YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ブルー・モスク

● イスタンブール・アテネ編・7

7月27日・その1 アヤ・ソフィア

 イスタンブールの旧市街は、世界遺産「イスタンブール歴史地域」に登録されている。この2日間で、ブルー・モスク、トプカプ宮殿、テオドシウスの大城壁、カーリエ博物館、スレイマニエ・モスクと、その中心となる史跡のほとんどを見てきたが、しかし、まだ、私たちは、イスタンブール最大の名所であり、まさに現存すること自体が奇跡ともいえる建造物を1つ見残していた。それはブルー・モスクと向かい合うように屹立している「アヤ・ソフィア」である。イスタンブールでの最終日は、ぜひここに行っておかなくてはならない。

 現在、単に「アヤ・ソフィア」と呼ばれている、元の「聖ソフィア大聖堂」は、西暦360年に創建されたキリスト教会である。その時代は、コンスタンティノポリスが建設されて間もないころであり、また、それまでローマ帝国に迫害されていたキリスト教が公認されたばかりでもあった。そして、その数十年後には、皇帝がこの町に常住することによって、コンスタンティノポリスが名実ともにローマの新しい帝都として定まり、キリスト教はローマの国教となる。当時のローマ帝国は、国内外のさまざまな要因により衰退しつつあったが、こうした変革により、帝国はキリスト教を支柱に据え、コンスタンティノポリスを中心とした東方の領土を基盤として再興し始めるのである。聖ソフィア大聖堂は、コンスタンティノポリスで最も権威の高い聖職者「総主教」のいる教会であり、再興したローマ帝国と、新しい帝都の象徴ともいうべき存在だった。

 一方で、本家のローマ市を含む帝国西方の領土は、395年以降、東方の領土とは別の皇帝を戴くようになり、476年に滅亡することとなるので、歴史の教科書では、この時代の一連の動きをもって、古代のローマ帝国は消滅したとするのが一般的である。そして、それらの教科書によれば、コンスタンティノポリスを帝都として再興した帝国は、もはや元のローマ帝国ではなく、「東ローマ帝国」ないし「ビザンティン帝国」であると呼び習わしている。しかし、元の帝国がなくなって新しい帝国ができたわけではなく、帝国の性格が徐々に変わっていったにすぎなかったので、帝国市民の意識の中では、こうした変革の前後を通じ、1453年のコンスタンティノポリス陥落まで「ローマ帝国」は継続していた。そこで本稿においても、一般的な「東ローマ帝国」や「ビザンティン帝国」の名称は使用せず、コンスタンティノポリスへの遷都からオスマン帝国による征服までの期間も含めて「ローマ帝国」という呼び方に統一することとしている。

565年ごろのローマ帝国(ユスティニアヌス1世の時代)
565年ごろのローマ帝国
(ユスティニアヌス1世の時代)

 さて、コンスタンティノポリスを新しい帝都として再興したローマ帝国は、再び発展を遂げ、6世紀の皇帝・ユスティニアヌス1世のときには、失われた西方の領土を取り戻すまでになった。しかし、ユスティニアヌス1世の治世は最初から順風満帆だったわけではなく、532年にはコンスタンティノポリスの市民が大暴動を引き起こしている。戦車競走の観戦のために競技場に集まった市民が、臨席した皇帝の暴言に憤激し、やがて「ニカ(「勝利」)」の叫び声とともに、競技場に隣接する宮殿を襲撃し始めたのだ。「ニカの乱」と呼ばれるこの大暴動に対し、ユスティニアヌス1世は、軍隊を投入。その際、3万人の市民が殺されたという。

 「聖ソフィア大聖堂」は、この「ニカの乱」のときに火災に遭い、焼け落ちてしまった。ユスティニアヌス1世は、暴動鎮圧後、すぐさま「聖ソフィア大聖堂」の再建を計画し、再建された教会は、皇帝の力を誇示するため、当時の技術の限界を超える、途方もなく巨大な堂宇になった。これが現在に残る「アヤ・ソフィア」である。高さは56mあり(東京ドームとほぼ同じ)、昨日訪れたスレイマニエ・モスクよりさらに高い。実はスレイマニエ・モスクを設計したミマール=シナンが参考にしたローマ建築とは、この「アヤ・ソフィア」にほかならず、その後、シナンの建築様式をもとに造られたブルー・モスクなどのイスラム寺院建築にまで、このキリスト教会が影響を与えていることになる。といっても、アヤ・ソフィアは、スレイマニエ・モスクやブルー・モスクと比べても、1000年以上も前に建てられた建物であり、外観はだいぶ異なっている。赤く塗られた壁はいかにも分厚そうで、後世に追加・補強された部分も多く、すぐ向かい側に建っているブルー・モスクの華麗な姿と比べると、全体にかなり無骨な感じである。

 ブルー・モスクやスレイマニエ・モスクは寺院なので無料だが、アヤ・ソフィアは、カーリエ博物館と同様、教会からイスラム寺院に改造され、その後に博物館となっているので有料である。入場券を買い、ニカの乱で焼失した先代の聖ソフィア大聖堂の残骸の前を通って、建物の中に入る。入口を入ってすぐ、積み上げた石がむき出しになった横長の部屋に、アヤ・ソフィアの歴史を解説したパネルが展示されている。その部屋から内側にもう一つ横長の部屋があり、その向こうがいよいよ大ドームの下の空間である。

アヤ・ソフィア
アヤ・ソフィア
アヤ・ソフィア内部
アヤ・ソフィア内部

 大ドームの下に入ると、視界が大きく開けた。天井が高いのは、スレイマニエ・モスクやブルー・モスクと同様だが、奥行きはもっと長く感じる。2つのモスクの内部は区切りがない正方形に近い空間だが、アヤ・ソフィアは、大ドーム下の空間の両側が列柱で仕切られていて、縦長の長方形になっているためであろう。壁面も列柱も大理石でできていて、ブルー・モスクやスレイマニエ・モスクのタイル張りとはだいぶ趣が異なる。上部はほとんどの箇所が黄色く塗られていて、イスラム風の幾何学模様が入っている。カーリエ博物館同様、ここにはモザイクやフレスコ画がたくさん描かれていたのだが、オスマン帝国の征服後にそれらは漆喰で塗りつぶされてしまったのだ。

ユスティニアヌス1世
ユスティニアヌス1世

 この大建築が完成した西暦537年12月27日、ローマ皇帝・ユスティニアヌス1世は、この場所で「ソロモンよ!我は汝に勝てり!」と叫んだという。この「ソロモン」とは、エルサレムに大神殿を建てたという古代イスラエルの王の名前であるが、1000年後にスレイマニエ・モスクを建てるスレイマン1世の名も、「ソロモン」をトルコ語で読んだものであり、スレイマニエ・モスクの大きさが、アヤ・ソフィアよりわずかに小さいことを思い起こすと、何か不思議な因縁を感じる。そして、その後、およそ900年の間、聖ソフィア大聖堂は、帝国第一の教会として市民の崇敬を集めてきたが、栄華を誇ったローマ帝国もついに滅亡のときを迎え、城壁が破られた1453年5月29日の朝、多くの市民がこの聖堂の中に逃げ込んできた。敵がコンスタンティノポリスの町に侵入し、聖ソフィア大聖堂の前まで押し寄せたとき、剣を手にした天使が舞い降りて、人々に救いの手を差し伸べる、という噂を信じたためである。だが、オスマン兵が大聖堂の扉を打ち破った瞬間にも天使は現れず、集まった市民は、ことごとく兵士による略奪の対象となっていった。それらの人々が連れ去られた数時間後には、征服者・メフメト2世がここに姿を見せた。メフメト2世は、聖堂の床の大理石を引き剥がそうとしていた兵士に怒声を浴びせた後、この教会をイスラム寺院に変えるよう命令したという。

 アヤ・ソフィアには、モザイクやフレスコ画を覆い隠す漆喰の他にもイスラム寺院であった名残がある。アラーの神、預言者マホメット(ムハンマド)とその後継者の名を金字で記した巨大な円盤がそれである。また、説教台と、メッカの方角を示すくぼみ(ミフラーブ)ももちろん取り付けられている。始めからイスラム寺院として建てられた建物であれば、まっすぐにメッカの方角に向って建てられるが、アヤ・ソフィアは当初キリスト教会であったため、ミフラーブはやや右側にずれた場所に取り付けられている。お祈りをする際、若干不便があっただろうと思う。

 観光客が集まっている柱があるので見に行くと、そこでは人々が柱のくぼみに親指を入れたまま、掌をぐるりと回している。このくぼみは「聖母マリアの手形」と呼ばれており、親指をくぼみに入れ、他の指を柱につけたまま、掌を1回転できれば願い事がかなうと言われているのだそうだ。その柱の近くには、2階に上がる通路がある。階段ではなく、石畳が敷かれたスロープ状の通路である。カーリエ博物館同様、アヤ・ソフィアにも、漆喰が一部剥がされてモザイクやフレスコ画が現れた場所がところどころにあり、ドーム下の空間を囲むように設けられている2階に上がると、それらの壁画を近くで見ることができる。天井の一番奥には、キリストを抱くマリア像。2階の壁にはローマの皇帝夫妻がキリストやマリアに金貨の袋を捧げる寄進図が2枚ある。そしてこれらの壁画の中で、最も優れていると言われるのは、キリストが聖母マリアと洗礼者ヨハネに囲まれている絵である。キリストは、左腕に書物を抱え、右腕は胸のあたりまで上げて何かを語りかけるようなポーズを取っている。昨日見たカーリエ博物館のキリスト像と構図はよく似ていており、どちらも甲乙付けがたいが、アヤ・ソフィアのキリストの、内にさまざまな感情を秘めたような神々しい表情が、私にはより強い印象を与えた。

聖母マリアの手形
聖母マリアの手形
キリスト像
キリスト像

 アヤ・ソフィアを堪能した後、まだ少し時間があったので、すぐ向かい側にある「地下宮殿」も見ていくことにする。地下宮殿は「宮殿」という名がついているが、本当の宮殿ではなく、実はローマ時代に建設された地下貯水池である。コンスタンティノポリスには、水道設備が整備されており、市外の水源から昨日くぐった巨大な水道橋を経て、この貯水池まで水が引かれていたのだ。現在の貯水池は、単なる観光地となっており、浅く張られた水に鯉が泳いでいる。天井は、ギリシャの神殿のような柱によって支えられており、それらの列柱が300本以上立っている様子は、たしかに宮殿のようにも見える。ただ地下にあって、特に美観を必要とする施設ではなかったことから、柱の形はそろっていないそうで、中にはメデューサの石像の頭を土台にした柱も含まれている。観光客は水の上に渡された通路を歩くようになっており、その途中には、カフェまでつくられていた。酷暑のイスタンブールの中でも、ここは地下であり、水の上でもあるので、比較的涼しい。せっかくなので、コーヒーを1杯飲んでいくことにした。

地下宮殿
地下宮殿
メデューサの首
メデューサの首

 この日の昼食も、ドネルケバブのサンドイッチ。一昨日のガイドさんが「世界一美味しい」と薦めてくれたお店で買って、公園で食べたのだが、期待したほどでもなかった気がする。乗り慣れたトラムヴァイ(路面電車)で坂を下り、大きな郵便局で絵葉書を出してからホテルに戻る。これでイスタンブールの観光は終わり。十数年来、来たいと思っていたイスタンブールで、見たかったものはだいたい見ることができたものの、まだまだこの町には見残したものもたくさんあるし、ぜひもう一度訪れる機会を作りたい。今度は何十年先のことになるか分からないけれど。

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