YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ブルー・モスク

● イスタンブール・アテネ編・4

7月26日・その1 テオドシウスの城壁

 憧れのイスタンブールで過ごせるのは、旅程上、実質的に2日半しかなかった。そのうち最初の1日は既に過ぎてしまい、最後の半日は移動日で慌ただしいから、少し離れた見どころへは真ん中の1日のうちに行っておかなくてはならない。そこで、この日の朝は、朝食を片づけると、すぐさまホテルに近いエミノニュのバスターミナルへと向かった。

 私が行きたかった場所とは「壁」だった。「壁」と言ってもただの壁ではない。この町を1000年間にわたり守ってきた「テオドシウスの三重城壁」である。前述したとおり、オスマン帝国による征服以前、この町はローマ帝国の都であり、町の名も「コンスタンティノポリス」と呼ばれていた。もともとのローマ帝国の都は、当然のことながら、イタリアのローマであったのだが、帝国が広くなっていくと、辺境から押し寄せる異民族に対処するため、皇帝はローマにいないことが多くなり、ミラノやドイツのトリーア、トルコのイズミットなどに宮廷を置くようになった。そうした都市に代わり、4世紀ごろからはコンスタンティノポリスが皇帝の所在地として定着するようになり、本家のローマが異民族の略奪で荒廃したこともあって、名実ともにローマ帝国の都は、コンスタンティノポリスになったのである。そしてこの新たな都を守るため、西暦413年に皇帝テオドシウス2世が築かせたのが、このテオドシウスの城壁だった。

 私たちが乗った37E系統のバスは、金角湾沿いを北西に進み、さらにアタテュルク大通りを南西に進む。アタテュルク大通りは交通量の多い幹線道路だが、途中、通りをふさぐようにローマ時代の巨大な水道橋が架かっており、バスは水道橋の狭いアーチの下をくぐり抜けて走っていく。立体交差するフェヴジパシャ通りに入って、再び北西へ。地図と車窓を交互に見ながら、このあたりかという場所で降りた。エミノニュのターミナルを出発してから、バスに揺られていたのは、およそ15分である。

 フェヴジパシャ通りが城壁と交差するあたりには、大きなトルコ国旗がひるがえる塔があった。ここがエディルネ門、ローマ時代の「カリシウス門」にあたるはずだが、どうも塔は最近修復されたばかりのようで不自然に新しく、しかも間を幹線道路が通っているので、ローマの昔をしのぶというわけにはいきそうもない。もう少しあたりを探索してみることにし、城壁に沿って南に向かう。先ほども書いたとおり、この城壁は三重になっていて、いちばん内側に高さ12m幅5mの内壁があり、その外側に高さ8.5m幅2mの外壁があり、さらに外側に高さ2mの胸壁があって、その外側が幅20mの堀になっていた。いま残されている城壁は内壁と思われる1枚しかなく、しかも、修復された部分と元からある部分が混在している。城壁を見上げながら歩いていると、ほどなく門が現れた。この門は、周りの造りは立派だが、アーチのついた開口部は、高さも幅もマイクロバス1台通れるかどうかしかない。どうやらこちらが本当のカリシウス門のようである。

大通りに架かる水道橋
大通りに架かる水道橋
カリシウス門 上半分は修復された部分
カリシウス門
上半分は修復された部分

 西暦413年にこの城壁が造られて以来、ローマ帝国と帝都コンスタンティノポリスは、さまざまな異民族の脅威にさらされてきた。そして、ヨーロッパ・アジア・アフリカの三大陸にまたがっていたローマの領土は、盛衰を繰り返しながら徐々に縮んでいき、15世紀には帝都コンスタンティノポリスとその他わずかな領土を残すばかりとなっていた。しかし、この強大な城壁を持つコンスタンティノポリスだけは破られず、626年のペルシャ帝国の攻撃にも、674年から678年までのイスラム帝国の包囲にもびくともせず、15世紀からのオスマン帝国の包囲にも耐えてきた。コンスタンティノポリスは、13世紀の第4回十字軍により一時的に征服された時期があったが、そのときは海側からの攻撃であり、城壁が破られたことは歴史上、一度もなかったのである。

メフメト2世
メフメト2世

 その城壁がついに破られたのは1453年のことだった。この帝都の征服に執念を燃やした、オスマン帝国の若きスルタン(皇帝)・メフメト2世が、オスマンの総力を挙げてこの城壁に取り掛かってきたのである。ローマ帝国の戦力およそ7,000に対し、オスマンの軍勢は10万を超えており、600kgの石を1km以上飛ばす「ウルバンの巨砲」という攻城兵器も持っていた。4月から始まった包囲戦は2カ月近く続き、その間に最後の力を奪われていったローマ帝国は、ついにこの年5月29日に古代ローマ以来2000年以上に及ぶ歴史を閉じることとなったのである。そして、コンスタンティノポリス陥落の数時間後、勝利者のメフメト2世が白馬にまたがり、意気揚々と入城したのが、このカリシウス門だった。

 塩野七生さんの小説『コンスタンティノープルの陥落』では、この入城のとき、メフメト2世が愛馬の黒馬ではなく、あえて白馬に乗り換え、側近を驚かせる場面が出てくる。「白馬」はローマ皇帝の乗馬であり、ローマを滅ぼしたメフメト2世は、このとき新たなローマ皇帝になったつもりであったのだろう。オスマン帝国の版図は、かつてのローマの版図にほぼ重なっており、実際にこの後、メフメト2世は「ルム・カイセリ(ローマ皇帝)」という称号を用いたこともあったのである。トルコ人でイスラム教徒のメフメト2世がローマ皇帝を名乗るのは奇異な感じもするが、もともとローマは異民族をローマ市民として取り込むことにより拡大を続けた国であり、さまざまな地域の出身者が皇帝になることのできた国であった。また、ローマは、4世紀にローマ固有の神々を捨てて、キリスト教を国教とした国なのであり、そうしたローマの歴史を顧みれば、イスラムの国がローマ帝国を継承したとしても、まったく理屈が立たないというわけでもなさそうである。しかし、一般的には、この時点をもって、ローマ帝国、そしてギリシャ・ローマの地中海文明は、滅亡したと捉えられ、「ルム・カイセリ」の称号も、その後、オスマン帝国最盛期のスレイマン1世が名乗っただけで消滅してしまった。

 白馬に乗ったメフメト2世の幻につき従うように私たちは門をくぐって「コンスタンティノポリス」の城内に入った。当時、陥落した都市では、兵士による3日間の略奪が許されており、メフメト2世が入城したときも町の中は略奪により混乱し、荒廃していたことだろう。そのまま町の中心へと行進するメフメト2世を見送って、私たちは城壁沿いに北の方に向かって歩く。目指す先は「カーリエ博物館」である。

 カーリエ博物館の建物は、ローマ時代の11世紀にキリスト教のコーラ修道院附属聖堂として建てられたものである。といっても、ブルー・モスクのような壮大な建物ではなく、坂の下に建っているため、周囲の建物に埋もれたようにひっそりと建っているように見える。赤褐色の壁の上に明かり取りのアーチ窓が並び、ドームを載せた外見は、なるほど歴史を感じさせるけれど、何かつぎはぎだらけといった風で、あまり美しいという感じでもない。実は、この建物の見どころは建物の外観ではなく、建物の内部を埋めつくす、あまたの聖人たちを描いたモザイクやフレスコ画にある。入場券を買って博物館の中に入ってみれば、多くの聖人たちに囲まれたキリストや聖母マリアがドームの天井から私たちを見下ろしている。縞模様の大理石の壁の上には、黄金のモザイクを背景に、威厳に満ちた表情のキリストが、陰影をつけて写実的に描かれている。これらのモザイクやフレスコ画は、ローマが滅亡に瀕した14世紀の改築の際に制作されたものと言われる。コンスタンティノポリスに都を遷して以降のローマ帝国の美術は、次第に写実性を失い、型通りの宗教画が主流となっていくが、この帝国末期の美術は、そうした型から脱却し、ヨーロッパのルネサンスの時代にも通ずるものと評価されている。

 博物館の奥の部屋は、あまり装飾がなく、その代わりにイスラム教の聖地・メッカを示す窪み(ミフラーブ)が設置されている。キリスト教の聖堂だったこの建物も、オスマン帝国のコンスタンティノポリス征服後、イスラム寺院「カーリエ・モスク」に改造されていた。イスラム教は、偶像崇拝を排するから、イスラム寺院として用いられていた間、あのキリストやマリアの美しいモザイクやフレスコ画も、すべて漆喰で上塗りされて消されていたのである。漆喰が剥がされて、これらの美術品が再び世に姿を現したのは、第二次世界大戦後の1948年のことであり、その後にカーリエ・モスクは、無宗教の博物館に再度生まれ変わっている。

カーリエ博物館
カーリエ博物館
カーリエ博物館 天井に描かれた聖人たち
カーリエ博物館
天井に描かれた聖人たち
カーリエ博物館 キリスト像に圧倒される。
カーリエ博物館
キリスト像に圧倒される。
廃墟となったローマ皇帝の宮殿
廃墟となったローマ皇帝の宮殿
コンスタンティノス11世
コンスタンティノス11世

 カーリエ博物館を出てから、さらに城壁沿いに北の方へと向かって歩いた。やがて、行く手に城壁と同じ色をした、大きな建物らしきものが見えてきた。近寄ってみると、その「建物」は立派な石積みのアーチ窓を持っているが、屋根も床もない壁だけの巨大な廃墟だった。廃墟の裏手には小さな公園があり、「テクフール・サラユ公園」という看板が立っている。「テクフール・サラユ」は、トルコ語で「異民族の宮殿」という意味であり、この廃墟は、トルコ人から見た異民族、すなわちローマ皇帝の宮殿の残骸の一部なのだった。1453年5月28日、つまりローマ帝国滅亡の前夜、最後の皇帝コンスタンティノス11世は、この宮殿に防衛軍の主だった者を集めて最後の演説を行い、出席者は涙を流しながら、帝都防衛に命をささげることを誓い合ったという。この廃墟の、町の内側を向いた壁を見上げると、そこには、もしかすると皇帝が立ったかもしれない、バルコニーのような出っ張りが付いているのが見える。城壁の隙間から町の外側に出てみると、そこはバスの駐車場になっており、さらに外側ははるかに広がる市街地が見下ろせる。皇帝が演説を行ったその日には、あたり一面にメフメト2世の軍勢が押し寄せていたことだろう。そして、翌朝の夜明け前、オスマン軍の猛攻撃にローマの敗北を悟った48歳の皇帝は、帝位を示す鷲の紋章をちぎり捨て、乱戦の中に消えていったと伝えられている。

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