YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

陽明門

● 日光街道・5

野木宿~小山宿

 2006(平成18)年1月8日、東武日光線の準急電車は10時37分に柳生という小さな駅に着いた。この駅は埼玉県北埼玉郡北川辺町にあるが、ほんの数百m離れた田畑と住宅地が入り混じるあたりに栃木県下都賀郡藤岡町、群馬県邑楽郡板倉町との境界点がある。三つの都府県が交わる場所は、私が数えたところでは飛び地を除くと全国に44箇所あって、うち36箇所は山の上、6箇所は川の中、1箇所は尾瀬ヶ原の湿原で、このように何の変哲もない場所で3つの県が合わさる箇所は他にはないようである。この場所も昔から何もなかったわけではなくて、もとは武蔵と上野・下野を分ける利根川と、上野と下野を分ける渡良瀬川の合流点だったのだろう。両河川は、昔からこの地域にたびたび洪水を引き起こし、大きな被害とともに肥沃な土壌をもたらしたため、この付近の土地は肥料要らずの沃土として農業が発展することとなったという。

 そうした恵まれた状況が一変するのは明治時代、渡良瀬川の上流にある足尾銅山で大鉱脈が発見され、大量の銅が産出されるようになってからのことだった。銅の精製時に発生する鉱毒により、渡良瀬川下流のこの地域で魚の大量死、稲の立ち枯れといった被害が1885(明治18)年ごろから発生するようになったのである。日本の公害の原点ともいえる足尾銅山鉱毒事件。被害を受けた農民たちは衆議院議員・田中正造を中心に鉱毒反対運動を行い、それに対し政府は、鉱毒を沈殿させ、洪水を防ぐための遊水地を渡良瀬川下流に設けることを決定した。この遊水地は当初、埼玉県側に建設されることになっていたが、強力な反対運動が起きたため予定地が栃木県側に変更され、当時の栃木県下都賀郡谷中村を丸ごと買収して遊水地にすることとされた。鉱毒の被害を受けた上に村自体も失われることとなった谷中村の住民は当然強硬に反対し、田中正造も谷中村に移り住んで反対運動を支援したが、1906(明治39)年、栃木県は谷中村を強制的に廃村とし、隣の藤岡町に合併させた。

 三県の境界の北にある高い堤防を越えると、渡良瀬遊水地の一部をなす渡良瀬貯水池が現れた。ハート型をした貯水池の中央にある中の島からは東に筑波山、西には赤城山をはじめとする上州の山々、そして南には遠く富士山までもが見えている。貯水池の面積は約4.5k㎡、総貯水容量は2,640万立法メートル。足尾銅山は1973(昭和48)年に閉山となっており、現在では鉱毒の防止というより洪水調節や都市用水の確保が主たる目的になっているようだ。周囲には釣り人やウインドサーフィンを楽しむ人の姿も見える。この貯水池の北側はかつて谷中村の中心だった史跡保全ゾーンで、「谷中村役場跡」などの標柱が立っているほか、少し奥まった場所には田中正造が村民を激励した雷電神社跡、そして谷中村唯一の遺構と思われる延命院共同墓地の墓石が残されている。

 遊水地の一部は公園化され、駐車場や広場なども整備されているが、残りの大部分は高さ2m以上もあるヨシが生い茂った広大な湿地となっている。ヨシには水質を浄化する作用があるほか、簾などの材料にもなるため、一部ではヨシの刈り取り作業が行われていた。渡良瀬川を渡り、真っ青な空の下に広がる枯れ草色のヨシの原っぱを突き進むこと約1時間、思川に架かる松原大橋に到着した。橋を渡ったところにある国道4号との交差点が前回の終点である。時刻は13時30分。既に約10km歩いているため、日光街道歩きを再開する前に、交差点際にあるマクドナルドで昼食休憩をとる。

空から見た渡良瀬遊水地(札幌行きの航空機より)
空から見た渡良瀬遊水地
(札幌行きの航空機より)
渡良瀬貯水池から富士山遠望
渡良瀬貯水池から富士山遠望
雷電神社跡
雷電神社跡
刈り取られたヨシ
刈り取られたヨシ

 マクドナルドを出て、国道をしばらく行ったところにある法音寺に「道ばたのむくげは馬に喰れけり」の芭蕉句碑が建つ。1780(安永9)年の建碑ということで古い碑だが、この句は芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途中、東海道大井川付近で詠んだものであり、「おくの細道」とは何の関係もない。境内にはほかにもたくさんの碑が建っており、その中で「前長者大教正秀善書」と書かれた1882(明治15)年3月建立の二十三夜塔に興味を引かれる。調べてみると「大教正」とは明治初期に国民教化のため政府により設けられた「教導職」の筆頭だそうで、そんな肩書きがかつて存在したとは初めて知った。どちらかというと民間信仰の産物というべき二十三夜塔にそんな人が揮毫しているのはなんだか妙な気がするし、「大教正」の前についている「前長者」という肩書きもいったいどういう立場なのか気になるところだ。法音寺の斜め向かいには、日光参詣の際に将軍が休んだという友沼八幡神社。古河を発った将軍が最初に休憩するのがこの神社にあった西運庵という建物だったそうだ。

 街道沿いの大木のもとに小さな祠が2つ祀られており、小さな狐の像が祠の前に1組ずつ置かれていたりする。小山市に入って、若宮八幡には大きな大日如来の銅像がある。1709(宝永6)年に鋳造されたもので、屋外に設置されているため「濡れ仏」と呼ばれているそうだ。簡単な屋根はあるので、まったくの雨ざらしというわけではないが、やはり仏様を神社の社殿の中に入れるわけにはいかなかったのだろうか。藤原秀郷が平将門征伐を祈願して飯(まま)田を寄進したという間々田八幡宮の参道は見落としてしまい、気がつけば間々田駅前通りとの交差点まで来ていた。間々田宿に入る前に少し寄り道して小山市立博物館へ。ここには、間々田宿関連の展示や、江戸時代、この近くにあった乙女河岸の模型がある。この河岸からは思川・利根川・江戸川を利用した水運が江戸まで通じており、小山付近は水陸の交通の要衝として栄えていた。その先には明治時代の小山駅の絵。日本鉄道(現在の東北本線)が開通して小山駅ができたのは1885(明治18)年のことで、1889(明治22)年には水戸に通ずる水戸鉄道(同・水戸線)、前橋に通ずる両毛鉄道(同・両毛線)が全通しており、明治になっても小山は交通の要衝だったことが分かる。博物館の隣の公園には「史跡乙女不動原瓦窯跡」の碑が建っていて、窯跡には、屋根を乗せた古代の瓦窯の模型が造られている。ここは天武天皇の時代に建設された下野薬師寺の瓦などを製造した場所だそうだ。瓦窯跡の向こうには「大願成就」「不動明王」と記された鐘楼つきの山門が見える。ここ泉龍寺のご本尊は、日光中禅寺湖の中から現れたという乙女不動尊で、泉龍寺の名にふさわしく境内には氷を張った小さな池がある。

 街道に戻って間々田の宿場町を行く。ここは芭蕉と曽良が粕壁に続く2泊目の宿をとった宿場でもある。旧家も数軒残ってはいるが、国道沿いのため往時をしのべるような雰囲気でもない。本陣跡は駐車場になり、日光街道中間点を示す「逢の榎」も二代目の木らしい。日本橋を出発してからかなり歩いたように思っていたが、ようやく中間点か…。気を取り直してさらに国道を進み、間々田宿を抜けると、地名は「千駄塚」となる。街道を通る商人が土地の長者と賭けをし、千駄(馬千頭分)の荷を失うが、翌年再び賭けをして去年の荷を取り返したというのが地名の由来らしい。商人が2度目に賭けた荷はただのがらくたで、しかも商人はそのがらくたを長者の家に置いていってしまったので、長者はそれを埋めて塚にしたという。その塚なのかどうか、街道の左手に熊笹に囲まれた丘があるのが見える。直径70m高さ10mあるというこの丘は、実は6世紀ごろの古墳で、その頂上には浅間神社の社殿が建っている。浅間神社の祭神は、富士山の神コノハナノサクヤヒメであり、山があるから山の神様を祀ったというのは分からなくはないにしても、自分の墓の上に神社を造られてしまった被葬者は地下で当惑してそうな気がする。

乙女不動原瓦窯跡
乙女不動原瓦窯跡
「逢の榎」の碑
「逢の榎」の碑

 時刻は16時。今の季節では歩けるのはあと1時間ちょっとといったところだろう。街道沿いに重厚な酒蔵があり、「平成17年全国新酒鑑評会金賞受賞 大吟醸若盛 門外不出」などと大きな看板が出ている。ちょっと飲ませてくれそうなショールームもあり、いささか心惹かれるが、こんな中途半端な場所で酔っ払って終わりになっても困るので心を鬼にして先を急ぐ。千駄塚の隣は粟宮という町でここには名前の通り「安房神社」がある。国道は小山宿を迂回するように左にそれて、街道は県道になる。「神鳥谷」と書いて「ひととのや」と読む難読地名を過ぎ、国道50号の陸橋をくぐるとその小山宿に着く。人口16万人の小山市の中心部だけあって、通り沿いはそこそこ賑わっており、大きなショッピングセンターも建っている。通りから少し奥まったところにお寺の庫裏のような立派な玄関を持つ家があり、手前には「明治天皇御駐輦之碑」「明治天皇小山行在所」という2つの碑が並んでいる。天皇が立ち寄るからには本陣か脇本陣なのだろうと思ったら、やはりかつての脇本陣の建物であるらしい。わずかばかりの宿場の名残を見つけて安心し、小山駅前の交差点で街道歩きを終える。

 このまま駅に行ってもよかったが、まだ日は完全に沈みきってはいないので、駅とは反対側に曲がって小山城跡を見に行く。もともとこの地方は藤原秀郷の子孫と言われる小山氏の勢力下にあり、小山氏は思川に沿って「祇園城」と呼ばれるこの城や、やや下流の鷲城などを築いて、本拠としていた。これらの城砦群を総称して「小山城」と呼んでいるようだ。小山氏は鎌倉時代に下野国の守護を務めた名門だったが、戦国時代になると上杉氏や北条氏に屈服させられ、北条氏の滅亡とともに豊臣秀吉に領土を奪われてしまった。江戸時代になって、小山祇園城は徳川家康の側近・本多正純の居城となり、正純が小山3万石から宇都宮15万石に大加増を受けると廃城となった。現在は城山公園となっている祇園城址からは夕日に輝く思川が見渡せる。いちばん南側にある郭が本丸らしく、その北端に空堀があって隣の郭との間に祇園橋という赤い欄干の橋がかかっている。祇園橋を渡った先には「実なし銀杏」と呼ばれる大きな銀杏の古木がある。実をつけないのは、祇園城落城のときに、古井戸に身を投げて死んだ姫の霊が宿っているためなのだそうだ。なお、曽良のメモには、「廿九日 辰ノ上尅マヽダヲ出。 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ右ノ方ニ有」とあり、この「小山ノヤシキ」が小山氏の屋敷であった祇園城のこととされているようだが、祇園城は日光街道の左側にあるので、やや疑問が残らないでもない。

千駄塚古墳
千駄塚古墳
小山宿脇本陣
小山宿脇本陣
祇園城から思川を見る。
祇園城から思川を見る。
空堀に架かる祗園橋
空堀に架かる祗園橋

 1600(慶長5)年、会津の上杉景勝討伐のため、北を目指していた徳川家康は、この小山で石田三成挙兵の報を聞き、方向を転換して西へと向かった。その際の会議を「小山評定」といい、ここでの決定が関ヶ原での徳川家勝利につながったことから、小山は徳川家にとって縁起のよい地とされ、小山城廃城後には、日光社参時の宿泊・休憩用に将軍家の御殿が建てられた(1682(天和2)年取り壊し)。城山公園の南に「小山御殿広場」という広場があり、その南には小山市役所がある。小山市役所前には「小山評定跡」の碑が建っていたようだが、暗くなっていたので見落としてしまった。祇園城の守り神であった須賀神社(祇園社)に立ち寄ってから小山駅に向かう。駅ビルで夕食をとってから快速電車に乗り込み、シートに座ったとたんに寝入ってしまった。 

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