YAGOPIN雑録

この町を歩く

京都御所紫宸殿

● 京都一周ぐるり旅・8

一周、そしてまた旅は続く

京都模式図

  2004(平成16)年7月11日。早くても秋だろうと思っていた転勤が早まりそうになってきた。ぼやぼやしていると京都を一周する前に関西を離れなくてはならなくなるかもしれない。北野からは、御室あたりを回り道して南に向かうつもりだったが、計画を変更し、今日は、なるべくまっすぐ出発点の西大路駅を目指すことにする。

 阪急の烏丸駅で降りると、四条通では1車線を塞いで何かの組立作業を行っていた。何を作っているのかと見に行くと、それは祇園祭の山鉾だった。祇園祭のメインイベントの一つである山鉾巡行は、17日に行われる予定である。それまであと6日あるので、屋根や緞帳はまだ取り付けられていないが、櫓が組まれた上に「真木(しんき)」と呼ばれる柱が高々と立ち上がっている。高さは20mほどもあって、隣に立っている5階建てのビルよりもよほど高い。そういえばよく見ると、山鉾が立てられる通りは、電線がまったく横断しておらず、巡行を邪魔しないようになっている。

 四条大宮からバスに乗って、千本今出川までやってきた。バス停の前に「後土御門天皇後宮 贈皇太后朝子 般舟院陵」と書かれた宮内庁の看板が立っているので足を止める。後土御門天皇は、応仁の乱が始まったときの天皇で、ここに葬られているのは次の後柏原天皇を産んだ典侍(ないしのすけ)の源朝子である。百人一首の「玉の緒よ 絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする」の歌で知られる式子内親王の墓と伝わる石塔もこの御陵内にあるそうだが、御陵は塀に囲まれていて門も閉ざされている。千本通を横断したお寺の門前には「豊公遺跡 湯たく山 茶くれん寺」の石碑が立つ。このお寺は「浄土院」という名前なのだが、豊臣秀吉が立ち寄ったとき、住職に茶の湯の心得がなく、やむなく白湯を出したことから「湯たく山 茶くれん寺」と呼ばれるようになったという。中には入れないようなので、そのまま大報恩寺へと向かう。

 「千本釈迦堂」の名で知られる大報恩寺は、1221(承久3)年、藤原秀衡の孫といわれる義空上人の創建(1227(安貞元)年と書いてある案内もあった。)。陶器市で賑わう境内を進んでいくと、その正面に建っている本堂は、創建当初の建築といわれ、国宝に指定されている。この建物を建てた棟梁の名は、長井飛騨守高次という。歴史的な建物であっても、建てた大工の名まではあまり知られていないのが普通だが、この長井高次の名が知られているのは、実は、高次の妻が、日本人なら誰でも顔が思い浮かぶほどの有名人だからである。その妻の名を「阿亀(おかめ)」という。長井高次は腕利きの棟梁だったが、誤って、大事な四天柱(仏像を安置する場所の周囲を囲む柱)の1本を短く切り落としてしまった。この窮地を救ったのが妻の阿亀のアイデアで、それは短くなった柱の先に斗栱(ときょう・組物)を施すというものだった。かくして、大報恩寺本堂は見事完成することになったのだが、妻の助けによったとあらば夫の名声に傷がつくと考えた阿亀は上棟式を待たずして自刃。そして、高次は上棟の日に阿亀の面を御幣につけてその冥福を祈ったという。このエピソードが縁起物の「おかめ」のお面の始まりなのだそうで、本堂の右手には、阿亀の像と「おかめ塚」と呼ばれる宝筺院塔が立っている。鎌倉時代の1227(安貞元)年に建てられたこの本堂は、実は京都市内で一番古い建物であり、逆にいえば、現代の京都には平安時代の建物はひとつも残っていないということになる。平安京より古い平城京の時代の建物が東大寺や唐招提寺などに残存していることを考えると少し意外な感じもするが、都であった期間が長く、火災や戦乱の発生頻度が高かったことによるものか。ともあれ、応仁の乱にも巻き込まれた大報恩寺で、この本堂だけが焼けずに残ったのは、やはり阿亀の霊験によるものなのかもしれない。

組立中の祇園祭山鉾
組立中の祇園祭山鉾
大報恩寺
大報恩寺
真言宗智山派
主なみどころ:本堂(国宝・写真)、
おかめ塚、阿亀像

 大報恩寺の次は、前回もお参りした北野天満宮へ。西側を流れる紙屋川と天満宮の間に少し高くなった土手があり、その上に「史跡豊太閤築造御土居」という説明板が立っている。御土居は、京都を取り囲むように高さ約5m、長さ約23kmにわたって建設された土塁で、ヨーロッパや中国・韓国の都市にかつて見られた城壁のような役割を果たしていた。「豊太閤」すなわち豊臣秀吉は、応仁の乱で焼き尽くされた京都の都市再生を行っており、「御土居」の築造もその一つの施策だった。御土居のほとんどは江戸時代にも残り、明治以降には大部分が壊されてしまったものの、今もなお、ここを含めた9ヶ所が史跡指定されて残っている。そのほか、壬生土居ノ内町(中京区)、紫野西土居町、鷹峰旧土居町、大宮土居町(以上、北区)など町名として残っている場所もある。

 北野天満宮の向かい側には「京都市電北野線記念碑」という小さな石碑が立っている。日本で最初に電車が走ったのは、1895(明治28)年、京都電気鉄道(京電)の塩小路(京都駅付近)・伏見油掛町間であり、その後、この京電は京都市内に路線網を広げていった。1900(明治33)年に開業した北野線もそのひとつである。ところが、1912(明治45)年から京都市電が運行を始めると京電は乗客を減らし続け、1918(大正7)年には市電に買収されてしまう。市電の線路は京電の線路より幅が広かったため、元京電の路線は次々に廃止されたり市電と同じ線路幅にされたりし、狭い線路幅のまま京電の面影を残すのは、この北野線のみとなった。戦後に市電廃止の議論が起こると、他の路線と規格が異なっていたことが災いして、一番はじめに廃止されたのも北野線だったが、逆に日本最初の電車の形態を残しているという希少価値から、北野線の電車は平安神宮や愛知県犬山市の明治村などに引き取られて保存されている。ちなみに京都市電の路線の中で、戦後最初に廃止されたのは北野線だが、最後まで廃止されずに残ったのは、この「京都一周ぐるり旅」の基準線である九条通・東大路通・北大路通・西大路通を一周する路線だった。

御土居の上から紙屋川を見る。
御土居の上から紙屋川を見る。
北野線電車
北野線電車
平安神宮に保存されているもの

 北野線が通っていた北野商店街の通りを歩いていくと「北野名物長五郎餅」の店がある。長五郎餅は天正年間に河内屋長五郎が北野天満宮の参詣客に売り出したのが始まりであり、太閤秀吉も絶賛したといわれている。先ほど来、秀吉に関わりのある事物が続けて登場するが、北野といえば、秀吉が貴賤を問わず参加させた大茶会の開かれたところであり、秀吉とは縁が深い場所なのである。なんとなく小腹がすいたので、店内に入り緋毛氈に腰掛けると、冷たいお茶と白い餅が2つ出てきた。ほどよい甘さのこし餡が入っていて、お茶によく合う。茶の湯好きの秀吉が好むのも無理はないと思う。

 千本中立売の交差点からは千本通を歩いていく。街灯には「朱雀大路」と書かれた垂れ幕が下がっている。朱雀大路は羅城門から平安宮へと続く平安京のメインストリートで、道幅は84mもあったが、時代が下ってくると広い道路はどんどん侵食されて私有化されてしまった。今の千本通はそのごく一部で、蓮台野という葬祭場まで千本の卒塔婆が立てられたことにより千本通の名がついたと言われるが、かつての朱雀大路に千本の桜並木または松並木があったことによるという説もある。千本通から東側へ下立売通に入ると、ほどなく「平安京内裏内郭回廊跡」の碑がある。内裏は天皇の日常の生活の場となった場所で、その周囲を取り囲む回廊の基壇の一部が下水道工事の際に発見されたのだそうだ。あたりは普通の住宅地となっているが、1000年前は天皇の住居だったところである。千本通の反対側に渡り、少し奥まった小さな公園には「大極殿遺阯」の碑があり、こちらは朝廷の儀式を司る朝堂院の正殿の跡である。基壇の大きさは東西59m南北24mあったといい、柱は朱塗り、屋根は緑柚瓦で葺かれていた。今の立派な平安神宮の本殿は、大極殿の建物を8分の5の大きさで復元したものというから、元の大極殿がいかに壮大な建物であったかが推し量れる。公園を南側に出て丸太町通沿いに建つ りそな銀行の脇には「平安宮朝堂院跡」の碑。朝堂院は東西200m南北470mの規模があり、大極殿のほかに十二堂、会昌門、朝集殿といった建物が建っていた。その入り口に建っていたのが「応天門の変」で知られる応天門である。丸太町通を横断して反対側の住宅地に入ると、今度は「平安宮豊楽殿跡」の碑。豊楽殿は、天皇の饗宴の場である豊楽院の正殿で、大極殿よりは一回り小さい規模の建物であったらしい。そのほか平安宮の中には二官八省の建物などが建ち並んでおり、古代国家の中枢を成していたのだが、今の平安宮跡地には建物の代わりに上のような石碑が立つのみとなっている。儀式の場であった朝堂院は1177(安元2)年の焼失後、再建されなくなってしまい、天皇の住居である内裏も1227(安貞元)年を最後にこの場所には建てられなくなった。その後は、本来、災害時の臨時皇居である「里内裏」がそのまま内裏として用いられるようになり、やがて朝廷の儀式も内裏の正殿である紫宸殿で行われるようになった。現在の京都御所も里内裏のひとつであった土御門東洞院殿が発展したものである。

長五郎餅
長五郎餅
煎茶セット330円
抹茶セット480円
大極殿遺阯
大極殿遺阯

 豊臣秀吉が聚楽第に勧請し、秀吉の出世にあやかって後陽成天皇が名づけたといわれる出世稲荷神社、江戸時代、京都に2つあった奉行所のひとつである西町奉行所跡の碑などを見つつ、さらに千本通を下っていくとJR二条駅前に出る。駅前には朱雀門をイメージした案内看板があり、平安京と平安宮についての詳しい説明がある。平安宮の正門である朱雀門は駅より少し北にあり、その跡地には「此附近平安京大内裏朱雀門」の碑が立っている。JR二条駅には1904(明治37)年にできた古い駅舎が長いこと残っていたのだが、1996(平成8)年に高架化に伴って移築され、今は梅小路蒸気機関車館の建物として利用されているそうである。現在の駅舎は高架駅に巨大な木造のドームがかかった不思議な駅舎となっている。駅前は旧鉄道用地などを利用して再開発が行われる予定だが、現在は広大な空き地が広がっている(この文章を書いているさなか(2005年春)に、立命館大学のキャンパスの一部を移転する構想が固まった模様)。面白いことに現代の地図に古代の平安京の復元図を重ねると、この空き地と千本通を合わせた幅がだいたいかつての朱雀大路の幅と同じくらいであり、位置もほとんど同じであることが分かる(朱雀大路のほうがやや東にずれている。)。朱雀大路はこんなに広かったのか、と古代人の視点に立ってしばし感慨にふけり、1000年前にそびえていた朱雀門の姿を心の中に思い描く。

出世稲荷神社
出世稲荷神社
祭神:稲荷五柱(稲倉魂命、猿田彦命、天鈿女命、大己貴命、保食命)
二条駅前
二条駅前
往時の朱雀大路を思わせる。

 朱雀大路、もとい千本通は、二条駅前を過ぎると急に細い道になる。ここまでの千本通や烏丸通・四条通など、京都の中心部にある多少広い道は、明治末に行われた道路の拡張工事によるものであり、広がった道路には市電が通されていた。二条駅前から先の千本通も同じように拡張される予定だったのだが、このあたりは西高瀬川の水運を利用した材木商の多いところであり、こうした材木商たちが町の分断に反対したため、千本通の拡幅は中止になって、市電は後院通から大宮通へと迂回して通されることになったという。ちなみに堀川通・五条通など、京都の中心部にあるものすごく広い道は、太平洋戦争時、空襲による延焼を防止するために実施された建物疎開の跡である。

 四条通を越えて、京福嵐山線をくぐると、壬生寺に着く。壬生寺は991(正暦2)年創建の古刹だが、新選組の屯所近くにあって、その調練場として使われるなど、新選組ゆかりの寺としてよく知られている。境内には、壬生塚と呼ばれる墓碑などの一群があり、その中に新選組局長・近藤勇の胸像や遺髪塔、新選組隊士の墓などがある。今年(2004年)はNHKの大河ドラマで新選組をとりあげていることもあって観光客が特に多いようであり、門前には新選組の衣装を着けた少年たちが立っていた。江戸時代に建てられた本堂は不幸にも1962(昭和37)年に放火されて、本尊の地蔵菩薩像とともに焼失しており、今は鉄筋コンクリート造りの新しいものに代わっている。

 新選組の屯所が置かれていた八木邸は、たいへんな行列ができている上、何年か前に一度見たことがあったのでパスして、同じく新選組の屯所として使われていた向かい側の旧前川邸に入る。旧前川邸は以前は公開していなかったはずだが、今日は門が開かれており、母屋の土間部分では新選組関連グッズの販売などが行われていた。新選組を脱走しようとした総長・山南敬介が切腹して果てた座敷は、ここの右手の方と思われる(非公開)。大河ドラマ「新選組!」では死に装束の山南敬介が遊女・明里と出窓越しに別れを告げる場面が描かれていたが、その出窓は残念ながら現存していないそうだ。史跡めぐりのパンフレットをもらって、やはり新選組とゆかりの深い島原遊廓の跡へ向かう。京の島原といえば、江戸の吉原、大坂の新町と並ぶ江戸時代の三大遊廓の一つだが、今の島原には遊廓的な要素はほとんど全く残っていないようであり、1996(平成8)年まであったという歌舞練場の跡は老人デイサービスセンターとなっていた。しかし、建物としては、置屋だった輪違屋、島原の入り口だった大門、揚屋だった角屋の三棟が江戸時代から残存しており、特に角屋は、「角屋もてなしの文化美術館」として内部を公開している。

壬生寺
壬生寺
律宗
主なみどころ:壬生塚
100円(壬生塚)、8:30~16:30
旧前川邸
旧前川邸

 角屋は、料理を提供し、宴席の場を設ける「揚屋」といわれる施設である。芸妓は輪違屋のような「置屋」から派遣されてきていた。間口の広い二階家で、通りに面した部分には格子戸が続いている。内部には美術館が併設されていて、所蔵する見事な調度品や美術品が公開されている。いよいよ建物に入ると、料理を提供する揚屋らしく、50畳もある広大な台所がある。客用の玄関に回れば、中庭までうまく見通せるような構造となっているのが分かる。もっともこのように台所の面積を広くとったり、見栄えよく柱を配置したりした結果、角屋は強度的に問題がある建物になってしまっており、現在では補強用の柱が加えられているのだそうだ。玄関の柱には新選組がつけたといわれる疵が残っている。その先には刀掛や刀箪笥があり、網代の間といわれる部屋がある。網代の間の天井は、その名のとおりの網代天井となっており、長押には北山杉が用いられ、障子の模様一つとっても凝った造りとなっている。おそらく、非日常的な空間を演出するため、普通の住宅などでは考えられないようなぜいたくを建物中に施しているのだろう。臥龍松といわれる立派な枝振りの松が見える大座敷の松の間に座ると、解説員のおじさんがこんな話を始めた。

「皆さんが座られている松の間、ここで文久3(1863)年9月のある夜、太ったお客さんが料理を食べ、お酒をたくさん飲んでいかれたことがあります。夜更けになってこのお客さんは、壬生の新選組の屯所の方へと帰っていかれました。この方の名前は、芹澤鴨さんといいます。」

 芹澤鴨は、壬生浪士組から名前を変えたばかりの新選組で局長の立場にあり、水戸派と呼ばれる一派を率いていた。酒乱の性質があった芹澤は、この角屋で食器を叩き壊して回ったり、酒樽を壊して帳場を酒びたしにしたりするなど、乱暴なふるまいが多かったとされ、また考え方の相違もあって、試衛館派と呼ばれる近藤勇・土方歳三らは、芹澤一派の粛清を考えるようになっていく。

「大酒を飲んで屯所の八木邸に帰られた芹澤さんは、お梅さんという女性と一緒に寝ていたのですが、そこを土方歳三さんや山南敬介さんに襲われて、お梅さんとともに斬り殺されてしまいました。ここは芹澤さんが亡くなる直前にお酒を飲んだ場所なんですね。」

 あいにく松の間は一度、火災で焼けているため、その後に復元されたものなのだが、臥龍松も見渡せ、往時を偲ぶには十分である。なお、芹澤鴨の墓は先ほどの壬生塚の一角にあった。

角屋
角屋
主なみどころ:松の間、網代の間、台所、玄関に残る新選組の刀疵(写真右手の白い札のかかるあたり)
島原大門
島原大門

 島原のあるあたりを朱雀野という。平安時代にはこのあたりにも朱雀大路が通っており、その両側に鴻臚館と呼ばれる外国使節の迎賓施設があった。角屋の近くに「此附近 東鴻臚館址」と記された石柱が立っていて、東鴻臚館はもっぱら渤海国からの使節を接待するために使われていたという説明がある。中国東北部にあった渤海国は、7世紀に滅ぼされた朝鮮半島の高句麗国の遺民が建てたといわれる。当時、中国には強大な唐帝国があり、朝鮮半島には新羅国があって、それらの国々との対抗上、渤海国は、日本に使節を派遣して親善を図っており、この東鴻臚館において、菅原道真など日本の高官と渤海使との間で漢詩のやりとりなどが行われたという記録もある。しかし、渤海国は唐や新羅が滅ぶのとほぼ同時期、926年に滅亡しており、東鴻臚館も920(延喜20)年頃には廃止されたという。西鴻臚館のほうは鎌倉時代まで存続していたようだ。

 島原住吉神社、島原西門の跡を通って、JR山陰線の高架橋の横に出る。このあたりには、線路を挟んで両側に京都市中央卸売市場が広がっている。JR丹波口駅を過ぎて、国道9号となっている五条通を西に向かうと、七本松通との交差点付近に「京都リサーチパーク」というビル群がある。ベンチャーの支援や産学官の交流などを目的にできた施設で、もとは大阪ガスの工場があった場所だった。今でこそベンチャー支援とか産学官の交流とか、よく聞かれる話であるが、この施設がオープンしたのは、今から15年前の1989(平成元)年のことで、当時としては先進的な施設だったのではないかと思われる。

 花屋町通、御前通、七条通と進み、ようやく西大路通へと戻ってくる。ゴールは目前だが、その前に最後の見どころ・若一神社に寄る。観光ガイドなどにもあまり掲載されていないこの神社は、六波羅第と並ぶ平家の屋敷であった西八条第に勧請された神社の名残という。実際には西八条第のあった場所とは多少離れているのだが、「平清盛公西八条殿跡」の碑も立っている。神社の前を通る西大路通の歩道脇に立っている巨大なクスノキは、昭和初期に西大路通を通す際、清盛の祟りがあるといわれてそのまま残されたものだそうで、通り自体も神社を避けるように曲がっているのが分かる。「若一」は熊野大権現の第一王子のことで、若王子、八王子などと同じような由来である。境内には清盛の石像や清盛公ゆかりの御神水があり、「萌えいずるも枯るるも同じ野辺の草 何れか秋にあはではつべき」という歌を刻んだ碑が立っている。この歌の主・祇王は、清盛の寵愛を一身に受けた白拍子だったが、やがて清盛の寵愛がより若い仏御前という白拍子に移ると、襖にこの歌を書き残して西八条第を出て行く。「世に出ようと落ちぶれようと、結局あたしら野の草のようなもの、秋(飽き)が来たらおしまいなのよ」。出家した祇王は嵯峨野・往生院に隠棲。祇王寺と呼ばれるようになる往生院には、歌のとおりの運命をたどった仏御前も後にやってくることになるのである。

京都リサーチパーク
京都リサーチパーク
若一神社
若一神社
祭神:若一王子
主なみどころ:御神水、祇王歌碑

 若一神社を出てほどなくJR西大路駅に着く。昨年(2003年)の夏に始めた京都一周の旅も1年足らずでいちおうの完結を見ることになった。京都の町じゅうに、幾重にも染み付いた歴史の紋様を、少しでも解き明かしたいと思って始めたこの旅だったが、結局、京都の表層のほんの一部を、そっとなでただけで終わってしまったような気がする。日本の歴史を体現するこの町を解きほぐしていくためには、もっともっと広く精しく見て回ることが必要だろう。そのためには、また何度でも京都に足を運ばなくてはならない。そう思うと、ゴールであるはずのこの場所は、何か無限に続く迷宮の入り口のようにも見えてきた。

【完】

(拝観料・拝観時間は変更されている場合がありますので、御注意ください。主なみどころは、作者の独断によるもので、作者が見ていないものは外していますので、参考程度に御覧ください。)

前へ ↑ ホームへ  次へ
       8