YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

陽明門

● 日光街道・4

幸手宿~野木宿

 2005(平成17)年10月9日、東武日光線に乗って幸手駅に着いたのは午前10時30分。出がけに降っていた雨は、まだ降り続いているものの、だいぶ小ぶりになってきたようなので傘なしで歩き出す。『おくのほそ道』の旅で松尾芭蕉と河合曽良がこのあたりを通ったときも雨が降っていたはずだ。街道左手に建つ「旅館あさよろず」は、江戸時代から建つ老舗旅館だそうだが、今はすっかり近代的なホテルになっている。本陣の知久家の跡は うなぎ屋さんに変わっている。かつての幸手宿の名残はもう残っていないものかとさらに行くと、宿外れの聖福寺というお寺に唐破風のついた立派な門があり、傍らに「御殿所勅使門」という石柱が建っているのを見つけた。なんでも聖福寺は、将軍の日光東照宮参詣の際の休憩所となったお寺で、朝廷から東照宮例祭に派遣される勅使(例幣使)も休憩したという。この門は350年ほど前に造られたものといい、扉に菊の紋が入っているのが勅使門の名にふさわしい。そのすぐ先、「正福寺」と書く同名の「しょうふくじ」の境内には、「日光道中」と刻まれた道標と、浅間山噴火の際、幸手宿の有志が被災者の救済を行ったことを記念する「義賑窮餓之碑」がある。街道は正福寺の前で右に曲がり、また左に曲がる。一つ目の曲がり角の脇に一里塚跡を示す立て札がある。塚自体は、残念ながら明治時代に撤去されてしまったそうだ。地元の方が設置したらしい「この道は日光街道」と記された説明板などを眺めながら進むと、やがて街道は国道4号に合流する。雨は降り止んで、桜の名所として知られる「権現堂桜堤」が交差点の先に姿を現した。

 権現堂桜堤について述べるついでに、江戸初期に行われた「利根川東遷」と呼ばれる大規模な河川改修について簡単に整理しておきたい。春日部のところでも記したとおり、かつて、利根川は、現在の古利根川から中川・隅田川を通って、東京湾へと注いでおり、古代には、このラインが武蔵国と下総国の国境とされていた。隅田川に「両国橋」が架かっているのは、このためだということも初回に書いた。しかし、隅田川に利根川の水が流れ込むと江戸の町が洪水の被害を受けやすくなるため、江戸の町の建設に合わせて埼玉県北部・現在の北川辺町と大利根町の境に「新川通」を開削し、利根川の水をより東側、現在の権現堂川・中川(庄内古川)・江戸川(当時は太日川)のラインへ流すことにした。ところが、このラインにはもともと渡良瀬川の水も流れていたため、両河川の合流点からすぐ下流の権現堂川で容量オーバーになり溢水するようになる。そこで今度は利根川の本流を鬼怒川とつないで、もっとずっと東の銚子方面へ流すこととし、この大工事の完成によって、ほぼ現在の利根川の流路ができあがったのである。ただ、この流路変更の後も権現堂川は利根川と江戸川をつなぐルートとして活用されており、ひとたび破堤すれば、はるか江戸まで洪水が及ぶ危険な川であることには変わりがなかった。そのため、1875(明治8)年に堤防が築き直され、1876(明治9)年に明治天皇が訪れたことから、「行幸(みゆき)堤」の名がつけられたのである。岩倉具視の揮毫による「行幸堤之碑」が国道と交差する箇所に立つ。「桜堤」の名は、大正時代に桜を植樹してからのもので、戦時中に薪炭材として伐採されたため、現在の桜は戦後に植えなおされたものだそうだ。

聖福寺勅使門
聖福寺勅使門
権現堂桜堤
権現堂桜堤

 街道を外れて少し堤の上を歩いてみることにする。自ら川に身を沈めて堤の完成を祈ったという順礼親娘の供養塔の前に茶店があるが、桜の季節ではないので閉まっている。桜のほかに、ここは菜の花でも知られ、この間までは彼岸花の花盛りだったようだ。権現堂川は1927(昭和2)年にに廃川になり、行幸湖という調整池になった。行幸湖には、埼玉県誕生120周年記念で設置された吹き上げ高120フィート(約36m)の大噴水「スカイウォーター120」が設置されている。毎時0分に吹き上がるらしいが、現在時刻11時30分から30分待つ気もないので、街道に戻る。中川を渡り、国道と並行する旧道にそれる。田んぼの中を東武日光線の急行電車が走り去っていく。住宅地の中に「右つくば道」と書かれた1775(安永4)年の道標が立ち、その先の雷電神社には青面金剛の彫られた庚申塔などが多数並んでいる。庚申塔の隣にある「十九夜」と刻まれた石塔は、十九夜塔と呼ばれるもので、安産祈願のため、陰暦19日に集まって月の出を待つという信仰に由来するものだそうだ。庚申塔のいかつい青面金剛に代わり、十九夜塔には、安産祈願にふさわしい女性的な如意輪観音像が彫られている。しかし、庚申待ちも月待ちも、夜中に飲み食いして騒ぐのが本当の目的で、庶民の楽しみとなっていたという点では似通っている。

 北葛飾郡栗橋町に入る。かつての下総国葛飾郡は、現在の東京・千葉・埼玉・茨城の4都県にまたがっていたため、葛飾郡にちなむ行政区分は、現存する埼玉県北葛飾郡と東京都葛飾区のほか、今年(2005年)3月までは千葉県に東葛飾郡があり(沼南町の柏市編入により消滅)、ずっと以前には東京府に南葛飾郡(現在の葛飾区・江戸川区など)、埼玉県に中葛飾郡(同・庄和町など)、茨城県に西葛飾郡(同・古河市など)、そして千葉県には東葛市(同・柏市など)があった。このあたりで、おそらくかつて日光街道は権現堂川沿いを通っていたと思われるが、今は行幸湖となった川との間に盛り土が築かれ、その上を国道4号が通っている。なんとなくマヨネーズの臭いがすると思って、国道の下をくぐり、行幸湖際に出ると、対岸にキューピーの工場があった。対岸は茨城県五霞町である。茨城県の市町村のうち、ほぼ全域が利根川より南側にあるのは五霞町のみであるため、一時期、五霞町を隣接する埼玉県幸手市に合併させる案が出たことがあった。

 墓地の隣に14番目の小右衛門一里塚の跡があり、5間(約9m)四方という塚の上に弁天堂が移築されている。国道4号の盛り土の下に沿って進み、東北新幹線の高架橋をくぐる。いったん国道4号に合流し、ストリップ劇場の脇をななめ左に進む。国道125号の下を通り抜けると栗橋宿に着いた。日光街道はもともと権現堂川の東岸を通っていたが、先に記した利根川の付替えで水害の被害が大きくなったため、西岸に移されたという。現在、西岸の埼玉県側にある栗橋の町もその際に移転してきたものといい、東岸の茨城県五霞町には元栗橋という地名が残っている。しかし、移転後の栗橋もやはり水害に悩まされていたようで、「ここは昭和二十二年の洪水で利根川の堤防がこわれ赤い線まで浸水しました。」という札が電柱に貼ってある。2つ前の杉戸宿にも同じ札が貼ってあったが、杉戸では胸くらいのところに引いてあった赤い線が、ここでははるか上の天井のあたりにある。戦時中の山林荒廃で山に保水力がなくなったせいもあるのだろうが、とんでもない大洪水だ。しばらく街道を外れて栗橋駅に向かう。駅に用があるのではなく、駅前に残る、ある女性の墓に興味がある。そこに葬られているのは、かの静御前なのだった。

 白拍子だった静御前は、1182(寿永元)年、京都・神泉苑で雨乞いの舞を舞って、見事に雨を降らせ、後白河法皇から錦の舞衣「蝦蟇龍(がまりょう)」を賜った。そして、その頃、源義経に見初められてその愛妾となり、義経が兄・頼朝の不興を買って落ち延びる際にも同行している。しかし、静は奈良の吉野山で義経と別れ別れになり、捕らえられて鎌倉の頼朝のもとに送られた。そして、頼朝の前で「吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづ しづのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな」と義経を慕う歌を唄って頼朝を怒らせ、生まれた義経の子を由比ヶ浜に捨てられた後、京都に送り返される。歴史に残る静御前の足跡は概ねこんなところで、京都に送られた後、静がどのように生涯を終えたかは記録に残っていない。が、ここ栗橋には以下のような伝説が伝わっている。…京都に送り返された静は、義経を慕って平泉に向けて旅立った。しかし、下総国まで来たところ、平泉で義経が死んだという知らせが届いたため、悲しみにくれた静は、仏門に入って義経の菩提を弔いたいと京都に戻ろうとし、その途中、この地で力尽きて亡くなった。遺骸は、侍女琴柱が高柳寺というお寺に葬り、その跡に建てられたのが、ここにある「静女之墳」の墓碑だという。墓碑は江戸時代の1803(享和3)年に、関東郡代中川忠英が建てたものだが、その墓碑は厨子内に安置され、元の場所には同型の碑が新たに建てられている。その後ろには「吉野山~」「しづやしづ~」の歌が刻まれ、近くには義経招魂碑や、由比ヶ浜に沈められた男の子の供養塔、明治になってから建てられた静女冢碑や静ゆかりの静桜などもある。今年の大河ドラマがちょうど「義経」ということで、境内には静役の石原さとみや義経役の滝沢秀明の写真も貼られている。来週には静御前パレードなるものも行われるそうだ。

静御前の墓。左の厨子内に古い碑、右が新しい碑。
静御前の墓
左の厨子内に古い碑、
右が新しい碑
栗橋関所址の碑
栗橋関所址の碑

 栗橋駅はJR東北本線(宇都宮線)と東武日光線の乗換駅だが、それにしては栗橋の宿場町は少し寂しい感じで、古い塗屋造りの建物の塗りがはがれて骨組みの小舞が露出していたり、立派な瓦屋根を乗せた商家の表に素っ気無いシャッターが取り付けられ、しかもそのシャッターが閉じたまま仕舞屋になっていたりしている。気の利いた食事処も見あたらなかったため、昼食はコンビニのスナックフードで済ませ、利根川の方に向かう。かつて利根川の渡し場には、日光街道唯一の関所である栗橋関所が設けられていた。高い堤防の途中に「栗橋関所址」の碑が立つ。碑の隣にある説明板を見ると、関所があった場所は、今はすっかり堤防の土盛りにうずもれてしまい、跡形もなくなってしまったようだ。宿場入り口に処刑場の跡地があり、関所破りをして火あぶりになった受刑者を弔う「焙烙地蔵」が立っていたのが、関所のあった唯一の名残だろうか。曽良のメモには「此日[1689(元禄2)年5月28日]栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。」とあり、芭蕉師弟は、難なく通り抜けることができたようだ。利根川は房川渡と呼ばれる舟渡しで、参考資料(横山吉男『日光街道歴史ウォーク』)を見ると渡し賃は最低12文(今の300円くらい?)からだったとある。東海道の河川では安倍川が16文から、大井川が48文からだったようなので、時代や輸送方法の違いもあるから単純比較はできないにしても、日光街道筋の方が若干物価が安かったのかもしれない。将軍家の日光社参の際には、50艘ほどの舟を並べて舟橋を造ったという。前記資料によると利根川の渡しに常備されていた舟は9艘しかなかったようなので、将軍のお成りのときには近隣の舟という舟をかき集めたのだろう。今は、国道4号の橋が架かっており、下り線は歩道つきの新しい桁橋、上り線は1924(大正13)年架橋の古いトラス橋となっている。さらに並行してJR東北本線の橋も架かっており、銀色の長い電車が行き交う。1885(明治18)年に大宮~宇都宮に鉄道が開通した当初は、約1年間、利根川部分のみ渡船による連絡となっていた。千住から栗橋までは東武日光線沿いを歩いてきたが、ここからはJRに沿って歩くことになる。橋の中ほどに「茨城県古河市」の看板が立っている。市のマークを消した跡があるのは、先月、古河市と猿島郡総和町、三和町の市町合併により新しい古河市ができ、マークの変更を予定しているためだろう。

 栗橋宿と利根川を挟んで向かい合う位置に中田宿があった。1843(天保14)年の記録で栗橋宿の404軒に対し、中田宿の家並みは69軒だったというから、栗橋に比べると相当小さな宿場だったのだろう。栗橋と中田は1ヶ月交代で人馬の継立てなどの宿場業務を果たしていたので、栗橋と中田を合わせて1つの宿場とする数え方もある。関所はもともと中田側にあって、栗橋に移転した後も正式名称は「房川渡中田関所」であった。その中田宿があった場所は、現在は利根川の河川敷に取り込まれてしまっていて、こちらも栗橋関所と同様に跡形もない。かつての利根川の流れは40間(約70m)ほどしかなかったらしく、現在の利根川の流れが約200m、堤防と堤防の間が約500mあるのと比べると、ずいぶん狭かったようだ。川を渡り終えて左手の旧道を行く。堤防の下にコスモスの花が咲き乱れていた。その先にある中田の集落は、1912(大正元)年に堤防工事のため元の宿場町が移転してできたものといい、源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したという鶴峯八幡神社も同じように移されている。鶴峯神社のすぐ先にあるお寺は光了寺。もともとは高柳村(現・栗橋町)にあったため、高柳寺と書いていたそうだ。先ほどの静御前の伝説に出てきたお寺で、なんと静が後白河法皇から賜ったという舞衣「蝦蟇龍」もこのお寺に保管されているという。鎌倉を去った後の静御前に関しては、さまざまな伝説があり、静の墓とされるものも各地に存在しているようだが、物証があるとなると静御前栗橋死去説にもそれなりの説得力が出てくる気がする。

利根川
利根川
光了寺
光了寺

 光了寺を過ぎると、左手に線路が見えてくるが、この線路、よく見ると数十mほどで終わっていて、どこにもつながっていない。線路があるのは、コンクリート枕木などを製造している日本軌道工業という工場の敷地内で、試験用か見本用の線路と思われる。その先で、こちらは本物の東北本線の線路を渡ると、若い松の樹が並んだ広い道に出る。このあたり、江戸時代には「中田の松原」と呼ばれた景勝地で、ここを通りかかった幕末の志士・清河八郎も、仙台道中(日光街道のこと)最もきれいな松並木と絶賛している。松並木の間からは古河城の三階櫓が眺められ、時には富士山までも見ることができたそうだ。しかし、1938(昭和13)年に道路拡張のため、樹齢300年の松並木は次々伐採され、根は松根油の原料として掘り上げられてしまった。現在植えられている若松は1994(平成6)年から松並木復元のため、再度植え直されたものである。松並木は600mほどでおしまいになり、その先は、右側に林が続いている。国道354号との交差点があり、ここを右に行くと静御前が奥州まで行くかどうか思案したという思案橋があり、左に行くと室町時代に古河公方の館があった場所という古河総合公園がある。どちらも興味があるが、街道から少し離れているので寄っていかない。古河公方は、室町幕府から鎌倉を任された関東管領(鎌倉公方)5代目の足利成氏(しげうじ)が足利将軍家に反抗したため、鎌倉を追われて古河に本拠を定めたものである。古河公方家は、1582(天正10)年、成氏からさらに5代目の義氏に男子がなかったために滅亡したが、由緒ある足利家が途絶えることを惜しんだ豊臣秀吉が、義氏の娘・氏女(うじひめ)をやはり足利の血を引く足利国朝に嫁がせて、国朝に古河公方家を継がせることとした。国朝は現在は栃木県さくら市となった喜連川の地に5000石を得、1万石未満ながら特別に大名扱いを受けて、明治まで続いている。交差点を横断してしばらく行った古河第二高校の敷地内には一里塚の跡があるそうだが、学校の中に入るわけにもいかずよく分からなかった。そのまま進み、三叉路にぶつかったあたりから城下町であり宿場町でもある古河市の中心部に入っていく。

 東海道を歩いて最初の城下町は小田原であったが、日光街道の場合は古河が最初の城下町となる。江戸からの距離も同じくらい、石高も幕末の時点で小田原が11万3000石、古河が8万石で、どちらも譜代大名としては大藩である。両藩とも城主は何度か交代しているが、小田原は大久保氏、古河は土井氏が江戸初期の城主を務め、どちらも改易の危機を迎えて、いったん他所に移ったのちに再び戻ってきて江戸後期に定着するという、似た遍歴をたどっている。箱根関所を小田原藩が守り、栗橋関所を古河藩が守っていたという点もよく似ており、要は関東の西の押さえが小田原で、北の押さえが古河であったということができるのではないかと思う。古河を長く治めた土井氏の初代は、「寛永の三弼」の1人に数えられ、徳川秀忠・家光の時代に老中・大老を務めた土井利勝である。土井利勝は、土居利昌の子であるが、養子であって実父は水野信元であるという説、はたまた徳川家康の隠し子であるという説もある。家康隠し子説は、晩年の土井利勝が家康にそっくりであったことから出たようだが、仮に水野信元の子であったとしても、信元の妹は家康の母であるため家康の従兄弟にあたることになり、似ていたとしてもそれほど不自然ではないように思われる。ただ、利勝自身は、家康に似ているのは恐れ多いとして、家康に似ないようにヒゲを剃り落とすということをしており、老中である利勝におもねって同じようにヒゲを落とす者が続出したことから、それまでヒゲをはやすのが当たり前だった武士が以後ヒゲをはやさなくなったという面白いエピソードがある。

 時刻は14時半。電柱のないきれいな並木道を歩いていくと「史蹟 古河城御茶屋口門址」の碑が建っている。将軍家の日光社参の際はここから古河城内に入り、御茶屋と呼ばれる接待施設へ向かったそうだ。その先、高札場のあった交差点から江戸町通へと折れて古河城下を見物していくことにする。しかし、明治の鬼才絵師・河鍋暁斎の生誕地跡は見落としてしまい、1920(大正9)年建築・大谷石造3階建ての蔵を利用した篆刻博物館も外見を眺めただけで通り過ぎる。この石蔵のほかにも通り沿いには歴史の感じられる建物が多く、作家の永井路子さんの旧家だという浅緑色の建物や、驚いたことに古い商家をそのまま利用しているガソリンスタンドもある。狭い割りに車の多い通りをなんとか横断して右の細道に入り込み、藩主・土井家の菩提寺だった正定寺に向かう。黒門と呼ばれる門は、土井家の江戸下屋敷の門を移築してきたもの。裏手にある墓地も、もともと浅草にあったのを、関東大震災の後に移築してきたそうだ。本堂の前に土井利勝の束帯像。参道へと通ずる朱塗りの門に「南無阿弥陀佛」の鏡文字と2のn乗マイナス2イコールOと書かれた方程式が書かれているのは何かの謎かけだろうか。少し陽が出てきたのを嬉しく思いながら、再び通りを渡って反対側の細道に入り、古河城追手門跡の碑を見る。周囲は住宅地になっているが、かつてこの両側は幅7間(13m)の堀になっていたようだ。何も残っていない御殿医・河口家の屋敷跡、作事役所の跡などを見つつ、利根川の堤防に出る。下総・武蔵の境に架かり、下野国もほど近い三国橋のたもとから堤防の上を歩いていく。城跡の碑が堤防上にあるはずだが、なかなか見つからない。かなり歩いたところで「古河城本丸跡」とペンキで書かれた小さな水色の鉄柱を見つけた。古河城の本丸は利根川の改修工事で河川敷に取り込まれ、今は跡形もなくなってるのは知っていたが、それにしても寂しい城跡だ。先ほど比較した小田原城に立派な復元天守が建てられているのとは見比べようもない。拍子抜けして堤防を降り、国道354号を歩いていくと古河城の三階櫓を模したと思われる建物が新聞店の隣に建っていた。

中田の松原
中田の松原
古い商家を利用したガソリンスタンド
古い商家を利用したガソリンスタンド
正定寺黒門
正定寺黒門
古河城本丸跡
古河城本丸跡

 国道を離れ、辛うじて残っている土塁の遺構と家老屋敷の長屋門を眺めつつ古河歴史博物館へ。1990(平成2)年開館という博物館の周囲は噴水のある小公園になっていて、城跡らしい落ち着いた雰囲気に造られている。いいと思ったらやはり日本建築学会の賞を受けているそうだ。館内には合併記念で旧3市町の歴史が紹介されているほか、古河にまつわる文化人の事跡が展示されている。日本で初めて医師として解剖を行ったとされる藩医・河口信任、老中を務める傍ら、雪の結晶の研究を行った藩主・土井利位、そして利位の家老で蘭学者の鷹見泉石、と古河藩では藩の中枢が好んで学問を探求していたことがよく分かる。泉石は、地図の収集を行ったり、自らオランダの地図を和訳したりと地理に対する興味が深かった人らしく、さまざまな地図が所狭しと展示されていた。しかし、泉石は、本人の事跡よりはどちらかというと渡辺崋山の描いた肖像画の被写体として有名かもしれない。あの肖像画は、大坂城代として大塩平八郎の乱を平定した土井利位に代わり、幕府からおほめの言葉をもらったときの礼服姿を写したものなのだそうだ。歴史博物館の向かい側には、その泉石の屋敷が残っており、鷹見泉石記念館となっている。苔むした屋根を持つ素朴な建物で、古河城三階櫓の余材で建てられたという伝説だけが家老屋敷にふさわしい。

 記念館を一回りしてから、泉石のオランダ風のサインを刻んだ生誕地碑を眺め、街道へと戻る。途中、肴町の通りにかつて両替商や酒問屋を営んだという坂長本店の蔵が残っている。店蔵や袖蔵はかつての古河城の建物の払い下げを受けたものといい、さすがにそれらしい威容を誇っている。2時間ぶりに街道に戻る。城下を通る大名を接遇した使者取次所の跡、古河宿本陣の跡を示す碑を過ぎると、街道は左の細道へと折れ、さらに右へと鍵の手に曲がる。「左日光道 右江戸道 東筑波山」と刻まれた1861(文久元)年の道標が位置を少し変えて残っている。最初の角を左ではなく右に曲がると筑波山に行けるらしい。その先、立派な棟を上げた商家や大谷石で造られた蔵など街道筋にふさわしい建物が多い。付近には最近まで脇本陣の建物も残っていたらしい。

鷹見泉石記念館
鷹見泉石記念館
坂長本店
坂長本店

 次回の行程を考えると今日はもう少し歩いておかなくてはならないのだが、古河市内で予定以上に時間をとってしまい、既に時刻は17時近くになっている。鷹見泉石の墓所がある正鱗寺もやむを得ず通過し、県道に合流する。アメリカ南部の豪邸をイメージしたというゴージャスな結婚式場があって、そのうち何の表示もないままに栃木県下都賀郡野木町に入っている。古く仁徳天皇の時代からあるという野木神社に向かって、まっすぐ参道が続いているが、少し遠いようなのでこちらも通過。この野木神社を中心に成立した野木村が宿場となったのが野木宿である。天保年間の数字で家数126軒というから、利根川べりの中田宿ほどではないにしろ、かなり小さな宿場である。先ほど国道に合流したこともあって、通り沿いの風景から宿場らしさはあまり感じられず、17番目の一里塚の跡にも小さな立て札が立てられているだけだった。ただ、道路脇に「是より大平に至る」と彫られた古い道標が残されているほか、このあたりでは十九夜塔がよく目につく。野木宿近辺で月待ち行事が流行したことがあったのだろう。どこからどこまでが宿場だったのかよく分からなかったが、田んぼが見え始めたところを見るとどうやら宿場を抜けたらしい。ひたすら国道を歩いていくうち、時刻は18時近くなり、すっかり日が暮れてしまった。痛む足を引きずりながらJR野木駅着。東京に戻ってから後輩とビールを飲んで疲れを癒したが、調子に乗ってジョッキ9杯も飲んでしまい、翌日は二日酔いと筋肉痛で起き上がれなかった。

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