YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

陽明門

● 日光街道・2

浅草~越谷宿

 東海道のときもそうだったが、初めのうちは早く先へ進みたい。東京から逃れて、知らない町を歩きたいと思う。ということで、第1回目を歩いてから6日後の2005年5月28日、私は水上バスで隅田川をさかのぼっていた。青い吊り橋の清洲橋をくぐり抜けた先、小名木川が隅田川に合流する「三つ股」と呼ばれる角の堤防の上に彼の姿が見える。

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置。

 1689(元禄2)年、松尾芭蕉は、それまで住んでいた深川芭蕉庵を売り払い、旅立ちの決意をした。芭蕉庵があった場所はこの「三つ股」の至近であり、川べりの堤防の上に芭蕉庵史跡展望庭園が設けられている。水上バスから見えたのは、庭園に端座する芭蕉の銅像。銅像は隅田川を見つめ、心もち北の方角を向いて、白河の関、松島の月を夢見ているようだ。芭蕉は、芭蕉庵を売ったあと、1ヶ月ほど杉山杉風の別荘・採荼庵に仮住まいし、それからまずは船に乗って、長い長い「おくのほそ道」の旅へと出発した。したがって、いま私が通っている水の上は、316年前に芭蕉がたどった道すじと同じということになる。

 水上バスには関西からの修学旅行生と思しき中学生の団体が乗っていて、川沿いをジョギングしたり散歩したりしている人たちに手を振りながら、きゃあきゃあ騒いでいる。水面を渡る風が心地よい。蔵前橋、厩橋、駒形橋と次々に橋をくぐる水上バスの行く手には、墨田区役所の高層ビルとビールジョッキをイメージした金色のアサヒビールタワー、フィリップ=スタルクデザインのスーパードライホールが見えてきた。これらの建物群は、1989(平成元)~1990(平成2)年にかけて、アサヒビール吾妻橋工場の跡を利用して建てられたもので、赤く塗られた年代物の吾妻橋とよい対照をなしている。スーパードライホールの上に乗った金色のオブジェは、燃え盛る魂を表現しているそうだが、中学生たちは、「なにあれー、う○こー?」と率直な感想を述べていた。このオブジェが見えてくると水上バスは終点の浅草に着く。時刻は10時過ぎ。芭蕉はさらにこの先、千住まで船に乗っているが、私は船を降りた。信号待ちをしていたら、人力車に乗った欧米人夫妻に「コンニチハ」と声をかけられる。街道を歩く前に雷門から仲見世を通って浅草寺・浅草神社にお参りしていく。

水上バス
水上バス
吾妻橋と建物群
吾妻橋と建物群

 言問橋西の五差路を横断して江戸通りから吉野通りに入る。すぐに通りをそれて待乳山聖天へ。上野の山の東側は10kmほど離れた市川市の国府台まで低地が続いており、川の手などとも呼ばれているが、待乳山は川が削り残した小さな丘となっている。「真土山」とも書かれるのは、川の運んだ泥ではない本当の土があったということだろう。江戸を水害から守る日本堤を築いたときにこの山の土を削って使ったともいうから、もともとはもっと高い山だったらしい。頂上に祀られている聖天こと大聖歓喜天は、弁財天や毘沙門天同様、ヒンドゥー教の神が仏教に取り込まれたものである。正式には待乳山本龍院というお寺で、601(推古天皇9)年に観音様が大聖歓喜天の姿で現れたことに始まるというから、それが本当なら浅草寺よりも古い歴史を持つことになる。本堂などは戦災後の再建だが、境内には江戸時代の築地塀が残る。本堂の横手に三等三角点。昔はこのあたりから隅田川が眺められたのだろうが、隅田公園の木々などにさえぎられてよく見えない。

 おみくじを引いてみたら、大吉だった。旅立ちもよしとのことなので洋々と歩き始める。吉野通りを少し歩くと吉野橋と書かれた親柱がある。ここには山谷堀と呼ばれる水路があったのだが、今は埋め立てられて公園になっており、吉野橋も親柱しか残っていない。山谷堀はかつて吉原遊廓へと続いており、遊廓に通う人々は山谷堀で猪牙舟を降りて堀端の日本堤を歩いたという。今戸神社に立ち寄る。今戸の「戸」は「津」の転で、亀戸・奥戸・青戸・花川戸などと同様、渡し場があったことにちなむ地名である。今戸焼という焼き物もあり、夏目漱石の『吾輩は猫である』にも

「奥様の鼻が大き過ぎるの、顔が気に喰わないのって――そりゃあ酷い事を云うんだよ。自分の面あ今戸焼の狸見たような癖に――あれで一人前だと思っているんだからやれ切れないじゃないか」

というせりふがある。神社の境内には「今戸焼発祥の地」の碑があり、社殿にも大きな招き猫の焼き物が奉納されている。「今戸焼発祥の地」碑の隣には「沖田総司終焉の地」の碑も建つ。結核に倒れた沖田総司がこの地に居住した御典医・松本良順の治療を受けていたことによる(療養先の千駄ヶ谷で死亡したという説もある。)。

待乳山聖天
待乳山聖天
山谷堀と日光街道
山谷堀と日光街道

 近辺には靴問屋などが多い。江戸時代に浅茅ヶ原と呼ばれたこのあたりには鏡ヶ池という池があり、鏡ヶ池に入水した吉原の遊女・采女にちなむ采女塚が出山寺というお寺にある。采女塚には大田南畝(蜀山人)らが建てた碑があって、「金之竟合水也…」などと難しそうなことが書いてあるが、「金之竟」は「鏡」、「合水也」で「池」、以下続けていくと「鏡池采女塚記南畝大田覃」となる。吉野通りをさらに進むと、簡易宿泊所が集まる山谷のドヤ街に入る。宿泊代は2千円台が中心のようだ。泪橋の交差点から先は荒川区になる。東海道の品川宿の先にも立会川にかかる泪橋という橋があったが、こちらの泪橋は川が埋められてしまったため、交差点に名前を残すのみである。ただ橋の名前の由来は同じで、どちらも刑場に向かう罪人が涙の別れをした場所である。刑場があったのは、隅田川貨物駅や地下鉄南千住駅を過ぎたあたり、小塚原といわれる場所で、品川宿の先にあった鈴が森の刑場と同じく、街道を通って江戸に入ってくる人々への見せしめの目的が込められていた。

 小塚原で磔や火あぶりの刑に処せられた罪人は、本所回向院に葬られていたが、本所周辺の都市化が進んだため、1667(寛文7)年に小塚原刑場にも回向院が建てられて、以後はこちらに葬られることとなった。小伝馬町牢屋敷などで死罪になった者もここに埋葬されており、埋葬者の数は通算およそ20万人というからものすごい。小塚原回向院は、明治以降に敷地が縮小され、JR常磐線で分断されて、南側は延命寺という別のお寺になった。延命寺側には、高さ3.6mもある延命地蔵尊と南無妙法蓮華経の題目を刻んだ碑が建てられている。他方、北側の回向院には、安政の大獄の犠牲者である吉田松陰や橋本左内、大名屋敷などを荒らした盗賊・鼠小僧次郎吉、芝居や絵草子などの題材となり「毒婦」とされた高橋お伝などの墓がある(もっとも松陰や左内は小伝馬町、鼠小僧は鈴が森、お伝は市ヶ谷監獄で処刑されている。)。墓地の手前の壁面には観臓記念碑という石板がはめ込まれている。1771(明和8)年、杉田玄白や前野良沢らが観察し、『解体新書』の作成のきっかけとなった腑分け(解剖)を記念したものである。通りに近い場所には、1963(昭和38)年に起こった村越吉展ちゃん誘拐殺人事件に関わる吉展地蔵尊が立っている。

 JR南千住駅前から、日光街道は「コツ通り商店街」を通り抜けていく。「コツ通り」は「コツが原」とも呼ばれる小塚原にちなむ名前であろう。「コツが原」の「コツ」は一般に「骨」のことだと思われているが、「コツ通り」が国道4号にぶつかる地点に牛頭(ごず)天王を祀る素盞雄(すさのお)神社があるため「牛頭が原」と言っていたのが転じたとする説の方が説得力があるようだ。ほかに、素盞雄神社境内にある瑞光石と呼ばれる奇岩のことを「古塚」と呼んだためとする説もある。神社には1820(文政3)年に建てられたとされる芭蕉句碑もあるが、どう見てもそれほど古い碑とは思われない。確か10年ほど前の学生時代に訪れたときは、今にも崩れそうなぼろぼろの碑だったと記憶しているので、その後に取り替えられたものかもしれない。句碑に刻まれた句はもちろん「おくのほそ道」所収のあの句である。

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

行春や鳥啼魚の目は泪

是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。

 上記によると、芭蕉は1689(元禄2)年の3月27日に出発し、千住までは隅田川を船で上ったとある。同行したのは門人の河合曽良ただ一人。1943(昭和18)年になって、曽良が記していた道中のメモ書きが発見され、「おくのほそ道」の行程の詳細が分かるようになったが、彼のメモには、「巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下尅、千住二揚ル。」と記されており(「廿」は「二十」、「巳ノ下尅」は午前10時半ごろ)、「七」を書き落としたのか、あるいは出発は別々だったのか、などと新たな謎も浮かび上がっている。3月27日であったとすれば、新暦では5月16日に相当するため、ちょうど今ごろの気候であったのだろう。今朝のうちは涼しかったが、12時近くなり、だいぶ蒸し暑くなってきた。

 日光街道最初の宿場である千住宿は、素盞雄神社のあたりから始まり、隅田川にかかる千住大橋を経て、さらに北側へと続いていた。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景 千住の大はし」にも描かれる千住大橋は、1594(文禄3)年に架けられた隅田川最初の橋で、伊達政宗が調達した腐りにくい槙の木が使われたという。現在は、国道4号の橋となり、関東大震災後の1927(昭和2)年に架けられたアーチ橋と、増大する交通をさばくため1973(昭和48)年に加えられた桁橋の2本が並ぶ。どちらも青緑色に塗られた鉄橋だが、緩やかなカーブを描く古い重厚な橋と、ただまっすぐに架けただけの新しいシンプルな橋がまったく調和せず、どうにも無粋な風景になっている。橋の北側には「おくのほそ道矢立初の碑」や「おくのほそ道行程図」のある小公園があり、川べりには屋形船用と思われる桟橋が造られている。芭蕉と曽良を迎えに行くつもりで桟橋まで降りると、死んだ魚が銀色の腹を見せながら水面を漂っているのが目についた。これでは「魚の目は泪」などと風流ぶるわけにもいかない。

小塚原刑場の延命地蔵尊
小塚原刑場の延命地蔵尊
千住大橋
千住大橋

 橋を渡ると足立区になり、国道4号は左手に、旧道は右手に別れる。分岐点に「千住宿 奥の細道プチテラス」という小広場があり、芭蕉の石像が柔和な表情で立っている。広場の後ろは東京都中央卸売市場足立市場。交通の要衝であった千住には天正年間から川魚・青物・米穀などを扱う市場があったと言われており、江戸時代には日光街道に沿って「やっちゃ場」と呼ばれる問屋街があって、神田・駒込と並ぶ江戸3大青物市場の一つにも数えられた。現在の市場は終戦直前に開場したもので(すぐに戦災で焼失)、1979(昭和54)年に青果部門が北足立市場に移転したため、水産物のみを扱う市場となっている。

 日光街道に沿う千住の町は、宿場の歴史に関する表示が丁寧になされており、将軍の鷹狩の際の休息所だったとか、すずめ焼、紙製のたばこ入れ、千住ネギなどが名産品だったとか、いろいろなことが書かれている。1830(天保元)年に建てられた土蔵を移築して、「千住宿歴史プチテラス」という施設も造られており、内部では小学生の書道の展示を行っている。ちょっと立ち寄ると、地元の方らしいおばさんがお茶を淹れてくださったので、しばし足をとどめる。墨堤通りを過ぎると日光街道は千住仲町商店街に入る。その先、本町センターという商店街との境目あたりが千住宿の中心で、高札場や問屋場、そして日本橋から2里目の一里塚もあった。問屋場のあった付近には、明治以降、南足立郡役所、千住町役場、足立区役所が置かれたが、区役所は1996(平成8)年に区中央部の中央本町に移転した。跡地利用はなかなか決まらなかったが、ホールやスポーツクラブなども入る22階建ての「あだち新産業振興センター(仮称)」が現在建設中である。商店街はどんどん賑やかになってきて、右手にJR常磐線、東武伊勢崎線、地下鉄日比谷線・千代田線が集まり、さらに今夏には、東京とつくばを結ぶ「つくばエクスプレス」も開通する大ターミナル・北千住駅が現れる。駅前で行われていた再開発事業が昨年完了し、丸井の入る商業ビルや、26階建ての高層住宅も建った。どんどん変貌を見せる千住宿だが、商店街には昔ながらの出し桁造りの商家も残っていて、新旧の調和した町並みとなっている。駅前の通りを横断すると街道筋は少し落ち着きを取り戻し、江戸時代の商家「横山家住宅」が端正な姿を見せる。内部は非公開だが、玄関の柱には敗走する彰義隊が切りつけた刀傷も残っているという。宿場のはずれ近くになり、「かどやの槍かけだんご」と古めかしい看板の掛かっただんご屋がある。小腹も減ったことだし、あんこと甘辛を1本ずつ買い求めると、これがやわらかくて非常にうまい。特にあんこの程よい甘さは絶品である。事前に調べていなかったのだが、家に戻って何気なく早川光『東京名物』(新潮社)を見ていたら、この槍かけだんごが「東京の団子の理想形」と激賞されていた。ちなみに、著者の好みは甘辛の方だそうである。

横山家住宅
横山家住宅
槍かけだんご
槍かけだんご

 槍かけだんごの先で、日光街道は水戸佐倉道を右に分ける。水戸佐倉道は、さらに葛飾区の新宿(にいじゅく)で水戸道(水戸街道)と佐倉道に分かれ、水戸道の松戸宿(松戸市)、佐倉道の八幡宿(市川市)までは五街道並みに道中奉行が管理する街道だった。水戸佐倉道との分岐点から少し進むと、今度は下妻街道が分岐する。茨城県下妻市は、それほど名を知られた町ではないが、かつては関東の要衝であったらしく、水戸藩祖・徳川頼房も水戸に入る前は下妻にいた。ここではまっすぐ進むのが下妻街道、左に分かれるのが日光街道となっており、下妻街道の方が先にできた道であると推測される。今となっては下妻街道をなぞるような主要道路も鉄道もなく、その跡は地図上から見出しにくいが、どうやら埼玉県八潮市から草加市柿木町の方へ続いていたようだ。

 分岐点から少し下妻街道を入ったところにある整形外科の名倉医院は江戸時代から有名だった接骨医で、立派な長屋門が往時をしのばせる。その先、街道は荒川の堤防に突き当たる。この幅の広い荒川は1910(明治43)年の大水害を機に建設された放水路で(1930(昭和5)年完成)、それまで荒川の水は下流部で隅田川に集中していた。旧日光街道の道すじに近い国道4号の千住新橋で荒川を横断する。下流に見えるJR線や東武線の橋も荒川放水路建設の際に初めて架けられたもので、特に東武線は鐘ヶ淵駅から西新井駅まで、線路も大幅に付け替えられた。河川敷には野球少年たち。川は埼玉の西半分の水を集めてゆったりと流れている。

 橋を渡りきると真福寺の左手を入る細い道が日光街道になる。しばらく住宅地を進み、エル・ソフィアという区の公共施設の前で都道に合流すると、まもなく東武梅島駅のガードをくぐる。梅島という駅名は、明治の大合併で梅田村・島根村などが合わさってできた梅島村に由来する。環七通りを過ぎたあたりが足立区島根で、「為嶋根旧跡千住堀顕彰建之 將軍家御成橋御成道松並木跡」と書かれた真新しい碑が道端に立っていた。千住堀は通船堀(水位差の大きい水路に水門を設けて船を通す仕組み)で有名な見沼代用水の下流部にあたる。島根村の鎮守だった鷲神社に立ち寄る。ヤマトタケルノミコトを祀る鷲神社は、旧利根川水系に多いのだそうである。竹の塚3丁目の五差路に増田橋跡の標柱が立っており、「北へ旧日光道中」「西へ旧赤山道」と書かれている。埼玉県川口市にある赤山は、かつて関東の天領を治めた関東郡代の陣屋があったところである。少し進んでから日光街道を離れ、竹ノ塚駅方面に向かう。途中、978(天元元)年創建という竹塚神社があり、同じ「たけのつか」でも地名は「竹の塚」、駅は「竹ノ塚」、神社は「竹塚」と表記がすべて異なっている。駅北側の踏み切りでは、今年(2005年)3月15日に踏切保安係が誤って遮断機を上げ、4人が死傷するという痛ましい事故が起こった。踏切の前には社長名のお詫び文書が貼り出されており、自転車や買い物袋を提げた人々などが大勢通過する脇で警備員が2人安全確認をしていた。

 さて、わざわざ日光街道を離れたのには理由があって、東海道歩きのときにお世話になった浮世絵「東海道五十三次」の作者・歌川広重のお墓参りをしようと思ったのである。竹ノ塚駅の西側にある伊興地区は関東大震災後に浅草などのお寺が移転して寺町を形成した場所。広重は1858(安政5)年にコレラにかかって没した後、浅草の東岳寺というお寺に葬られたが、東岳寺も、戦後になって伊興に移転してきている。「一立齋廣重墓」と記された墓石は、震災・戦災で破壊されて、1958(昭和33)年の百回忌に再建したものという。墓石の左には「廣重」の字の下に辞世「東路へ筆を残して旅の空 西の御国の名どころを見む」を浮き彫りにし、その周囲に肖像画や「ヒロ」の印章、団扇絵や扇子絵などを散りばめた凝った碑が立つ。1924(大正13)年に建てられたこの碑のほか、墓石の右には、もうひとつ「廣重塚」という碑があり、後世の人々の広重に対する思慕の強さを示しているかのようである。

千住新橋
千住新橋
広重記念碑
広重記念碑

 日光街道に戻って歩き出すと、正面には足立清掃工場の高い煙突が見えてきた。最近の収集車は天然ガス車両が多いのだろう、清掃工場の向かいには天然ガスのエコ・ステーションがあり、近くには工場の余熱利用のスイムスポーツセンターも造られている。国道4号草加バイパスの陸橋をくぐり、水神橋で毛長川を渡ると埼玉県草加市に入る。東武谷塚駅の手前に富士山の神・コノハナノサクヤヒメを祀った富士浅間神社。富士山に見立てたのか、石段の両脇に溶岩風の岩があって、その上に狛犬が配してあるのが珍しい。1842(天保13)年再建という社殿も小ぶりながら軒下や破風に彫刻を持つちょっとした芸術品である。手洗石の隅には、よく見ると「不」の字に似た記号が彫り込まれており、これは明治9年から10年にかけてイギリス式の水準測量をした際の「高低測量几号」という目印なのだという。参拝を終えて退出すると、今度は神社脇に事件捜査への協力を求める警察の看板がある。2003(平成15)年に茨城県五霞町で死体となって発見された女子高校生が、最後に目撃されたのが、この浅間神社のお祭りだったのだそうだ。

 しばらく歩いた先にある火あぶり地蔵尊は、病気の母に会いたいがために奉公先に放火して火あぶりに処せられた娘の供養のために立てられたという。さらに行くと道は二股に別れ、左側が旧街道となる。すぐに草加市役所があり、その隣には黒い塗屋造りの立派な商家がある。どうやら第2宿の草加宿に入ったようだ。もともと奥州へ向かう街道は、先ほど千住で分岐した下妻街道のルートを通り、途中から古利根川・元荒川の自然堤防の上を通って越谷に向かっていたらしい。しかしそれでは遠回りになるため、1606(慶長11)年、湿地帯に刈り取った草を束ねたものを加え、千住から越谷までまっすぐな道を造ったことから、草加の名が生まれたという説がある。「葛西道」と書かれた比較的新しい道標がある。葛西道は先ほどの赤山街道同様、関東郡代の支配地だった葛西地域(東京都葛飾区・江戸川区あたり)と赤山陣屋を結ぶ道と思われる。草加駅前の通りとの交差点に「草加町道路元標」が少し傾いたまま残っている。道路元標は、戦前の旧道路法では各市町村ごとに設置することになっていた。時刻は15時を回り、5時間近くもほとんど休みなしに歩いていることになるので、駅前のモスバーガーで少し休憩する。

 街道沿いには土蔵や格子戸を持つ商家などを時折見かける。「千住町へ貮里拾七町五拾三間三尺 越ケ谷町へ壹里三拾三町三拾間三尺」と書かれた古い石柱がある。草加の名物といえば、東京駅でも売っている草加せんべいで、草加市に入ったあたりからあちらこちらにせんべい屋が看板を出している。そのうちの1軒に立ち寄って、途中で食べるために1枚とお土産用に1袋買っていく。草加せんべいは「おせん」というお婆さんが団子の売れ残りを乾かして売ったのが始まりと言われ、おせん茶屋の跡だという公園もあるが、せんべいの祖の名前が「おせん」ではいくらなんでも話が出来すぎであろう。ほどなく旧道は県道に合流し、伝右川を渡ったところにある札場河岸公園に、どことなく疲れた表情の芭蕉像が立っている。

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。

 「帋子(紙子)」は紙製の防寒着、「さりがたき餞」とは餞別としてもらった品々のこと。芭蕉像は杖をつき、笠を背負って、大きな頭陀袋を掛けている。この頭陀袋の中に入ったもろもろの荷物が重くて疲れてしまったのか、「其日漸早加と云宿にたどり着にけり」と芭蕉は記している。しかし、当時の感覚からすると、いくら疲れたからといっても千住を発って次の草加宿で泊まってしまうのは早すぎる。曽良のメモには「廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余」とあるため、もう2つ先の粕壁(春日部)で泊ったと考える方が自然のようだ。日光街道はこの先、草加松原と呼ばれる松並木を通っていた。今は県道と綾瀬川の間に松並木の遊歩道が整備されており、しばらく楽しく歩く。途中、太鼓橋をイメージした歩道橋が2つ架かっていて、「おくのほそ道」にちなみ「百代橋」「矢立橋」と名付けられている。さっきの草加せんべいを取り出してベンチに腰掛け、松原を眺めながらかじる。醤油の香ばしさがお茶によく合う。犬の散歩をしている人々が目の前を行き過ぎる。

札場河岸の芭蕉
札場河岸の芭蕉
草加松原と草加せんべい
草加松原と草加せんべい

 松原は1kmほど続き、行く手には大きな遮音壁を付けた東京外環自動車道の高架橋が現れる。東京外環自動車道の下を走る国道298号のそのまた下をくぐって蒲生大橋で綾瀬川を渡ると越谷市に入る。綾瀬川は全国のワースト1を争うほど水質の悪い川として知られているが、かつては舟運の盛んな川であり、先ほどの札場河岸や、この蒲生大橋付近にあった藤助河岸は年貢米の輸送などで賑わっていたという。埼玉県内の日光街道で唯一残るという「蒲生一里塚」の案内看板があるが、「成田山」と刻んだ石碑と地蔵尊像などが何体かあり、愛宕社と古木が何本か盛り土の上にあるくらいで、一里塚の姿をとどめているとはとても言いがたい。ここからはしばらく住宅地の中を歩いていくが、「是よ里大さ賀み」と記された謎の道標や、わらじが奉納されたお堂のようなものなど、旧街道を思わせるものをいくつか見かける。県道との合流地点付近にある清蔵寺の山門には左甚五郎作と伝えられ、夜な夜な山門を抜け出すといわれる龍の彫刻がある。日光街道沿いには、このほかにも東照宮造営に従事した工匠が関係したと思われる彫刻が多数見られるそうだ。右手に大きな自動車教習所を見ながら県道を歩いていく。「明治天皇田植御覧之處」の碑があるが、田んぼなどはまったく見えない。JR武蔵野線の高架橋を過ぎた先にJR貨物の越谷貨物ターミナル駅があり、コンテナがたくさん置かれている。照蓮院というお寺の前に名主が蓄えをもって窮民を救ったという記念碑や若者が力比べに使った力石、青面金剛像を彫った庚申塔などがごたごたと置かれている。また、境内には、武田勝頼の遺児・千徳丸の菩提を弔う五輪塔がある。時刻は18時前。旧道が再び県道から分かれて越谷宿に入るあたりで今回はおしまいとし、東武伊勢崎線の越谷駅へと向かった。

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