戻ってきたので、さらに第二の門である「敬礼の門」の前へと進む。両側に塔のついた西洋のお城のような門だが、その入口には金文字のアラビア文字が掲げてある。ここからは臣下第一の大宰相といえども、乗馬のまま通ることができず、スルタン(皇帝)に敬意を表さなければならなかったことから敬礼門の名があるという。再び公園のような中庭があって、右の方にかつての厨房の建物を利用した陶磁器の展示場がある。展示されている陶磁器は、白地に藍色の染付がなされた中国陶器が多く、一部には日本製の古伊万里もあるという。よく見ると大皿にアラビア文字が書かれていたり、中東風に金でできた蓋が壺に付いていたりするので、もともとオスマン帝国向けに製造されたものなのかもしれない。スルタンの家臣たちがこうした陶磁器の大皿に盛られた料理を各自スプーンですくって食べている絵も展示されていた。

 厨房の向かい側には「正義の塔」という白い三角屋根の塔が建っており、この下にある部屋は御前会議が開催される部屋だった。御前会議はもともとスルタンが主宰していたのだが、後にはスルタンに代わり大宰相がその役割を担うようになり、スルタンは隣室から、のぞき窓を通して会議の様子を見守るだけになったという。タイルで装飾された壁の上の方に金色の格子が張られた窓があり、これが「王の眼」と呼ばれる、のぞき窓だった。御前会議は、大宰相と宰相たち、2人のイスラム法官、国璽尚書、財務長官たちにより構成され、また、国璽尚書を長とする御前会議付属の事務局も備わっていて、同時代のヨーロッパ諸国よりずっと整備された官僚組織となっていた。

 黒いドームを載せた第三の門「至福の門」から先は、スルタンの居住スペースという性格が強くなってくる。行政の場である「外朝」、皇帝が居住する「内廷」、そして女官のいる「後宮」に分かれていた北京の紫禁城と似たような構成で、ここまでが「外朝」、ここからが「内廷」に相当する。あるいは、もっと身近には、「表」「中奥」「大奥」に分かれていた江戸城と同じといってもいいかもしれない。ちなみに「後宮」ないし「大奥」に相当するのは、トプカプ宮殿では「ハレム」なのだが、ハレムは別料金で、時間もないので、今回のツアーからは外されているのが残念である。紫禁城では、たとえば明君であった清の康熙帝などは、「内廷」の入口にある乾清門まで出てきて大臣を謁見したというが、トプカプ宮殿でも、やはりスルタンの私的スペースの入口である「至福の門」の真下にスルタンが着座し、「イェニチェリ」と呼ばれる常備軍団の閲兵及び給与支給を行っていた。「至福の門」のすぐ裏手は「謁見の間」に続いており、外国大使などは、ここでスルタンの目通りを受けていたようだ。「謁見の間」には、金色で飾られた天蓋の下に大きなソファがあり、ここにスルタンが座っていたのであろう。しかし、部屋の大きさという点では、紫禁城の乾清門とは比べ物にならないほど小さな部屋である。

敬礼の門
敬礼の門
アラビア文字が書かれた明代の皿
アラビア文字が書かれた明代の皿
御前会議の間 金色の窓が「王の眼」
御前会議の間
金色の窓が「王の眼」
至福の門の前に集まる軍楽隊
至福の門の前に集まる軍楽隊

 内廷部分は、主にスルタンの秘宝を展示する宝物館となっており、その中でも有名なのは「スプーン屋のダイヤモンド」と、「トプカプの短剣」である。「スプーン屋のダイヤモンド」は、86カラットの巨大なダイヤモンドを49個のダイヤモンドで取り囲んでおり、このダイヤの原石を拾った漁師が、市場でスプーン3本と交換したという伝説から、この名がついたという。「トプカプの短剣」は、金色の短剣の柄の部分に、巨大なエメラルドが3個埋め込まれた上、鞘の部分にはダイヤモンドが散りばめられ、突端にもう1個のエメラルドが埋まっているという豪壮極まりない逸品である。この短剣は、スルタン・マフムト2世が、ペルシャの皇帝・ナーディル=シャーを懐柔するための贈り物として作製されたものだったが、ナーディル=シャーが暗殺されてしまったため、結局トプカプ宮殿に所蔵されることになったものだった。それにしても、どちらの品もあまりに私たちの常識から外れた途方もない財宝で、圧倒を通り越して驚き呆れてしまうような品々である。なんというか、オスマン帝国の持っていた富の素晴らしさがうかがわれるというよりは、これだけの富を持った帝国であっても、結局は滅んでしまった、という富の虚しさのようなものが逆説的に感じられるような気がする。

 ゆっくり見ていたかったが、フセインさんがせかすので「至福の門」の前に戻ると、そこでは、赤や緑の衣装を着て、オスマン帝国時代の軍楽隊に扮した人々が、演奏を始めたところだった。ひとしきりその演奏を眺めた後、オスマン帝国の時代から続くグランド・バザールへと移動する。約30,000㎡の中に65の通りと3,000以上の店が一体となった市場で、トルコ語では単に「カパル・チャルシュ(屋根つき市場)」という。計算すればわかるとおり、1店舗あたりの平均面積は10㎡以下とかなり狭い。アーケードが架かった通りの両側にそうした小さな店がぎっしりと並んでおり、大勢の人々でにぎわっている。しかし、まだ旅行初日でとりたてて買いたいと思うものはない。ツアーは午前中だけで、フセインさんともここでお別れなので、レートのいい両替屋さんの場所だけ教えてもらって、グランド・バザールを出た。

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