YAGOPIN雑録

この町を歩く

京都御所紫宸殿

● 京都一周ぐるり旅・6

都の鬼門と応仁の乱

京都模式図

 2004(平成16)年4月25日、出町柳駅を降りて、川べりに出ると、賀茂川と高野川が合流するあたりには、シートを広げてピクニックをしているグループがたくさんいた。確かに今日はいいピクニック日和である。私は、鯖街道の終点に当たる桝形商店街を抜けて、幸神社(さいのかみのやしろ)に向かう。この神社は、794(延暦13)年、桓武天皇の平安遷都に際し、平安京の東北の隅、鬼がいる不吉な方角とされる「鬼門」を守護するために造られた社である。幸神社とは、いかにもめでたい名前であるが、これは、「塞(さい)の神」とも呼ばれ、道祖神として崇められる猿田彦命を祀る神社を意味する。猿田彦命は、悪霊の侵入を防ぐ神であるとともに、交通安全の神、縁結びの神でもあり、小さな神社でありながら、その霊験は多方面にわたっている。

 東北の鬼門除けとして、もうひとつ重要な場所があるため、今出川通を渡って京都御苑に入り、明治天皇生誕の地である祐井の前を通って、前回見学した京都御所の塀のそばまでやってくる。よく見ると、京都御所の塀は東北の角の部分が凹んでいて、軒下に忌串を持った猿の木像が乗っかっている。ここを「猿ヶ辻」といい、猿の木像は、幸神社の猿田彦命と同じく、京都御所の鬼門を守っているのである(見落としてしまったが、幸神社にもこれと同じような猿の木像があるそうだ。)。角を欠いているのは、鬼の角を欠くという意味が込められているという。

幸神社
幸神社
祭神:猿田彦大神ほか
猿ヶ辻
猿ヶ辻

 今出川通の北側は、同志社大学と同志社女子大学の今出川キャンパスとなっており、歴史を感じさせるレンガ造りの建物が並んでいる。そのキャンパスの間に相国寺に向かう参道が伸びている。相国寺は、1392(明徳3)年、室町幕府三代将軍・足利義満が後小松天皇の勅命を受けて建立した禅寺で、義満が太政大臣を兼ねていたことから、太政大臣の中国風の呼び方である「相国」を寺名にしたと考えられている。開山は当代随一の名僧・夢窓国師。京都五山の第二位に序せられ、金閣で知られる鹿苑寺、銀閣で知られる慈照寺も相国寺に附属する塔頭(たっちゅう)であるというからすごい。応仁の乱により往時の堂宇は灰燼に帰し、現在は、豊臣秀頼寄進の法堂(「はっとう」と読む。重要文化財)や慶長年間に造られた宣明などが残る。相国寺は時期によっては非公開となっているが、今は幸い春の特別公開期間中なので、この貴重な法堂、宣明の内部や、方丈庭園を見学することができる。

 禅宗寺院は、南北に三門、仏殿、法堂、方丈を並べるのが基本形であり、法堂はその名のとおり法を説くためのお堂である。残念ながら、相国寺の三門や仏殿は火災により失われてしまったが、法堂は現存する法堂建築としては最古のものだそうだ。桃山文化の勢いを感じさせる大きな建物で、中に入っても広々としていて、天井がとても高い。と、天井を見上げて、まさに文字通り仰天した。そこには巨大な龍の絵が描かれていたのである。狩野光信の筆になる「蟠龍図」で、直径約9m。白木の天井板に白黒で描かれ、天井からこちらをぎろりと睨み付けている。禅寺では、こうした龍の絵を天井に描くことが多いらしいのだが、何しろその大きさに圧倒された。ガイド役のお坊さんが、こちらで手を叩いてみてくださいと、お堂の中央部へ案内する。言われるままに、パーン、パーン、と2度ほど強く手を打つと、お堂の中にビーン、ビーンという反響音が響き渡った。天井板がわずかに凹レンズ状になっているため、こうした「鳴き龍」現象が起きるのだそうだ。天井ばかり眺めていてはご本尊に失礼。金色に輝く本尊釈迦如来も運慶作と伝えられている。別棟の宣明は、いわゆる浴室のことで、内部は一昨年(2002年)に復元されたもの。臨済宗では、入浴にもいろいろと作法が定められており、重要な修行のひとつとされているのだそうだ。方丈庭園も小ぢんまりとした空間に深山の渓谷が表現されていて趣深い。

 相国寺を出て、北に向かうと上御霊神社がある。平安時代には、天災や疫病は、悲憤のうちに亡くなった怨霊のたたりであると信じられており、特に奈良時代から平安初期の政争の犠牲者8柱が「八所御霊」と呼ばれて人々から恐れられた。その鎮魂のために造営されたのが、この上御霊神社や、京都御所の南にある下御霊神社である。上御霊神社もまた、平安京の東北にあたり、鬼門鎮護の一翼を担っている。その他にも、京都の東北方向には、八大神社、狸谷不動院、赤山禅院、崇道神社、そして、比叡山延暦寺と鬼門を護る寺社がたくさんある。

相国寺
相国寺
800円
10:00~16:00
(拝観時期に制限あり)
臨済宗相国寺派
主なみどころ:法堂(写真)と釈迦如来像・蟠龍図、宣明、方丈庭園
上御霊神社
上御霊神社
祭神:崇道天皇など13柱
(5柱は明治時代に増祀)

 八所御霊の数え方には諸説あるが、一般に、早良親王、井上皇后、他戸(おさべ)親王、藤原広嗣、吉備真備、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田麿、菅原道真のうちの8柱とされているようである。橘逸勢、文屋宮田麿、菅原道真の3柱はだいぶ時代が下るが、その他の人々は、平安京を造った桓武天皇と、その義父・藤原百川の一族(藤原式家)に関わりが深い。桓武天皇が特に恐れ、死後「崇道天皇」の号を追贈された早良親王は、桓武天皇の同母弟でありながら、百川の甥にあたる藤原種継暗殺事件への関与を疑われ、自ら食を断って死んだ。桓武天皇の別の弟・他戸親王とその母・井上皇后は、桓武天皇を皇位につける障害となるため、百川によって排斥されたとされる。吉備真備は百川の政敵であり、その吉備真備に反発して乱を起こした藤原広嗣は百川の兄にあたる。桓武天皇の皇子・伊予親王とその母・藤原吉子が憤死した事件の背後には、種継の子供である藤原仲成・薬子兄妹の暗躍があったとされるが、後の「薬子の変」により仲成は処刑され、薬子は自殺する。

 そんな怨霊たちの社である上御霊神社だが、神社を囲む堀には一面にイチハツが植えられていて、鮮やかな紫色の花がちょうど満開になっている。この堀には昔、カキツバタが植わっていて名物となっていたのだが、堀の水がなくなって枯れてしまったため、近年、カキツバタに似ているが、水がなくても育つイチハツを植えたのだそうである。ところで、鬼門が災いしたのかどうか、上御霊神社は、応仁の乱の最初の戦が起こった場所でもある。応仁の乱勃発当初、東軍は相国寺に隣接する幕府・花の御所を占領して布陣し、西軍は後に「西陣」と呼ばれる場所にあった山名宗全の屋敷に陣を敷いていた。両陣の途中には小川という川があって、百々橋付近で激戦になった。小川は1963(昭和38)年に埋立てられてしまったが、百々橋の礎石(といっても応仁の乱当時のものではない。)が今も一つだけ残されている。

表千家
表千家
裏千家
裏千家

 応仁の乱後、小川の周辺には、豊臣秀吉によって寺院が集められ、「寺之内」と呼ばれる寺町が形成された。寺之内には、特に日蓮宗系の大寺院が多い。日蓮宗京都十六本山の一つに数えられる妙覚寺の大門は、聚楽第の裏門を移築してきたものだそうだ。また、小川の跡である小川通には、茶道の表千家と裏千家が軒を並べている。表千家の門は、虫篭窓を持つ白い漆喰の壁に瓦屋根を乗せた門、裏千家は土壁に茅葺き屋根の門と、かなり趣が異なる。門跡寺院の宝鏡寺は見学期間でないようなので、堀川通を横断して、妙蓮寺へ。見学できそうな感じなので、庫裏の玄関先で声をかけると愛想のいいおばさんが出てきて、中を案内してくれた。特に由来を知って入ったわけではなかったが、裏手には十六羅漢になぞらえて石を配置した石庭があり、中でも臥牛石という大石は、聚楽第から移した石だそうである。長谷川等伯の障壁画も多数、蔵しているそうだが、「事前にご連絡いただかないと、収蔵庫のカギを開けられないので、ご覧いただけないんですよ。」とのことで、代わりに妙蓮寺の檀家で、画家の幸野豊一氏が描いたという四季の障壁画を見せていただいた。その他、日蓮上人が入滅した10月頃から咲き始めるという御会式桜や、御所から拝領した山門、江戸時代初期の様式を伝える鐘楼など、なかなか見どころが多く、見学者が私ひとりしかいないのがもったいないくらいである。もっとも、こういうあまり知られていない名所旧跡を探して歩くのが今回の京都一周の目的であったわけだけれど。

妙覚寺
妙覚寺
日蓮宗
主なみどころ:大門(写真)
妙蓮寺
妙蓮寺
500円
10:00~16:00(拝観不可日あり)
本門法華宗
主なみどころ:十六羅漢庭園(写真)、御会式桜、三門、鐘楼

(拝観料・拝観時間は変更されている場合がありますので、御注意ください。主なみどころは、作者の独断によるもので、作者が見ていないものは外していますので、参考程度に御覧ください。)

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