YAGOPIN雑録

この町を歩く

京都御所紫宸殿

● 京都一周ぐるり旅・7

平安京の北を護る守護神たち

京都模式図

 2004(平成16)年5月2日、一条戻り橋でバスを降りる。天気は薄曇り。バス停から歩いてすぐのところにある一条戻橋は、堀川にかかる小さな橋である。918(延喜18)年、文章博士・三善清行が亡くなったとき、橋の上で息子の浄蔵が柩に泣きすがると、清行が生き返ったために戻橋の名がつけられたという。そのほかにも、一条戻橋は、渡辺綱が鬼の片腕を切り落としたり、陰陽師・安倍晴明が式神(陰陽師が使う鬼)を隠しておいたりと、不思議なエピソードを数多く残している。豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休の首がさらされたのもこの一条戻橋の上だった。星の動きにより宮中の異変を予知した安倍晴明は、かつて、一条戻橋のすぐ近く、平安京大内裏の北東の鬼門を護る場所に屋敷を構えており、その跡は現在、晴明神社となっている。ここには、1995(平成7)年まで使われていた一条戻橋の親柱が移設され、奇怪さの中にも愛嬌のある式神の石像が傍らに置かれている。五芒星を象った神紋があちこちに見られるその境内は、このところの陰陽師ブームを反映してか、大勢の参拝客で賑わっていた。

一条戻橋
一条戻橋
晴明神社
晴明神社
祭神:安倍晴明
主なみどころ:式神石像と旧一条戻橋親柱(写真)、晴明井

 晴明神社の少し北には西陣織会館がある。応仁の乱で西軍の陣地となり、西陣の地名の由来となった山名宗全の屋敷の跡も近くにある。西陣織は、平安遷都以前、渡来人の秦氏が絹織りの技術を伝えたことに始まり、平安時代には宮廷の織物として用いられていた。その後、応仁の乱で職人たちが離散したものの、乱後には再び職人たちが京都に戻り、明治維新後には、ジャガード機など西洋の技術を取り入れて発展することとなった。1801年にフランス人のジャカールが発明したジャガード機は、穴をあけた紋紙に従って、たて糸が一本ずつ動き、複雑な模様を織り出すことができるように工夫された機械である。西陣織会館では、色鮮やかな西陣織製品の販売を行っているほか、ジャガード機で西陣織を織り出す実演も行っている。さらに北に進み今出川通を渡ると、白峯神宮がある。白峯神宮は、保元の乱に敗れて讃岐国に流された崇徳上皇と、称徳女帝により廃位され淡路島に流された淳仁天皇を祀っている。明治時代に造られた比較的新しい神社で、それ以前、この場所には、蹴鞠の宗家である飛鳥井家の屋敷があり、「まりの精大明神」が祀られていたという。そんなこともあって、今でも白峯神宮の境内には、「蹴鞠の碑」が立っており、球技関係者の崇敬を集めているのだそうである。

西陣織会館
西陣織会館
主なみどころ:西陣織実演(写真)
白峯神宮
白峯神宮
祭神:崇徳天皇、淳仁天皇
主なみどころ:蹴鞠の碑(写真)

 西陣あたりの名所をめぐるため、少しコースを外れたが、ここからは、前回の終点・妙蓮寺の前を通って、本来、京都一周コースの基準としていた北大路通へと向かう。陽が差して、青空が見え始めてきた。北大路通の北側に広大な敷地を構えているのは、洛北紫野の名刹・大徳寺。夢窓疎石と並び称される名僧・宗峰妙超(大灯国師)の開山である。大徳寺は、同じ臨済宗でも、室町幕府の保護を受けた夢窓疎石の流れを受け継ぐ一派(五山派)とは一線を画したため、一時衰退することとなったが、応仁の乱後に『一休さん』こと一休宗純を住持に迎えて復興した。戦国時代には大名たちが多くの塔頭(附属寺院)を創建し、今も22の塔頭を抱えている。

 境内に入ってすぐ左手の塔頭は、小早川隆景の創建した黄梅院。京都市が立てた案内板を見ると「方丈・玄関は創建当時のもので、桃山時代の代表建築」「庭園として枯山水様式を取り入れた千利休による道中庭」「茶室自休軒は伏見城遺構を移したもの」などと魅力的な字句が並んでおり、門の中には鮮やかな新緑と苔の緑に覆われた美しい庭が垣間見えるが、残念ながら「拝観はできません。」との看板が立っている。行き過ぎて隣の龍源院は、能登の領主・畠山氏や九州の大友氏の創建。こちらは拝観を受け付けている。それほど広いお寺ではないにも関わらず、4種類の庭があって、聚楽第の礎石を阿吽に見立てた「滹沱底(こだてい)」、大海原を表現した石庭に鶴島・亀島・蓬莱山を配した「一枝坦」、その裏には、苔を海として、須弥山を置いた「竜吟庭」、そしてわずか2坪ほどの小空間を使った「東滴壺」とそれぞれ違った味わいがある。大自然が持っている幾何学的・法則的な姿と、複雑・多彩な様子が、少しの草木と、岩・砂・苔というシンプルな構成で見事に表現されており、題意を汲めば、「一枝坦」「竜吟庭」はまるで神仙の世界へ向かう筋斗雲からの眺めのよう、逆に「東滴壺」は水のしたたる様をカメラで接写したかのように見える。また、白々とした石庭は、月明かりを受けて、夜間の照明の役割を果たすという機能的な側面も持っていた。もちろんこのお寺の見どころは、庭だけではなく、方丈の建物も室町時代の重要文化財。寺名にちなんだのか、襖に描かれた墨絵の龍が部屋中をのたくっている。

 大徳寺は、勅使門、三門、仏殿、法堂(はっとう)、寝堂、庫裏・方丈が一直線に並ぶ伽藍配置となっている。朱塗りの三門「金毛閣」は、一階建てであったものを、千利休が二階建てに改めた。利休は、草履を履いた自らの木像を門の二階に設置したため、「門を通る者を草履で踏みつけにするとは何事ぞ」と、秀吉の怒りを買い、それが利休切腹の直接の原因になったと言われている。利休の木像は、利休の首とともに一条戻橋にさらされ、磔にされた。この金毛閣の内部や、国宝の方丈・唐門は参観できない。常時参観できるのは、先ほど見た龍源院のほか、高桐院、大仙院、瑞峯院の4塔頭。それに加え、ゴールデンウィーク期間中の今日は、芳春院を特別拝観することができる。芳春院は、大河ドラマ『利家とまつ』で松嶋菜々子が演じた前田利家夫人・まつが建立した寺院で、芳春院の名もまつの法号に由来する。本堂の前は枯山水の石庭、裏には池のある山水庭園。飽雲池という名を持つその池には、打月橋という橋がかかり、呑湖閣という楼閣が建っている。雄大な名前の割に小ぢんまりとした雰囲気のこの庭は小堀遠州の作庭で、二層の呑湖閣は鹿苑寺金閣・慈照寺銀閣・西本願寺飛雲閣と並び「京の四閣」のひとつと称されるそうだ。

 もうひとつくらい、塔頭を参観していこうと、かつて沢庵宗彭が住職を務めた大仙院を訪れる。大仙院の方丈は室町時代に建てられた国宝で、重要文化財の障壁画が内部を飾り、千利休が秀吉に茶をたてた茶室もある。その周囲を囲む石庭は、水の流れを表現しており、蓬莱山を模した岩から流れ出した水が、石橋の架かる小川になり、船形の岩が浮かぶ大河を経て、大海に至るというストーリーがつくられていて面白い。案内してくれたお坊さんもなかなか話巧みで、「気心腹己人」と書かれた掛け軸を指して、これはうちの住職が書いたものですが、なんと読むか分かりますか、「気は長く、心はまるく、腹立てず、己は小さく、人は大きく」と読むのです、と見ればなるほど気の字は長く、心の字はまるく、腹の字は横を向き、己は小さく、人は大きく書かれている。そのご住職も、山積みにした著書を前に腰掛けて、大勢の参拝客を相手に面白い話をして笑わせたり、揮毫をしたりと忙しい。私も参拝記念のパンフレットに自分の名前を書いていただいた。

大徳寺
大徳寺
臨済宗大徳寺派
主なみどころ:勅使門、金毛閣(写真)
大徳寺の塔頭
大徳寺の塔頭
今回拝観したのは以下の塔頭
・龍源院(写真は庭園・東滴壺)
350円、9:00~16:30
・芳春院
非公開。特別拝観は、(財)京都古文化保存協会主催。
・大仙院
400円、9:00~16:30

 大徳寺から南西の方角には、船岡山がそびえている。山といっても標高は112mしかなく、京都タワー(131m)よりも低いくらいなので、「そびえている」という表現は適切でないかもしれないが、この山は平安京にとっては大変重要な山である。すなわち平安京は東の青龍(川を表す。)、西の白虎(道を表す。)、南の朱雀(池または海を表す。)、北の玄武(山を表す。)の四神に護られた地とされており、玄武になぞらえられた船岡山から、平安宮・朱雀門・朱雀大路・羅城門が南北に一直線に並ぶように造営されているのである。この船岡山には、かつて秀吉が主君・織田信長の霊を祀る「天正寺」を創建しようとしたが果たせず、明治時代になって、信長を祭神とする「建勲(たけいさお)神社」が造られた。石段を登って神社にお参りしてから、さらに木々の生い茂る道を歩いて、京都が一望できる場所へと向かう。平安時代であれば、おそらく整然と区画された条坊都市が見渡せたのだろうが、1200年の歳月は都市の姿を大きく変えてしまっており、町屋の間にマンションなども建て込み始めているのが目に付く。

建勲神社
建勲神社
祭神:織田信長、織田信忠
船岡山からの眺め
船岡山からの眺め

 昼食後、北大路通を西に進んでいくと、正面右手に大文字山が見えてくる。毎年8月16日の夜には五山送り火の一つ「左大文字」が点される山で、よく見ると「大」の字の形に木が生えていない場所がある。五山送り火は、東山如意ヶ嶽の「大文字」、松ヶ崎の「妙」「法」、西賀茂船山の「船型」、嵯峨蔓茶羅山の「鳥居形」と、この「左大文字」の五つだが、それぞれ始まった時期は異なっており、由来もあまりよくは分かっていないそうだ。このあたりが京都一周の北西の角にあたり、道路は北大路通から西大路通へとつながっている。金閣寺(鹿苑寺)の近くに来たが、さすがにゴールデンウィークだけあって、付近は駐車場に入ろうとする自家用車や観光バスでごった返しており、お寺の中も大混雑が予想されたので、今回は寄らずに通り過ぎる。通りの反対側は、静かな住宅地となっており、その一角に花山天皇陵がある。花山天皇は、藤原道長の父・兼家の謀略によって退位させられた天皇である。『大鏡』によれば、最愛の女御を亡くして落ち込んでいる天皇に対し、道長の兄・道兼が出家を勧め、「帝が仏道に入られるのであれば、私もお供させていただきます。」というようなことを言う。ところが、天皇が剃髪を終えたとたん、道兼は、「父・兼家に出家のことを話しておりませんでした。」と言って退出し、そのままとんずらしてしまうのである。天皇陵は少し分かりにくい場所にあったが、無事見つけることができ、再び西大路通に戻る。通りを渡ったところにある敷地神社は、安産の神として信仰されており、お守りの中に入っている わら に節があれば男の子、なければ女の子を授かるということから、「わら天神」の名で知られている。とりあえず今のところ安産には用がないので、形だけお参りしてそそくさと退散する。

 少し南に下ったところにある平野神社は、平安京が造られた794(延暦13)年に、桓武天皇の命により造営された古社である。鳥居には「平野大社」の扁額が掛かっており、なるほど大きな神社だが、連休中というのに人影はまばらである。桜の名所だそうなので、もうひと月ほど前なら大混雑だったのかもしれない。本殿は、入母屋妻入りの春日造りの社殿が2つ連結されていて、それがさらに左右に2つ並ぶ独特の造りとなっている。平野造りまたは春日比翼造りというのだそうで、慶長年間に造られた重要文化財。2×2=4つの社殿があることになり、祭神も4柱ある。第一殿に祀られているのは染織の神である今木神(いまきのかみ)、第二殿に祀られているのは、かまどの神である久度神(くどのかみ)、第三殿に祀られているのは、斎火の神である古開神(ふるあきのかみ)。あまり聞いたことのない神様ばかりだが、もとは大陸からの渡来人が祀っていた神であったのだという。そして、最後の第四殿に祀られている比賣神(ひめかみ)は、桓武天皇の母である高野新笠姫。2001(平成13)年の天皇誕生日に「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じます。」と天皇陛下が発言されているとおり、高野新笠姫は、百済の血を引いていたと言われている。平野神社は、桓武天皇が亡き母のために、百済と縁の深い神々を祀った神社なのである。

敷地神社
敷地神社
祭神:木花開耶姫命
平野神社
平野神社
祭神:今木神、久度神、古開神、比賣神(高野新笠姫)
主なみどころ:本殿

 平野神社のすぐ近くには、北野天満宮がある。藤原氏によって九州・大宰府に流され、死後、都に崇りをなした天神・菅原道真の怨霊を鎮めるため、947(天暦元)年に創建された神社で、文章博士だった道真にあやかり、学問の神としてよく知られている。現存の社殿は、豊臣秀頼が再建したもので、国宝である。軒下には龍虎その他の動物を象った極彩色の彫刻が並んでおり、特に天神様のお使いである牛は真正面の一番いい位置を占めている。

 今日はたくさん神社を見てきたが、最後にもう一社、大将軍八神社に立ち寄って、おしまいにしたいと思う。大将軍八神社は、平安遷都の794(延暦13)年、勅願により、平安京大内裏の西北の角に造られた大将軍堂に始まる。東北の方位は、古来、不吉な方位「鬼門」として畏れられているが、平安時代には西北の方位も「天門」として畏れられていた。大将軍堂は、その天門守護のため、星の神である大将軍を祀ったものであり、後に神仏習合によってスサノオノミコトと八人の王子が祭神とされて、大将軍八神社と改称された。星の神を祀る神社らしく、本殿の正面には星型のついた石碑がある。右手には、方徳殿というコンクリート造りの大きな建物があり、建物内には平安中期から鎌倉時代にかけてつくられた大将軍の神像80体が安置されている。重要文化財に指定されているこれらの神像は、普段は予約がないと見学できないが、5月と11月の1日から5日までは特別に公開されており、本日5月2日は、その特別公開日にあたっている。

 拝観料を支払うと、神像の安置されている窓のない薄暗い部屋に案内された。見学者は他におらず、私の周りには80体の神像が取り囲んでいるのみである。像は木像で数十センチから等身大に近いものまである。すべての像は少しずつ異なっており、二つと同じものはない。いかめしい古代の甲冑を身にまとった武装像が50体、平安貴族のような衣冠束帯をまとった束帯像が29体あり、1体だけ子供の姿をした童子像がある。武装像は四天王像などを想起させるが、束帯像はあまり類例が思い当たらない。全体に表情や動きには乏しい感じがするが、写実性は比較的高く、ひとりで見学していると、何やら誤って神様の世界に迷い込んでしまったような気がしてくる。

 今日は、大内裏の北東の角にある晴明神社から、ちょうど真北にあたる船岡山を経由して、北西の角にある大将軍八神社に至るコースだった。晴明神社、船岡山、大将軍八神社は、いずれも平安京の北を護る守護神の役目を果たしており、さらに晴明神社と大将軍八神社は、ともに星との関わりが深いのが興味深い。次回は、そうした神々が護ってきた大内裏の内部に入り、平安宮の遺跡などを見て回ろうと思う。

北野天満宮
北野天満宮
祭神:菅原道真
主なみどころ:本殿(国宝・写真)、三光門
大将軍八神社
大将軍八神社
祭神:素戔嗚尊、八柱神子神
主なみどころ:大将軍神像(特別拝観日以外は要予約。500円)

(拝観料・拝観時間は変更されている場合がありますので、御注意ください。主なみどころは、作者の独断によるもので、作者が見ていないものは外していますので、参考程度に御覧ください。)

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