YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

陽明門

● 日光街道・7

雀宮宿~徳次郎宿

 2018(平成30)年8月26日。今日は家族が夕方まで友だちと遊びに行くそうなので、超久しぶりに日光街道の続きを歩くことにした。超久しぶりがどのくらい久しぶりかというと、なんと前回が2006(平成18)年6月30日である。天気は下り坂のようだし、なにしろ暑いので、朝早く出かけて早めに帰ろうと思う。始発で出かけて、午前7時半前には、前回終点のJR雀宮駅に着いた。12年前に来たときの小さな木造の小さな駅舎は跡形もなく、巨大な橋上駅舎に建て替わっていて、まず面食らう。

 駅前通りも広がったようだが、駅前通りと日光街道の角にある雀宮宿脇本陣は塀と樹木が一部取り払われたくらいで健在のようである。100円ショップのすぐ前に東京から100kmのキロポストがあり、その向かいには雀宮神社がある。東山天皇の勅額があるため、将軍も大名も神社の前で下乗したそうだ。雀宮の由来は諸説あるようだが、ガイドブックに紹介されていたのは、針を含んだ饅頭を食べさせられた男が苦しんでいるとき、雀がニラを食べて針を排出したのを見て、一命をとりとめたことから雀を神として祀ったという説。もう一つが、陸奥守に左遷された藤原実方が、任地で死亡し雀に身を変えたので神として祀ったという説である。雀に身をやつした実方は、宮中清涼殿にまで入り込んだともいう。藤原実方は百人一首にも出てくる歌人であり、陸奥守に左遷されたのは、藤原行成との歌をめぐるトラブルが原因だったと言われる。また、藤原実方と藤原行成は、いずれも清少納言と恋愛関係があったとも噂されている。

雀宮神社
雀宮神社
100kmのキロポスト
100kmのキロポスト

 朝から暑い。宇都宮市内の大谷で産する大谷石でできた塀や蔵をところどころで見かける。2kmほど歩いて「一里」という信号のあたりは江戸から26里目の江曽島一里塚のあったところだが、特に何の跡も見当たらない。スバルの工場の前で日本橋以来長らく歩いた国道4号をついに離れて国道119号に入る。JR日光線を跨ぎ越した先に不動堂がある。かつては、ここからまっすぐ進むのが奥州街道、左に曲がるのが日光街道だったが、本多正純が藩主のときに、どちらも左に曲がるように道筋が付け替えられた。宇都宮は、林子平・高山彦九郎と並ぶ寛政の三奇人の一人に数えられる蒲生君平の故郷で、城下町の入り口に明治天皇の命で建てられたという「蒲生君平勅旌碑」がある。樹齢800年という大きなケヤキの樹が左に見える。東に行くと宇都宮城があるが、先日訪れたばかりなので今回は立ち寄らない。戊辰戦争のときは、大鳥圭介や土方歳三が率いる旧幕府軍が、新政府軍の立て籠もる宇都宮城を攻撃したが、結局落とすことはできなかった。茅葺き屋根の門がある報恩寺には、新政府軍兵士の墓がある。近くの六道町には旧幕府軍の墓もあるとガイドブックには書かれていたが、現地の説明を読むと、これは会津での戦いで薩摩藩の中村半次郎の命により宇都宮藩兵が殺害した長岡藩兵捕虜の墓だとあるので、どうやら宇都宮での戦死者の墓ではないように読める。

 時刻はまもなく9時。路傍の温度計は27度を差している。確かに日陰は涼しいが、日向はそれよりずっと暑い。かつての日光街道には升形があったようだが、道路の拡張でなくなり、街道はまっすぐ「大通り」に突き当たる。そのまま大通りを直進するのが奥州街道で、すぐに左に曲がるのが日光街道である。蒲生君平誕生地の表示が宇都宮小幡郵便局の入ったビルにある。このあたりが宇都宮宿の中心のようである。曲がった先の通りは、交通量が多いのに狭くて歩きにくい。空き地が多いのは道路を広げようとしているのだろうか。歩きやすくなるのはありがたいが、通り沿いにいくつか残る古い商家や蔵の行方が気になる。27里目の追分一里塚跡の表示のところで右に折れて栃木県庁に少し寄り道する。2007(平成19)年に建て替えられた庁舎の展望デッキで休憩しようと思ったのだが、今日は日曜日で入れなかった。1938(昭和13)年に建てられた旧庁舎は、昭和館として一部が保存されている。日光街道に戻って、桂林寺にある蒲生君平の墓にお参りする。今日は蒲生君平とずいぶん縁がある。

日光街道と奥州街道の追分
日光街道と奥州街道の追分
栃木県庁舎
栃木県庁舎

 日光街道は国道119号になって道幅が広がった。日が上ってますます暑くなったが、途中から桜・松・楓などの並木道になり、歩くのがかなり楽になった。日光街道と言えば江戸時代に植えられた日光市内の杉並木が有名だが、宇都宮市内の並木はどうも戦後に地元の人たちの協力で植えたもののようだ。28里目の上戸祭一里塚は両側とも残っている。さらに1里、並木道を歩き、29里目の高谷林一里塚まで来たところで12時近くなったので、東北自動車道宇都宮インターチェンジ付近の餃子屋で宇都宮名物の餃子を食べる。宇都宮で餃子が名物になったのは、宇都宮の陸軍第11師団が満州から持ち帰ったからなのだそうだ。焼き・揚げ・蒸し・スープと各種餃子を味わって満腹になる。

並木道
並木道
上戸祭一里塚
上戸祭一里塚
宇都宮餃子
宇都宮餃子

 東北自動車道をくぐると、第六号接合井という八角柱の形をしたレンガ造りの水道施設が見える。浄水場から送られる水の水圧を調整する設備なのだそうだ。並木が途切れて徳次郎宿に入る。かつて上・中・下に分かれ、72軒もの旅籠があったという徳次郎宿は、旧旅籠の池田家くらいにしかその面影が残っていない。徳次郎はもともと「とくじら」と読んだようだが、今は「とくじろう」と読むことが多い。はじめは「外久次良」と書いたらしい。徳次郎宿の鎮守だった智賀都(ちかつ)神社には大きな2本のケヤキの樹があり、その下でしばし休憩する。樹の間をわたる風が心地よい。二宮尊徳が田川から水を引くために造った二宮堰を見に行く。付近は公園になっていたが、肝心の二宮堰についてはよく分からなかった。

第六号接合井
第六号接合井
智賀都神社の夫婦ケヤキ
智賀都神社の夫婦ケヤキ

 片側が残る30里目の石那田一里塚を過ぎて、しばらく歩き、時計を見たら時刻は13時半だった。今日は、15時半ごろまで歩き、次の大沢宿まで行く予定だったが、暑さで歩く気力が失せつつある。榊里のバス停で時刻表を見ると、待たずにバスが来るようだったので、無理をせず今日はここで終わりにすることにした。スマホの万歩計では約33,000歩、距離は推定23km程度。またいつになるか分からない次回はおそらく最終回だが、今回早く切り上げてしまったので、日光山内も含めると1日では難しいかもしれない。

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