YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

陽明門

● 日光街道・8

徳次郎宿~神橋

 2019(令和元)年9月15日、三連休の中日。ここ数日で暑さがようやく収まってきた。この日、妻子は用事があり、ひとりで時間を持て余すのも勿体ないので、約1年ぶりに日光街道を歩いてみようかと思う。前回、猛暑に負けて予定外のところで打ち切ってしまったので、最終回の今回は少し強行軍になりそうである。なるべく早い時間から歩き始めた方がいいので、9時前には前回の終点の榊里バス停に着いて歩き出す。思ったより日差しが強くてまだまだ暑いが、木陰に入ると、ひんやりして心地よい。青空の下に稲穂の実った田んぼがずっと広がっていて、遠くの方に日光の山々が見えている。

 前回同様、雑木林の並木道が続いたり途切れたりしている。享保年間、疫病が流行ったときに造られた「お願い地蔵」というお地蔵さんがあって、自分の悪いところと同じところに赤い布を張ると悪いところが治るのだそうである。このあたりから並木に杉が多くなってきた気がするが、まだ他の木も混ざっている。長く中断したため13年前から歩いている宇都宮市をようやく脱出して、最後の日光市に入る。日光市は、2006年に旧日光市、旧今市市ほか5つの市町村が合併してできたので、高山市・浜松市の次に面積の大きな自治体となっている。

 日光街道は、ずっと国道119号になっていて、ひっきりなしに車が通っている。並木道の真ん中は車が通るので、人は基本的に並木道の外側を歩かなくてはならない。途中で道が二股に別れるところがあって、どちらも国道119号なのだが、ほぼすべての車は並木道でない方を通るので、ようやく並木道の真ん中を歩けるようになった。「並木寄進碑」があって、杉並木の由来が書いてあるようである。この杉並木を寄進したのは、徳川家康の側近だった松平正綱で、日光街道・日光例幣使街道・会津西街道の3街道約10里に20年かけて杉並木を植えたのだそうである。他の人がやらない方法で忠誠心を見せるのは賢いやり方だと思う。正綱は当初「寄進するのがたかが杉とはケチ臭い」というような陰口を叩かれたそうだが、その功績は日光社参をする歴代将軍の記憶に残ったことであろう。「知恵伊豆」と称され、老中まで昇進した松平信綱は正綱の養子なのだそうだ。ここからが東照宮の神領で本格的な杉並木の始まりとなる。

 車も人もほとんど通らない中、巨木の連なる並木道を気持ちよく歩く。並木の杉にはオーナー制度があるようで、ときおり名札のついた杉の木がある。日光杉並木街道は、普通地域、保護地域、特別保護地域の3種類に分かれているようで、ここは右側が特別保護地域、左側が保護地域のようだ。大沢宿に入るところで別れていた道が合流し、杉並木がなくなって両側とも普通地域になる。大沢宿では、本陣・問屋場の表示など宿場らしいものは何も見かけず。宿場を過ぎると再び道が別れ、途中からは車両通行止になって、より歩きやすくなる。一般的な榎ではなく杉の木が植わった水無一里塚がある。並木の脇に水がたくさん流れているところがあるのに「水無」とは、昔は水に苦労したところなのだろうか。街道は、延命地蔵尊のところで再び車の道と合流し、また別れたり合わさったりしながら続いていく。33里目の一里塚は、根本に大きな空洞のある杉の木が植わっていることから「並木ホテル」の名がある。確かに人が入れるくらいの空洞なので、ちょっと中に入ってみたが、宿泊したくなるほどの居住性はなさそうだった。近くにあったはずの、桜と杉の木が一体化したように見える「桜杉」は、見つけられずに通り過ぎてしまった。杉並木の中を東武鉄道の鉄橋が横切る。遠くでSLの汽笛が聞こえたので、もしかしてSLも杉並木を横断するのだろうかと思ったが、SLは鬼怒川の方に行くので、ここを通ることはなさそうだ。

並木寄進碑
並木寄進碑
並木ホテル
並木ホテル

 杉並木を抜けて今市宿に着く。左後方からも日光例幣使街道の杉並木がやってきて、合流するところに追分地蔵尊がある。小山宿の先の喜沢の追分で別れた松尾芭蕉と弟子の河合曽良は、ここまで日光例幣使街道を歩き、ここで日光街道に戻っている。少し歩くと右手奥に二宮尊徳を祀る報徳二宮神社があり、鳥居の両側にちょっとユーモラスな尊徳の座像と立像が建っている。社殿の裏には尊徳の墓がある。というか、尊徳の墓の前に神社を造ったというのが正しいようである。尊徳は小田原藩の飛び地・下野国桜町領の復興に尽力し、最晩年には幕府に乞われて、日光神領の立て直しに取り組んでいた。尊徳は農民に勤労し分度(節約)して残った資金を推譲(再投資)に充てることを教え、困窮者には資金を無償で貸し付けるなどの「報徳仕方」により村々を立て直したのだそうだ。町の中には珍しく道の駅があり、駐車場が満車になって大混雑している。時刻はちょうど12時前。お食事処はまだ入れそうなので、ここでお昼にする。名物のゆばを食べずにヤシオマスというニジマスの丼を頼んだ。食べ終わって、街道から少し離れたところにある真新しい日光歴史民俗資料館と二宮尊徳記念館に立ち寄り、日光の歴史をおさらいしておく。日光は、8世紀に男体山、女峰山、太郎山の日光三所権現を勝道上人が祀ったことにはじまり、日光の二荒山神社と輪王寺では、これらの垂迹神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)とその本地仏(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を祀っている。日光山内にあり、世界遺産「日光の社寺」に指定されているのは、二荒山神社、輪王寺に徳川家康を祭神とする日光東照宮を加えた二社一寺である。時刻はまだ13時なので、このペースで歩けば、街道を歩き切った後、少し参拝の時間がとれそうである。

日光例幣使街道との追分
日光例幣使街道との追分
左が日光街道、右が日光例幣使街道
報徳二宮神社
報徳二宮神社

 再び静かな杉並木を歩く。右側は杉並木公園になっていて、大きな水車、朝鮮通信使今市客館跡の碑、名主の居宅だった旧江連家、報徳仕方により建てられた農家などいろいろなものがある。公園の下の方にある円筒分水は、宇都宮市の水道用水を分けるのにも使われているようだ。宇都宮市の水道水の一部は、ここ今市にある浄水場から日光街道に沿って送られており、前回見た第六号接合井のほか、今回は第三号接合井を街道沿いで見かけた。接合井は水圧を調整する施設で、標高が30m変わるごとに設けられているそうだ。今日の出発点は標高230m、今市は標高400mほどなので、特に上り坂という感覚がないまま170mも上がっている。杉並木の中に「砲弾打込杉」という傷のある杉があって、これは戊辰戦争のときの砲弾で傷ついた木なのだそうだ。近くに大鳥圭介率いる幕府軍が布陣していたらしい。歩きにくい国道に戻った先には、高さ38m、周囲5.35mと並木でいちばん大きい「並木太郎」という杉がある。国道は渋滞していて、歩いた方が早いくらいになっている。東武鉄道の鉄橋をくぐった先にあるJR日光駅は大正時代の洋風建築で、その先の東武日光駅は、山小屋風の建物である。杉並木はここで終わって、この先は日光の門前町を行く。日光駅のあたりは標高530m、日光山内は標高600m以上あるので、門前町はずっと上り坂が続く。上り坂の上に日を遮る並木がなくなったので非常に暑い。コンビニで冷たい飲み物を買って飲みながらなんとか歩く。坂をだいぶ上ったあたりは鉢石町といい、日光街道最後の鉢石宿である。鉢石という最大幅3.6mの大石が保険会社のビルの横手に埋まっていて、それが宿場の名前の由来だそうである。曽良の日記には「日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿」とあり、日光を参拝した後、この宿場に宿泊しているようだ。

杉並木
杉並木
鉢石
鉢石

 鉢石を過ぎると、家康のブレーンで日光中興の祖である天海上人の像と、戊辰戦争の際、官軍の進軍を止めて東照宮を戦火から守った板垣退助の像が見える。その先が日光街道の終点である神橋である。この神橋を渡り切ったところで、私の日光街道の旅も完結ということにしたい。神橋を渡るのは有料なので、橋の手前でチケットを買おうとしたら、なぜか断られる。よく見ると「只今、結婚渡橋神事中。もう少々お待ちください。」という札が出ているではないか!しかたないので、足掛け15年、8回に渡った日光街道歩きのクライマックスを目前に、参列者が神事をしたり、赤い橋の上に並んで記念撮影をしたりするのを30分近く待って、参列者が全員橋を渡りきってから私も橋を渡る。神橋は、石の橋脚の上に木製の橋桁を載せたもので、重要文化財である。橋の下を流れる大谷川の水は透き通って真っ青に見え、とても美しい。15時10分に渡り切って、日光街道をすべて歩き通した。五街道では東海道に次ぐ二本目の踏破である。途中、10年以上の中断期間があるので、前半の記憶がやや怪しいが、峠がひとつも無かったのと、国道を歩く区間が多かったので、最後の杉並木を除くと、あんまり街道を歩いている感じがしなかったかなというのが正直な感想である。

 最後に思わぬ待ちぼうけをくらったものの、予定よりは早く着いたので、日光街道の先にある世界遺産「日光の社寺」も少しだけ覗いていくことにする。思えばここに来るのは学生時代のサークル旅行以来25年ぶりである。日光街道の杉並木にはほとんど人がいなかったのに、ここには国内外の老若男女がひしめき合っている。行政法の判例に出てきた日光太郎杉が道路際に生えており、そこだけ歩道がないので少し危ない。表参道の長坂を上り切ると輪王寺の伽藍が見えてきた。最後は久しぶりに芭蕉翁に登場いただこう。

卯月朔日御山に詣拝す。往昔此御山を「二荒山」と書しを空海大師開基の時「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや今この御光一天にかかやきて恩沢八荒にあふれ四民安堵の栖穏かなり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。

あらたふと青葉若葉の日の光

 私は、輪王寺におまいりした後、日光東照宮は、三猿のいる神厩、日暮らしの門と呼ばれる絢爛豪華な陽明門と、家康が眠る奥宮だけ眺め、二荒山神社は電車の時間の関係でまた今度ということにした。駅までの途中、昼に食べ損ねたゆばをお土産に買って帰った。スマホの万歩計で約37,000歩、距離は約25km。

神橋
神橋
陽明門
陽明門

【完】

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