YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ブルー・モスク

● イスタンブール・アテネ編・8

7月27日・その2 トルコとギリシャ

 愛知万博のパビリオンで働いたことがあるという女性のガイドさんに送られて、イスタンブールのアタテュルク国際空港にやってきた。17時20分にイスタンブールを飛び立った新型のB737-800型ジェット機は、1時間ほどでマルマラ海とエーゲ海を横断し、18時40分に、隣国ギリシャの首都・アテネに着陸した。アテネの国際空港は、エレフテリオス=ヴェニゼロス国際空港。アタテュルクもヴェニゼロスも、トルコとギリシャの歴史を語るときに欠かすことのできない人名であるので、ここで少し20世紀初頭の両国の歴史を振り返ってみることにする。

 さて、メフメト2世やスレイマン1世の時代には日の出の勢いであったオスマン帝国も、やがて、産業革命により強大になったヨーロッパ諸国にどんどん領土を削られていき、ギリシャをはじめとする諸国がオスマン帝国からの独立を達成していった。そして「瀕死の病人」とまで言われたオスマン帝国が最後の大博打に打って出たのが第一次世界大戦である。オスマン帝国は、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国と同盟し、イギリス・フランス・イタリアなどの連合国と戦ったが、結果は敗北。スルタン・メフメト6世は自らの保身のために連合国に国土を委ね、オスマン全土に連合国軍が進駐を始めていた。

エレフテリオス=ヴェニゼロス
エレフテリオス=ヴェニゼロス

 一方、オスマン帝国から独立したギリシャ王国も、当初はペロポネソス半島の先の方を領土とするのみで、経済的基盤が弱く、政治も混乱していた。そこへ登場したのがエレフテリオス=ヴェニゼロスである。首相となったヴェニゼロスは、内政外交に卓越した手腕を発揮し、二度のバルカン戦争に勝利して領土の拡大を実現する。第一次世界大戦でも、中立を主張した国王コンスタンティノス1世を差し置いて連合国側に参戦したので、オスマン帝国とは対照的に勝ち馬に乗る結果となった。

 ギリシャの歴史は、古代のギリシャ文明に始まる。その後、古代ギリシャは、ローマ帝国の領土となるが、コンスタンティノポリスに遷都してからのローマ帝国は、ギリシャ人の多い地域を領土とし、言語もギリシャ語が公用語となった。そのため、コンスタンティノポリスを帝都とした、後期のローマ帝国は、実質的にギリシャ人の国家であったと言える。そのギリシャ人のローマ帝国を滅ぼしたのが、トルコ人のオスマン帝国であるから、ギリシャ人にとって、トルコ人は祖先の仇。トルコ人からコンスタンティノポリスを奪還し、ローマ帝国を再興することを国家の目標と考えるギリシャ人も多かったのである。

ケマル=アタテュルク
ケマル=アタテュルク

 そうしたギリシャ人にとって、第一次世界大戦後のオスマン帝国崩壊は、絶好のチャンスに見えた。第一次世界大戦の終結後にヴェニゼロス首相は失脚し、国王が力を取り戻していたが、その国王により引き続き戦争が続けられ、ギリシャ軍はアナトリア半島に進撃する。これに対して起ち上がったトルコ人が、オスマン軍の将軍であったムスタファ=ケマル、後のケマル=アタテュルクである。ケマルは革命政権を率いて、ギリシャ軍をアナトリア半島から撃退。現在のトルコ共和国を建国し、その初代大統領に就任した。「アタテュルク」の姓は、国民議会から贈られたもので「トルコの父」を意味し、現在でもアタテュルクは、トルコ建国の父としてトルコ人の尊敬を集めている。

 新生トルコ共和国とギリシャは、1923年に講和条約を締結した。このときの講和会議にギリシャ代表として出席したのは、敗戦時にちょうど政権の座にいなかったヴェニゼロスである。スイスのローザンヌで締結されたこの条約により、トルコとギリシャの国境が画定し、イスラム教徒は原則としてトルコ領内へ、キリスト教徒は原則としてギリシャ領内に住むことが定められた。ギリシャ人はオスマン帝国の統治下でもキリスト教を信仰することを保証されており、長いオスマン統治時代に混血が進んでいたトルコ人とギリシャ人を区分する最終手段は、結局、宗教しかなかったということになる。この「住民交換」により、200万人のギリシャ人がトルコからギリシャへ、90万人のトルコ人がギリシャからトルコへと移り住んだという。

 こうした複雑な歴史を持つ両国であるが、現在は比較的友好な関係にあり、トルコが目指すEU(ヨーロッパ連合)への加盟もギリシャは条件付きながら支持している。とはいえすべての問題が解決しているわけではなく、その顕著な例が地中海に浮かぶ四国の半分ほどの大きさの島・キプロス島の問題である。オスマン帝国領だったこの島は、第一次世界大戦後にイギリス領となり、1960年にイギリスから独立して「キプロス共和国」となった。その後、ギリシャ系住民とトルコ系住民の主導権争いが起き、トルコの介入によって、トルコ系住民が「北キプロス・トルコ共和国」の独立を宣言した。この「北キプロス」は、かつての日本がつくった満州国のように、トルコのみが承認する国であり、日本で発行される世界地図に「北キプロス」は載っていない。しかし、実質的に、キプロス島は、ギリシャ系とトルコ系、南北2つの国に分断されているのであり、『地球の歩き方』でも「北キプロス」はトルコ版に、南側の「キプロス共和国」はギリシャ版に掲載されている。トルコのEU加盟問題について、ギリシャが提示した条件というのも、トルコが南側の「キプロス共和国」を承認することであり、この問題が解決しない限り、トルコとギリシャが本当に和解する日は来ないのかもしれない。

「北キプロス・トルコ共和国」の掲載された地図(トルコ航空の機内誌より)

「北キプロス・トルコ共和国」の掲載された地図(トルコ航空の機内誌より)
トルコは「キプロス共和国」を承認していないため、南側は「南キプロス・ギリシャ系住民管理地域」と記載されている。南側の英軍基地はイギリス領のため、厳密には島内は3分割されている。

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