YAGOPIN雑録

世界あくせく紀行

ニューヨーク

● アメリカ編・サンフランシスコの爽快

3日目・11月10日(日曜日)

 卵の焼き方を尋ねられて、それしか思いつかなかったターンオーバーのハムエッグの最後の一切れを口の中にほおりこむ。コーヒーカップを傾けながら、ロスよりはぐっと落ち着いた雰囲気の街を眺める。僕の見当違いでなければ1930年ごろの建築と思われるアンティークなホテル。その1階のカフェの窓辺から見たサンフランシスコは、さわやかな朝の香りを放っていた。

 昨日の夕方、ロスアンゼルスを発って、ユナイテッド航空のシャトル便でサンフランシスコ国際空港に到着した。比較的治安の良いサンフランシスコの街でも都心のややガラの悪い場所にあると聞いていたのだが、古風なこのホテルはけっこう僕好みで、なにごともトラブルなく昨晩もよく眠れた。勘定をすませてカフェを出る。ロスアンゼルスよりは街の規模もずっと小さく、道路の幅もぜんぜん狭い。こんな街の方が僕は落ち着く。天気はよいが、気温は昨日よりだいぶ涼しくて、今日の最高は20℃くらいと予想されていた。隣を歩いている中山が思い出したように言う。

 「サンフランシスコはなあ、ゲイに寛容な街だかんな、人口の一割くらいが同性愛者らしいぞ。オレたちも周りから見ると、そういうふうに見えちゃったりするんだろうな。がはははは」

 僕は、ははは、と小さく笑いながら、中山との間隔を1mまで広げた。

まっすぐに急坂へ向かっていくケーブルカーの線路
まっすぐに急坂へ向かう
ケーブルカーの線路

 この街の中心であるユニオンスクエアを通ってパウエル通りとマーケット通りの交差点に着くと、もうたくさんの人が並んでいた。ここがサンフランシスコ名物のケーブルカー、パウエル・ハイド線の乗り場である。一時期は廃止の計画もあったこのケーブルカーだが、観光用ということで残されることになったのだそうだ。たしかにここに並んでいる人たちも観光客ばかりで買い物客などははほとんどいない。もっともケーブルカーといっても山を登るわけではなく、ほとんど路面電車。ただサンフランシスコは坂の多い街なので、普通の路面電車では坂が登れないのだ。目の前のレールの先もまっすぐに壁のような急坂に続いている。その坂を下ってきたケーブルカーは乗客を降ろすと、手動のターンテーブルを回って僕の前へとやってきた。中山の教えどおり、座席には座らないで外の手摺りにぶらさがると、やがて車両の真ん中に乗ったグリップマンが大きなレバーを操作してケーブルカーを出発させた。すると!

 「ばこっ!」

ケーブルカーの手すりにつかまる。
ケーブルカーの手すりにつかまる。

 僕の背負っていたリュックサックが駐車していた車のドアミラーに激突。グリップマンに注意されてあわててリュックサックを足元に置く。車がどうなったかなんて見ている余裕はなく、ケーブルカーはゆっくりと坂を登りはじめた。次の十字路。交差点の部分だけは少し平らになっている。停留所があり、待っている人もいるが、満員なので通過。恨めしそうに見ている人々をあとにケーブルカーはまた坂を登る。風と一緒に街並が動いていく。楽しいスピードだ。カリフォルニア通りを走るケーブルカー、カリフォルニア線と交差。ここが最高地点でここからは下り坂になる。ジャクソン通りを左折。あれ? また上り坂だ。いったいこの街の地形はどうなっているんだろうと思う間もなく、今度はまた下り坂。でこぼこな地形をものともせず、グリッド式の碁盤目都市計画を実施してしまったからこうなったんだろう。東京の道路が分かりにくいのは地形による制約が大きいからだと思っていたけれど、こういう例もあるのか…。と、ハイド通りに入ると、また上り坂になる。登り切ったところにある停留所で止まる。海だ! なだらかな坂道に沿って立ち並ぶ家々の向こうに太平洋が見える。南ヨーロッパの町並みみたい。行ったことないけど。横浜の野毛山辺りの住宅地もこんな感じだな。数人の人が乗り降りしてから発車。最後の下り坂を降りると波止場に着いた。

船から金門橋を見上げる。
船から金門橋を見上げる。

 アルカトラズ島に行く船に乗る予定だったのだが、この島は、映画の舞台になったりしたこともあって、もう予約はいっぱいらしい。しかたなくサンフランシスコ湾内を一周する船に乗り込む。イヤホンのついた解説機を渡される。英語、スペイン語、中国語と日本語の解説が聴ける。出航するとまず1989年のサンフランシスコ大地震の話から始まった。ふと神戸や、関東大震災で壊滅状態となった横浜が、この港町に重なり合う。正面に赤く塗られたゴールデン・ゲート・ブリッジ、金門橋が見えてきた。解説は金門橋がつくられた時代の話に移っている。大鳴門橋や瀬戸大橋なみの長さ・高さがあるのではないかと思えるこのつり橋、造られたのはなんと1937年のことである。サンフランシスコの向かい側は荒れた大地で、そうまでしてこの橋を架ける必要があったのかなと思ったが、広域地図で見ると、サンフランシスコから海岸沿いに北に向かうのには、この橋が不可欠であることが分かる。

星条旗と金門橋
星条旗と金門橋

 船は橋の下でUターンして再び湾内へと戻った。今度ははるかかなたにベイブリッジが見える。その手前に見えるのがアルカトラズ島だ。1963年まで連邦刑務所だった島で、アル=カポネもここに入っていた。サンフランシスコとの距離は2kmほどしかないが、冷たい海流にはばまれ、生きて脱獄できた囚人はいないという。今は完全に観光化され、近付くと、昔、看守の宿舎だったという建物から多くの顔がのぞいているのが見えた。島を半周ほどしたところで、船は桟橋に帰ってきた。

 昼飯のためにケーブルカーで中華街に赴いた。とりあえずアメリカでまともなものが食べたかったら、これが賢い選択らしい。ジャクソン街の停留所から海の見える坂道を転がるように下っていくと、……そこはアジアだった。通りは東洋系の人種でごった返している。あふれる漢字の看板。とびかう中国語。魚も野菜もくだものも、あらゆるものが歩道に並べられ、ゴミが散らかり蝿が舞う。横浜や神戸や長崎の中華街とは規模がぜんぜん違う。ここはアメリカのはずなのに、この部分だけ完璧にアジアになりきっていて、物価まで周りの町とは違うようだ。ここぞとばかりこまごまとした買物をしてから中華料理店に入る。お粥と餃子みたいなものを頼む。お茶がうまい。お粥もおいしかったけれど、インディカ米なのが日本人にとっては残念なところ。でも十分満足して店を出る。腹ごなしにしばらく歩くとユニオンスクエアまで戻ってきた。ショッピングセンターをひとまわりしてから、中山を引っ張って地図屋に行く。閉店間際だったがサンフランシスコの2万4千分の1地形図を手に入れる。$8.68もしたが(日本の2万5千分の1地形図は\270である)カラフルな地図で、サンフランシスコの地形もよく分かったので嬉しかった。

 夕方になるとホームレスの活動がなんだかアグレッシブになる。日本のホームレスのおじさんおばさんはこういうのと比べると紳士淑女的だよなあ。こんな状況下であんまり動き回りたくなかったので、ホテルの近くで夕飯を済ませる。また日本食だ。この辺りは日系人が多いらしく、日本語がけっこうあちこちで見られるのである。

「いらっしゃいませ」

店員も客もほとんどが日本人みたいだ。注文した力うどんを食べていると、この上さらに日本人のおばちゃんの群れがどやどやと入ってくる。

「ほらほら山本さん、こっちこっち」「トイレどこかしら」「アタシ窓際の方がいいわあ」

 さすがに莫迦らしくなって、そそくさと店を出た。ホテルに預けてあった荷物を受け取り、日航ホテルの前の空港バス乗り場で待つ。タクシーの運ちゃんに声かけられるが、ノーサンキュー。バスの窓を、金門橋やサンフランシスコの街並が後へ後へと流れていく。でも。この街にはまた来よう。そう思った。

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