YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

陽明門

● 日光街道・1

日本橋~浅草

 2005年5月22日14時30分、私は再び日本橋のたもとに立った。ここから南に向かい、東海道を歩き始めたのは5年以上前のこと。その東海道を歩き終えてから1年以上が経過し、運動不足も嵩じてきたので、そろそろ別の街道を歩こうと思ったのだ。今度は日本橋から北へ36里余(144km)離れた日光東照宮を目指し、日光街道を歩いていくことにする。日光街道は、東海道・中仙道・奥州街道・甲州街道と並び、五街道のひとつに数えられる。新井白石の進言によって、五街道のうち山を通る中仙道は「中山道」に、海の近くを通らない日光・奥州・甲州の各海道(街道)は、それぞれ「日光道中」「奥州道中」「甲州道中」に名称を改められているが、日光道中については、「日光街道」の方が通りがいいので、以後も「日光街道」と呼ぶことにする。

 日本橋のすぐ北側には、5年前にはなかった三越本店新館のビルが建っている。南側の東急百貨店跡地にはコレド日本橋が建った。丸の内や六本木などと同じく、日本橋地区もこのところ再開発があちこちで行われ始めているようだ。日本橋の上に架かる首都高速道路の高架橋も撤去して別のところを通す検討がされ始めた。首都高速の撤去はそう簡単にできるとは思えないが、しばらくしてここを訪れたときにはまた風景が大きく変わっているのかもしれない。三越本店新館の隣には1914(大正3)年から増改築を続けられている三越本店(旧館)。通りを1本挟んだところに建つ三井本館は、1929(昭和4)年に建てられた重要文化財だが、現在、隣接地の再開発と合わせて改装工事が行われている。この三越と三井本館の建つ場所は、江戸時代から三井越後屋が呉服を商っていたところで、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景 する賀てふ[駿河町]」にもその様子が描かれた。駿河町の通り(現在の三越と三井本館の間の通り)の両側に「三」に井桁の三井のマークが染め抜かれた暖簾がずらりと並び、その向こうには大きな富士山が雲の上に頭をのぞかせている。今では残念ながら富士は見えず、薄曇の空の下に工事のクレーンや大手町あたりのビル群が見えるばかりである。

 東海道を歩いたときは、浮世絵「東海道五十三次」の作者・歌川広重と、「東海道中膝栗毛」の著者・十返舎一九、そして膝栗毛の主人公の弥次郎兵衛・北八を同行者に見立てて旅をしたが、日光街道の場合は、やはり「おくのほそ道」の松尾芭蕉に登場願わないわけにはいかないだろう。「おくのほそ道」で日光街道を歩き始めるのは、この先の千住宿からなのだが、芭蕉翁は、ちょうど私と同じ年ごろのときには日本橋本小田原町に住んでいたことがあるので、その旧居を訪ねることにする。日光街道にあたる中央通りから右手に入った、現在の町名でいうと室町一丁目にあたるその場所には、「発句也松尾桃青宿の春」と刻まれた碑が立つのみである。この句は1679(延宝7)年、俳諧の宗匠として独立したばかりの松尾芭蕉(当時の俳号は桃青)が詠んだ句だそうで、気合十分!といった力強さが素人の私にも伝わってくる。

三越本店と再開発中の三井本館
三越本店と
再開発中の三井本館
「発句也」の句碑
「発句也」の句碑

 芭蕉に気合を入れられたところで、先を急ぐことにする。このまま中央通りをまっすぐ進んでいくと中山道に入ってしまうので、大伝馬本町通りを右に曲がる。おそらく徳川家康の江戸入り以前からあった鎌倉(奥州)街道のルートを利用したと思われる通りで、江戸時代には「本町通り」と呼ばれて、現在の中央通りと並ぶメインストリートであった。しかし、中央通りがその後に拡幅整備されたのに対し、本町通りにはあまり手が加えられなかったため、今は目抜きの中央通りに比べて人通りも車通りもぐっと少ない小さな通りとなっている。本町は、大阪の道修町と並び、江戸時代から薬種問屋が集まった町で、今でも三共、アステラス製薬、万有製薬などの看板が見える。幅の広い昭和通りを地下道で越して、日本橋大伝馬町に入ると「旧日光街道本通り」の碑があり、「徳川家康公江戸開府に際し御傳馬役支配であつた馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された」という説明がある。日本橋の大伝馬町・小伝馬町と京橋にあった南伝馬町は、公用の駅馬を取り扱っていた町で、合わせて三伝馬町と呼ばれる。三伝馬町は、家康入府前から江戸に住んでいた宝田村・千代田村・祝田村の住民が江戸城拡張の際に移住して創られた町であり、宝田村の名は、日光街道の一本北の通りにある宝田恵比寿神社に残っている。ビル街にぽつんと建つ小さなお社だが、毎年10月にこの神社の祭礼に合わせて行われる「べったら市」はよく知られている。残念ながら私は見たことがないが、べったら漬け(大根の粕漬け)を売るためにべったら市と呼ばれるそうだ。

 大伝馬町と隣り合う小伝馬町は、江戸時代、牢屋敷があったところである。安政の大獄のとき、吉田松陰は橋本左内とともにここで処刑された。牢屋敷跡の十思公園に「松陰先生終焉之地」の碑があり、隣には「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂 二十一回猛士」と辞世を刻んだ歌碑が建つ。「二十一回猛士」の号は、生家の杉家の「杉」の字、養子先の吉田家の「吉田」の字を分解するとそれぞれ「十八三」「十一口口十」となり、組み合わせると「二十一(回)」となることからつけられた。処刑場は公園の向かいの大安楽寺となっている場所にあった。現在は法務大臣の死刑執行命令がなければ死刑は執行されないが、江戸時代も死罪や遠島などの重刑には将軍の決裁が必要だったという。また、牢屋敷に入れるのには町奉行の、拷問には老中の裁可が必要で、それも笞打ち、石抱き、海老責、吊責の4種に限られるなど、手続きは相当厳格だった。しかし、そもそもこの牢屋敷に来る以前の自身番屋や大番屋での取り調べの際に拷問が行われていたようであり、町奉行所とは別に放火犯や盗賊を取り締まった火付盗賊改方は規定外の拷問を黙認されていたので、牢屋敷以外でいろいろとひどいことが行われていたようである。牢は身分別に揚り座敷、揚り屋、大牢、無宿牢などと分かれ、女牢はまた別だったが、大牢などには牢名主をトップとする囚人のヒエラルキーがあって、平囚人は私刑を受けることがたびたびあり、中には別の囚人に殺されてしまう者もあったという。

宝田恵比寿神社
宝田恵比寿神社
松陰先生終焉之地
松陰先生終焉之地

 十思公園には、日本橋本石町にあった時の鐘も移設されている。公園隣の十思スクエアという福祉施設は元の十思小学校で、昭和初期に建てられた瀟洒な感じの建物である。このように小公園と小学校を隣り合わせに建設する方式は、関東大震災後の復興事業でよく用いられた。日光街道に戻る。江戸時代、大伝馬町の一丁目には木綿問屋が集まり、三丁目(通旅籠町ともいう。)には旅籠が多く集まっていた。また三丁目には呉服商・大丸屋の江戸店があり、広重「江戸名所百景 大伝馬町ごふく店」にも描かれていたが、明治になって本町通りが裏通りになってしまい、経営状況も芳しくなかったので、1910(明治43)年に閉鎖されてしまった。1954(昭和29)年になって再び東京に進出したのが、東京駅八重洲口にある大丸東京店である。

 続く日本橋横山町は今でも問屋街となっているが、今日は日曜なので活気が無い。靖国通りにぶつかったところで、両国橋にちょっと寄り道する。両国橋は、1657(明暦3)年の大火の後、本所・深川と江戸の中心部をつなぐ最初の橋として隅田川に架けられた。武蔵・下総の両国にまたがるという意味で(ただし実際には鎌倉時代ごろから本所・深川あたりも武蔵国として取り扱われていた。)、両国橋の東側を東両国、西側を西両国と呼んだが、今は両国といえばもっぱら両国駅や国技館のある東両国の方を指し、西両国には「両国広小路」の碑や、両国郵便局が残っているくらいである。両国橋から左手を見ると、隅田川に流れ込む神田川に緑色の柳橋が架かっているのが見える。かつて吉原や深川に向かう猪牙船はこのあたりから出ており、付近には今も屋形船が多く繋留されている。日光街道に戻って、神田川に架かる浅草橋は、江戸城外郭の出入口である浅草見附(浅草御門)が設けられたところであり、橋の東北に「浅草見附跡」の碑が立っている。明暦の大火の際には、避難のため一時解き放たれた小伝馬町の囚人がここへ押し寄せ、脱獄と勘違いした番人が門を閉じてしまったために、一般市民まで巻き添えになって焼け死ぬという悲劇が起きた。東京都中央区から台東区に入る。戦前はそれぞれ東京市日本橋区、浅草区という区名だった。

 浅草橋駅の周辺には、人形問屋が多く集まっており、吉徳、秀月、久月などの有名店が軒を連ねている。その先の蔵前という地名は、幕府の米蔵があったことに由来する。明治になってから、米蔵の跡地には浅草文庫という官立の図書館が造られ(榊神社境内に碑あり)、その後、東京職工学校(現・東京工業大学)が創立された。現在は蔵前工業高校、東京都下水道局、日本郵政公社などの施設の敷地となっている場所である。また、米蔵の隅田川に面した側には、首尾の松という有名な松の木があり、広重も「浅草川首尾の松御厩河岸」に描いている。首尾の松の由来には諸説あってはっきりしないが、蔵前橋の南東のたもとに七代目といわれる松が植わっており、記念碑もある。道路の反対側には蔵を模した蔵前水の館という下水道の広報施設があり、隅田川の向こうには両国国技館の大屋根と両国公会堂のドーム屋根が見える。日光街道の西側にある鳥越神社は、源義家がヤマトタケルノミコトの化身である白鳥大明神の導きによって無事に隅田川を渡ることができたため祀った社という。松平西福寺には、彰義隊士の墓所があるそうだが、墓所への立入りはできない様子。近くには立派な赤い千鳥破風をつけた銭湯があり、下町の風景に溶け込んでいる。NHKの連続テレビ小説「こころ」の撮影に使われた銭湯だそうだ。

屋形船の集まる神田川
屋形船の集まる神田川
首尾の松
首尾の松

 いろいろ寄り道している間に道を間違えたりして少し疲れたのでマクドナルドで休憩する。時刻は16時30分。あいにく小雨が降りだした。有名などじょう料理店「駒形どぜう」の前を過ぎ、駒形橋のたもとに出る。馬頭観音を祀る駒形堂の前に祭り半纏を着た人たちが集まっている。そう、今日は江戸三大祭のひとつに数えられる三社祭の日なのであった。ひとまず浅草寺へのお参りを済ませようと日光街道に沿って駒形堂から雷門へ。人は多いが歩行者天国になっているため、歩くのに支障はない。雷門名物の大提灯が折りたたまれているのは、お神輿が通るためだろう。ちょうど17時になり、門前にある浅草文化観光センターのからくり時計が動き出して、三社祭のお神輿を担いだ人形が動き出す。電気ブランで有名な神谷バーの前を通り、松屋デパートの方へ。デパートの中の駅から発着する東武電車は駅を出るとほぼ直角の急カーブを曲がって隅田川を横断するが、鉄骨で組まれたその橋脚の下をくぐり、二天門から浅草寺の境内に入る。右手に浅草神社。628(推古天皇36)年に隅田川の中から観音像を見つけた桧前(ひのくま)浜成、竹成兄弟と、観音像を奉安して浅草寺を創建した土師中知(はじのなかとも)の3人を祀った神社であり、網が3つ組み合わさった神紋(三網紋)も浅草寺創建の功労者であるこの3人を象徴している。三柱の神を祀ることから三社様とも呼ばれ、三社祭はもちろんこの三社様のお祭である。社殿は1649(慶安2)年、徳川家光建立の重要文化財。

 浅草神社に参拝して、浅草寺本堂の方を見ると、階段のところに人が隙間なく座り込んでおり、参道の両側にもずらりと人が並んでいて、お参りどころではない。お神輿の渡御を見るために集まっているのだと思われるが、お神輿が浅草神社に戻ってくるのは確か20時ごろのはずなので、まだ2時間以上もある。ここで見るのは諦めて仲見世を下っていき、雷門まで戻る。浅草文化観光センターでお神輿の現在位置を確認すると、3基あるお神輿のうち、一之宮がこの近くに来ているらしく、確かに隣の交差点付近のあたりに人だかりができている。急いで駆けつけると、町会の間でお神輿の引継ぎが行われているところだった。ここからは浅草中央町会の担当となるらしい。引継ぎが完了して、ほどなく「セイヤ、セイヤ」の掛け声とともにお神輿が動き出した。揃いの半纏を着た担ぎ手さんたちは前進後退を繰り返しながら少しずつ前へと進んでいく。お神輿の胴部は白い布で覆われて、その上に小さな鏡のようなものが付けられている。屋根の上では金色の飾りが鮮やかに輝き、てっぺんに乗った金色の鳳凰が長い尾を揺らしながら、向こうに見える金色のアサヒビール本社ビルに重なり合う。お神輿は次の角を右に折れ、細い商店街の中へと入り込んで行った。

 今日は、最初の宿場町・千住まで歩くつもりだったが、夕暮れになり、雨も降り止まないので浅草までで終わることにする。第1回目を三社祭で始められたのが、何より幸先いい。

折りたたまれた雷門の大提灯
折りたたまれた雷門の大提灯
浅草神社
浅草神社
人でごった返す浅草寺
人でごった返す浅草寺
三社祭のお神輿
三社祭のお神輿

(参考文献・・・日光街道のルートについては、横山吉男『日光街道歴史ウオーク』(東京新聞出版局)によった。牢屋敷については、笹間良彦『図説江戸町奉行所事典』(柏書房)に詳しい。)

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