YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ニューヨーク

● アメリカ編・ボストンの伝統PARTⅡ

9日目・11月16日(土曜日)

 東京には道順通りに歩くと、いろいろな史蹟や観光地をめぐることができる「歴史と文化の散歩道」というのがつくられているが、ボストンにもやはり同じようなものがあり、これを「フリーダム・トレイル(自由の道)」と呼んでいる。「歴史と文化の~」は23コースあって全部歩くと 240km以上ある、というすさまじいものだが、「フリーダム・トレイル」は1コース 2.4kmしかなく、いかにボストンの街がこじんまりとまとまっているか、あるいはいかに東京がバカでかいか、ということが分かろうかというものだ。

 僕らはボストン滞在2日目にこれの一部を歩いた。出発点はボストン・コモン。コモンとは共有地のことで、もともと植民者の共有地だったところを公園にしたものである。欧米の公園はたいていリスが放し飼いになっていて、なかなか楽しい。鳥もカラスとハトばっかりということはなくて、なにか見たことのないような小鳥も飛んでいたりする。天気が良いので気持ちが良いが、放射冷却おこりまくりでむちゃくちゃ寒い。金色のドームをもつ州庁舎が前にそびえる。1798年の建物だそうだ。州庁舎から少し下ったところにあるパーク・ストリート教会は米英戦争のとき火薬庫として使われたとか。歴史の街、ボストンの面目躍如たるところを感じさせる。教会の隣にはグラナリー墓地があり、ここは独立の有名人が埋葬されているのだが、日本人には縁の薄い人ばっかりである。キングズ・チャペルを右折し、フランクリンの銅像、多くの作家を世に送り出したオールド・コーナー書店。8番目の見所であるオールド・サウス集会場は、修復工事中だった。

旧州庁舎
旧州庁舎

 まだ1kmも歩いていないが、寒くてしょうがないので、途中のスターバックスでコーヒーを飲んでいく。ふう~。落ち着く~。気を取り直して、次は旧州庁舎。煉瓦づくりのボストン最古の建築物である。屋根にイングランドとスコットランドを象徴するライオンとユニコーンの像があるのでも分かるとおり、植民地時代の1713年に建てられている。高層ビルをバックに18世紀の建築が健在、というのがボストンのダウンタウンの風景である。2階にはバルコニーがついていて1776年にはここから独立宣言が読み上げられたそうだ。ちょっとおもしろそうなので、入場料を払って中に入る。と、ごーっという地響きとともに突如、地面が揺れだした。地震だ。たいしたことはないが、だんだん揺れが大きくなってくる。

 「ががん、ががんががん、ががんががん、…」

あれれ? なんと地下鉄だ。建物の真下を地下鉄が通っているために、電車が通ると建物が揺れるのだ。ご丁寧に建物の中には振動計まで設置されている。室内にはこの建物の歴史とボストンの歴史の展示がされていたが、地下鉄を掘ったときの写真もあった。建物を持ち上げて土台を敷き直して地下鉄を造ったらしい。ボストンの地下鉄は古いのでかなり浅いところを通っているのだ。この建物の修復の様子なども興味深い。いろいろな所有者の手に渡ったあとで博物館になったため、バルコニーやライオンの像などもあとになって復元されたものらしい。イギリス軍の発砲によって市民5人が死亡したボストン虐殺事件に関する展示もある。この州庁舎の前の交差点の中程に丸い敷石があって、ここがその場所だということだ。

 州庁舎から市役所の前に出て、ファヌエル・ホールからジョン・F高速道路をくぐると、ノースエンドと呼ばれる地域に来た。この辺りはボストンでも古くからある街で、独立の英雄だというポール=リビアの家や、白い塔をもつオールド・ノース教会などの史蹟がある。アメリカの街にしては狭い道路の両側に、煉瓦づくりの家々が立ち並んでいる光景は、ヨーロッパの古い街を思わせる。ずらりと路上駐車された車が唯一めざわりだなと思ったが、ふと見ると「居住者用駐車スペース」という標識が立っていた。要するに建物が古くて駐車場がないので、しかたなく路上に停めている、というわけなのだ。めざわりなんて言っちゃいけませんでしたね。

 コップスヒル墓地から、チャールズ川の岸辺にまで降りていくと、フリーダム・トレイル後半の見所であるUSSコンスティテューション号とバンカーヒル記念塔が川向こうに見えたので、とりあえずここまででいいやとおしまいにした。近くの北駅まで歩いていって地下鉄に乗る。また路面電車かと思ったが、こちらは普通の地下鉄だった。4駅目のチャイナタウンで下車。駅に漢字で書かれた路線図がある。また中華街だ。そして中華街に来たということはお昼ご飯である。今日は麺ものにしようと思って、それらしきものを注文したが、出てきたものは、透明なスープに浸かった真っ白な麺。なんじゃこりゃ、と思ってメニューをよく見ると、どうもお米の麺らしい。なんか変わった味だ。ちょっと薬くさい感じもしたが、スープは生姜っぽい味で、全体としてみればなかなかおいしかった。

ティー・パーティー・シップ
ティー・パーティー・シップ

 満腹になって、次はボストン観光の目玉である「ボストン・ティー・パーティー・シップ」まで歩いていく。ちょっと説明しておくなら、アメリカがイギリスの植民地であったころ、1763年まで続いた七年戦争で財政が苦しくなったイギリスは、アメリカ植民地に多額の税金をかけてまかなおうとしたのである。そして特に紅茶への課税に怒ったボストン市民が夜陰に紛れてイギリスの船、ビーバーⅡ世号に近付き、積んであった茶箱342箱(!)をすべて海に投げ込んでしまった。真っ赤に染まった海水はそのまま塩辛いアイスティーと化し、人々は、これを洒落てボストン・ティー・パーティー、すなわち「ボストン茶会事件」と呼んだのである。この事件は、その後のアメリカ独立戦争のきっかけをつくった事件として有名なのだが、その舞台となったビーバーⅡ世号が復元されて、見学できるようになっているのだ。

 入場料を払って中に入ると、桟橋のようなところに既に多くのお客が集まっているのが見えた。それらの人々にまじって椅子に腰掛けると、18世紀の格好をした兄さんが現われて、威勢よくあいさつをする。

 「紳士淑女のみなっさーん。今日はようこそおいでくださいましたあ。それでは、まず皆さんの出身地を聞いてみましょうかね~」

こんな具合に始まり、めいめいが自分の出身地を答えていった。ニューヨーク。オハイオ。カナダ。トーキョー!(これは中山が答えた) インディア。サウディアラービア。ジャーマニ。ロシア。…、

 「あなたは、どっちらから来たんですか~?」

 「…ブリテン」

なんと、イギリスから来た女性がいた。ブーブー、会場のあちこちからブーイング。そりゃそうだ。なんせイギリスは独立戦争の敵国である。そのブーイングを制して兄さんが言う。

 「今日はですねえ、皆さんの出身地のことは忘れてですねえ、今、皆さんは1775年のボストン人だと思ってください」

茶箱を投げ込んでいるところ
茶箱を投げ込んでいるところ

それで、私がこう言ったらダム!ダム!と言ってくださいね、ああ言ったらヒア!ヒア!と叫んでくださいね、などという申し合わせ申し送りがあってから、茶税を許すな~! そうだそうだ~! みたいなシュプレヒコールを入場客全員でやって、船の方に移動することになる。ボストン茶会事件のとき、植民地人たちはインディアンの変装をしていったということになっているので、全員、配られた赤い羽を頭につけている。そして集まったお客の前で例の兄さんが、懲りずにまた、茶箱を投げ込め! そうだそうだ~!などとやったのちに客の中から選ばれた人(子供だった)が、「TEA」と大書された箱を海に向かって投げ込むのである。なんだか投げ込んだ子供自体、なにをやっているのか飲み込めていないようで、それにあとで見にいったら投げ込まれた箱はひもで船につながれて海にぷかぷか浮いていた。もうなんだか茶会事件というより茶番劇としか言いようがなくてなかなか笑えた。

 とりあえずボストン観光は一通りすんだのだが、中山がお兄さんに頼まれたネクタイを買いにいきたいと言い出した。ホテルに戻る前に地下鉄でコプレイまで行き、煉瓦造りの高級ブティックが立ち並ぶ町並みを歩く。「ベルサーチ」の前で中山は足を止めた。

 中に入った僕らは明らかに異質であった。着飾った親子連れの客を相手にしている店員の目がちらちらとこちらを注視しているようで、僕はたいへん居心地が悪かった。中山はガラスケースに入った何本かのネクタイを眺めて見比べている。そちらの方を見やると、ド派手な極彩色の布きれが綺麗に並べられているのが目に入った。なかでもものすごかったのは鮮やかなライトブルーの地にピンク色の星型のヒトデがちりばめられ、お魚さんの頭がにょきっと突き出ている図柄のものである。とてもじゃないがつつがなくサラリーマンになる予定の僕がしめられるようなネクタイじゃない。

 「なあ、どれがいいと思う?」

中山の話によれば、中山のお兄さんという人は、デザイナーだかコピーライターだかをしているらしく、ベルサーチのできるだけ派手なネクタイを、という注文だったらしい。それならば…。

中山は店員さんを呼んだ。

 「こちらのネクタイは140ドルから400ドルまでの商品となっておりますが」

中山は、(…僕が選んだ)ヒトデお魚さんネクタイを指差す。

 「こちらはとても可愛らしい図柄のネクタイですわ」お前らには似合わねーよとか言いたいのだろうか、などと言外の意味を推測する前に僕はそいつのお値段の方が気になったが、それは150ドルだった。とりあえず400ドルのものではなかったのでちょっと安心する。それでも包装されたネクタイを手に満足そうにしている中山を目にして、僕は一抹の罪悪感をおぼえていたが、それが解消されたのは、中山君のお兄さんがそのネクタイをたいへん気に入ってくれたという後日談を聞いてからのことだった。

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