YAGOPIN雑録

この町を歩く

京都御所紫宸殿

● 京都一周ぐるり旅・5

京都御所・春の一般公開

京都模式図

 2004年(平成16)年4月11日、再び名古屋からやってきた友人T氏と京都駅で待ち合わせして地下鉄に乗り換えた。丸太町駅で降りて蛤(はまぐり)御門から京都御苑に入る。この門は1864(元治元)年に長州藩と会津藩・薩摩藩の間で激戦が行われたことで有名である(蛤御門の変)。門の梁には鉄砲の傷跡があるそうだが、よく見えない。この門からまっすぐ歩くと京都御所に着く。

 京都御所は春秋に一般公開が行われているが、今日は平成16年度春の公開の最終日である。公開日以外でも御所を参観することはできるが、1ヶ月前までに宮内庁京都事務所への申込みが必要になる(インターネットでも可能になったようです。)。御所西側にある宜秋門前で手荷物検査を受けて中へ入る。すさまじい行列を予想していたのだが、意外にあっさりと入れた。貴族が参内した御車寄(おくるまよせ)。御車寄といっても車で入れたのは天皇から「牛車の宣旨」をもらった者だけだそうだ。その先は貴族の控えの間。左から諸大夫の間・殿上人の間・公卿の間と身分に応じて3つの部屋に分かれている。少し広くなったところで蹴鞠をしており、見物客が大勢集まっている。古風な装束を身につけた人が鞠を捧げて鞠庭をめぐったり、鞠に向かって頭を下げたりと、いろいろ儀式があって見物客がいらいらし始めた頃、ようやくポーンポーンと音を立てて鞠が宙を舞い始めた。始まってみれば、鞠を落とさずに蹴り続けるというだけの単純なスポーツなので、見物客がぞろぞろと抜けていく。蹴鞠は参加者同士が勝負をするのではなく、参加者全員がどれだけ長く鞠を落とさずにいられるかというスポーツなので、実際見ていてそんなに面白いものでもなかったが、やっている人はそれなりに面白いのかもしれない。蹴鞠というと貴族のスポーツというように思われがちだが、江戸時代までは貴賤を問わず行われていたのだそうだ。

 日華門から紫宸殿の南庭(だんてい)に入る。紫宸殿は天皇の住居である内裏の正殿である。本来は内裏とは別に天皇の政庁である朝堂院があり、その正殿である大極殿で儀式などが行われていたのだが、1177(安元3)年に大極殿が焼失し、やがて即位式などの大きな儀式も紫宸殿が用いられるようになった。現在の建物は檜枝葺きの寝殿造りで、1855(安政2)年の再建。内部に天皇の座る高御座(たかみくら)と皇后の座る御張台(みちょうだい)がある。高御座からは南庭左手に左近の桜、右手に右近の橘が植わっており、正面に承明門、その先に建礼門が見えることになるはずである。

 紫宸殿の裏側には天皇の日常生活の場であった清涼殿がある。天皇の座る御倚子(ごいし・椅子)があり、その前に狛犬と獅子が置かれている。狛犬と獅子は、もともと聖武天皇が愛玩していた狆をかたどって、天皇の守り神としたものという。室町時代以降は清涼殿よりもさらに奥に書院造りの御常御殿が設けられ、こちらが天皇の日常の住居になった。御常御殿の前には御内庭が広がる。御常御殿に行くには、小御所・御学問所の前にある御池庭を通らなくてはならない。

京都御所紫宸殿
京都御所
主なみどころ:紫宸殿(写真)、清涼殿
蹴鞠の様子
蹴鞠の様子

 一通り御所を見学して外に出ると御苑の桜は今が真っ盛りである。御苑のすぐ隣には三條実萬(さねつむ)・実美父子を祀った梨木神社がある。数百株の萩が植わり、「萩の宮」とも呼ばれるこの神社は、もともと三條家の邸があった場所に明治天皇の思し召しで造られている。その先には、紫式部が『源氏物語』を執筆した屋敷の跡とされる廬山寺がある。本堂内には源氏物語絵巻の複写や貝合せの貝など『源氏物語』に関連する資料が展示されており、庭には新村出揮毫の「紫式部邸宅址」の碑が建つが、当時からの遺構が残っているというわけではない。廬山寺自体はおみくじを考案したことで知られる元三大師が938(天慶元)年に創建した寺院で、皇室との縁が深く、境内には慶光天皇陵や歴代天皇の皇子・皇女の陵墓が数多くある。もっとも慶光天皇(閑院宮典仁親王)は第119代光格天皇の父君で自身は天皇に即位していない。光格天皇が「太上天皇(上皇)」の尊号を贈りたいと幕府に申し出たが、老中松平定信が反対し、明治になってから「慶光天皇」の諡号が贈られたのである。

廬山寺
廬山寺
400円
9:00~16:00
圓浄宗
梨木神社
梨木神社(萩の宮)
祭神:三條実萬・実美
9月第3日曜は「萩まつり」

 実はここまで京都一周のコースからは大きく外れているので、コースに戻ろうと東に向かって歩き出す。鴨川を渡る荒神橋の手前に「従是東北 法成寺址」という小さな碑が立っていた。法成寺は藤原道長が晩年に造営した寺院で、道長が亡くなったのもこの寺だった。「御堂」と呼ばれた法成寺は、金堂・五大堂・法華三昧堂・僧房・東塔・薬師堂・釈迦堂・十斎堂など壮大な伽藍を誇り、藤原道長を指す「御堂関白」「法成寺殿」の呼称もこの寺から来ているが、地震や度重なる火災によって鎌倉末期には跡形もなくなってしまった(なお、道長は後一条天皇の摂政には就任したが関白にはなっていない。)。

 昼食後、鴨川を渡りようやく前回のルートとつながる。若王子神社、新熊野神社とともに京都三熊野に数えられる熊野神社があり、近くにはやはり修験道や熊野信仰と深く関わる聖護院がある。聖護院といえば聖護院かぶら、そして聖護院八ツ橋。千枚漬けの材料となる聖護院かぶらは、享保年間に当時、聖護院村と呼ばれていたこの地で栽培が始まったものだが、近辺はすっかり市街化されており、現在では亀岡市など京都市外で多く生産されるようになっている。一方の聖護院八ツ橋は、この先の金戒光明寺に葬られた筝曲家・八橋検校を偲んで琴の形の焼き菓子を売り始めたのが由来である。

 少しずつ坂を登っていくと「黒谷」の別称を持つ金戒光明寺に着く。1175年(承安5)、法然上人が初めて草庵を結んだ場所と言われ、知恩院、知恩寺、清浄華院と並ぶ浄土宗四力本山のひとつとされる。1860(万延元)年建立の三門には後小松天皇の勅額「浄土真宗最初門」がかかり、境内には豊臣秀頼再建の阿弥陀堂、江戸初期の三重塔などが建ち並ぶ。幕末期には京都守護職に任命された会津藩主・松平容保がこの寺に本陣を置いていた。御影堂などの建物内部は通常非公開だが、大河ドラマ『新選組!』にちなみ、内部を開けて関係資料の展示を行っていた。金戒光明寺は京都市街を見下ろす高台に建ち、特に京都御所や東海道を監視するには絶好の位置である。東海道を挟んで反対側にはやはり高台に建つ知恩院があり、徳川将軍家とゆかりの深い浄土宗寺院を東海道の両側に城砦のように配置したのは戦略上の観点からと思われる。しかも驚いたことに、この寺からは遠く大阪城までも見通すことができるという。京都・大阪間には淀川が流れ、ずっと平地が続いているが、京都・大阪府境では男山(石清水八幡宮)と天王山が両側から迫っていて視界を狭めている。しかし、地図上で金戒光明寺から大阪城に向けて直線を引くと、ちょうどうまい具合に男山と天王山の間をすり抜けて、大阪城までまっすぐ到達することができるのである。

法成寺址
法成寺址
金戒光明寺
金戒光明寺
浄土宗
主なみどころ:三門(写真)、阿弥陀堂、文殊塔

 金戒光明寺から北に向かうと、紅葉の名所として知られる真如堂がある。984(永観2)年創建の天台宗寺院で、正式名称は、真正極楽寺という。創建以来何度か寺地を変えており、現在地には1692(元禄5)年の火災の後に移転してきた。三門をくぐると右手に三重塔がそびえ、正面には重要文化財の本堂が建つ。いつもは庭園も見られるはずだが、今日はお茶会があるとのことで、拝観できなかった。仕方がないのでまた来よう。できれば今度は紅葉の時期に。

 真如堂を出て、陽成天皇陵や後一条天皇陵に立ち寄りつつ、吉田山(神楽岡)の方へ向かっていくと吉田神社がある。859(貞観元)年、平安京の鬼門鎮護として、藤原山蔭が春日明神を勧請したのに始まり、平城京の春日大社、長岡京の大原野神社とともに、藤原氏の氏神三社と並び称された古社である。神官を務めた吉田家からは『徒然草』の作者・吉田兼好や、唯一神道(吉田神道)の創始者・吉田兼倶を輩出している。本殿は江戸初期の慶安年間建築の春日造り。奈良の春日神社同様、朱塗りの社殿が鮮やかである。

真如堂
真如堂
500円
9:00~16:00
天台宗
吉田神社
吉田神社
祭神:健御賀豆知命、伊波比主命、大之子八根命、比売神

 吉田神社のすぐ前には京都大学の吉田キャンパスが広がっている。京大の前身は1869(明治2)年、大阪で創立した舎密局(「舎密」はオランダ語で化学を意味するchemieの音訳で「せいみ」と読む。)及び洋学校であり、これらの学校は何度かの改名を経て1886(明治19)年には「第三高等中学校(1894年からは第三高等学校)」となった。やがて大阪の校地が手狭になり、1889(明治22)年に現在地へ移転、1897(明治30)年に京都帝国大学が創立し、戦後、第三高等学校と京都帝国大学が合わさって現在の京都大学となっている。正門を入ると、正面に1925(大正14)年に建てられた時計台の建物が見える。かつては講義施設や事務局として使われた建物だが、2003(平成15)年からは京都大学百周年時計台記念館となり、現在ではホールなどとして使用されている。法学部・経済学部・教育学部・工学部などの建物が並ぶ構内を通り抜けて今出川通に出る。

 今出川通と東大路通の交差点は「百万遍」といい、バス停の名前も「百万遍」となっている。「百万遍」の名は、近くにある浄土宗四力本山のひとつ・知恩寺にちなむ。1331(元弘元)年に疫病が流行ったとき、この寺の住職だった善阿上人が御所にこもって百万遍の念仏を唱えたところ、疫病がおさまったことから、後醍醐天皇が知恩寺に「百万遍」の号を賜ったという。三門をくぐると正面に1756(宝暦6)年建築の御影堂が建つ。

 少し休憩した後、東に向かい京阪電鉄と叡山電鉄の乗換駅である出町柳駅に着く。出町とは大原口から京都を出たところにある町という意味で、ここから鯖街道をずっと下っていくと若狭の小浜に至る。出町はまた、賀茂川と高野川が合流し、鴨川と名を変える地点にもあたっている。賀茂川と高野川に挟まれた場所には、下鴨神社と通称される加茂御祖(かもみおや)神社が鎮座する。賀茂御祖神社は、我が国最古の神社のひとつとも言われる神社で、平安京が出来てからは都の守護神として特別の崇敬を集めてきた。境内には「糺(ただす)の森」が約12万平方キロメートルに渡って広がり、その奥に社殿が建ち並ぶ。1863(文久3)年再建の本殿は賀茂建角身命を祀る西殿と玉依姫命を祀る東殿に分かれており、どちらも国宝である。1628(寛永5)年に建てられた朱塗りの楼門など重要文化財は53棟にも及ぶ。社殿を囲む廻廊の中に入ると左を見ても右を見ても重要文化財だらけといった様相で、その歴史から言っても、現存する文化財を見ても本当にすごい神社である。上賀茂神社(賀茂別雷神社)とともに世界遺産の指定も受けている。

 今日は気持ちのいい気候だったが、10時半から17時半まで7時間も歩き回ってさすがに疲れたので、ここで終わりにする。次回は洛北の名所を回っていく。

京都大学
京都大学
賀茂御祖神社
賀茂御祖神社(下鴨神社)
祭神:賀茂建角身命、玉依姫命
世界遺産
主なみどころ:本殿(国宝)、楼門(写真)、糺の森

(拝観料・拝観時間は変更されている場合がありますので、御注意ください。主なみどころは、作者の独断によるもので、作者が見ていないものは外していますので、参考程度に御覧ください。)

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