YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

陽明門

● 日光街道・3

越谷宿~幸手宿

 平成17年7月17日、10時前に越谷駅に着いた。駅前の通りを左折して越谷宿に入る。宿場町だった頃の建物はさすがに残っていないようだが、街道の両側には、戦前のものと思われるマンサール屋根の診療所や昔の地方銀行にありそうな石造りのファサードを持つ建物、黒塗りの塗屋造りの商家と土蔵、イギリス積みのレンガの耐火壁など歴史を感じさせる建物があちこちに残っている。一見、そうでないように見える建物の中にも、古い建物の表面を看板で覆っただけのものが多くあるようなので、行政の支援などでうまく保存の措置をとることができれば、なかなかよい景観の町並みになりそうだ。とはいえ、このように古い建物がそこそこ残っていたとしても、わざわざ費用をかけて景観の保全を行うインセンティブに乏しいというのが実態なのだろうなぁなどと思いながら進んでいくと、街道は元荒川に行き当たった。元荒川はその名の通り、元の荒川で、荒川が現在の川筋になったのは、江戸時代初期に関東郡代・伊奈忠治が付替えを行ってからのことである。忠治の父・忠次に始まる関東郡代・伊奈家は、1792(寛政4)年、12代忠尊が改易されるまで、代々、関東地方の天領を管理し、治水・灌漑に功績を上げていた。少し寄り道して元荒川沿いに下っていくと、元荒川の下を用水路がくぐっている場所がある。「葛西用水」と呼ばれるこの用水路も、忠治の子・忠克が建設したものである。

 葛西用水と元荒川が交差する場所には「越ヶ谷御殿跡」の新しい石碑が立っている。説明板によると、越ヶ谷御殿は、徳川家康が鷹狩りのために設けた御殿で、1657(明暦3)年の江戸大火の際、江戸城御殿再建に利用するため解体されたとある。江戸時代には関東近郊にこうした御殿が多数設けられており、家康の頃の中原御殿や吉宗の頃の小菅御殿などが知られている。その先、1249(建長元)年に建てられたという板碑を眺めてから街道に戻り、大橋(大沢橋)で元荒川を渡る。元荒川北側の大沢町は越谷宿の一部を成していたが、越谷町と合併したのは戦後1954(昭和29)年になってからのことだった。正面にそびえるベージュ色の高層ビルは、地上28階建ての「パルテきたこし」。2001(平成13)年の春、東武伊勢崎線の高架複々線化に合わせて北越谷駅前にオープンした再開発ビルである。駅前広場には「茨急バス」と書かれた見慣れないバスが出入りしている。このバスを運行している茨城急行自動車は東武鉄道のグループ会社で、東武バスから北越谷周辺の路線の移管を受けている。

越谷宿の町並み
越谷宿の町並み
越ヶ谷御殿跡の碑と葛西用水
越ヶ谷御殿跡の碑と
葛西用水

 東武伊勢崎線の高架をくぐった先の草むらに「青面金剛」と刻まれた庚申塔がうずもれていた。左手、木がうっそうと茂るあたりは宮内庁の埼玉鴨場。宮内庁の鴨場はここと千葉県市川市の新浜鴨場の2箇所があり、冬場に外国の外交官や閣僚、議員、最高裁判事などを招いて伝統的な鴨猟が行われているという。もっともここで捕らえられる鴨は、標識をつけた後に放されることになっており、鴨猟の後に出される鴨料理には合鴨が用いられているそうだ。もちろん中には入れないので門だけ見て先へ進む。この付近からは3km近く歩道の無い2車線道路が続くので、ひたすら側溝の蓋の上を歩いていく。東武の踏切を渡り、国道4号草加バイパスの陸橋をくぐり、国道4号に合流したところで、ようやく歩道が復活。「日本橋から30km」のキロポストと、せんげん台駅の入り口を示す標識が立つ先で、千間堀を渡って春日部市に入る。1967(昭和42)年、東武伊勢崎線に新駅が開設されたときにこの千間堀の名前にちなむ「せんげん台」の名がつけられ、新しく開発された住宅地は「千間台」という地名になった。○○台という地名は新興住宅地によくある地名だが、せんげん台周辺の標高はおよそ5mしかなく、地形から見れば「台」と呼べないのは明らかである。天気はうす曇で何しろ暑い。とりたてて見どころのない国道を3kmほど進み「史跡備後一里塚」の標柱を見る。さらに2km歩いて、三又になった交差点を左に入り、正午過ぎに粕壁宿に着いた。

 江戸時代の「粕壁宿」は現在の「春日部市」で、同じ「かすかべ」でも字が異なっている。江戸時代より前の中世には「春日部郷」だったところなので、1944(昭和19)年に粕壁町と内牧村が合併した際に元の「春日部」の字を復活させて「春日部町」としたのだそうだ(1954(昭和29)年に市制施行)。しかし粕壁宿があったあたりの地名は今も「粕壁」のままで、たとえば春日部市立中央図書館の所在地は、「春日部市粕壁東二丁目」となっている。また、春日部市は、最近では漫画「クレヨンしんちゃん」の舞台として知られるようになり、昨年(2004年)には、春日部市の市制50周年記念行事の一環で、しんちゃんの野原一家は春日部市民として住民登録され、特別住民票の交付も行われた。

 粕壁宿は、「おくのほそ道」の旅で松雄芭蕉が最初に宿をとった宿場とされている。芭蕉に同行した河合曽良のメモには「廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余」とあるのみだが、三又の交差点を折れてすぐの東陽寺の門前に「傳 芭蕉宿泊の寺」という石碑が立っていた。芭蕉と曽良が粕壁に泊まった夜は、雨が降ったようだ。二人は雨が降り止むのを待ち、翌朝は午前7時半ごろに粕壁を発っている。街道は春日部市の中心部に入っていき、右手にはイトーヨーカドー系のロビンソン百貨店が建つ。道路の反対側には「際物店」という店がある。キワモノといっても何も怪しいものを取り扱っているわけではなく、羽子板、五月人形など季節ものを商う店で、店の前には「盆提灯」と書かれた大きなのぼりが翻っていた。粕壁宿の跡はそのまま春日部市のメインストリートになってしまっているため、一つ前の越谷宿に比べると新しい建物が多いように思われるが、それでも白い漆喰で塗られた商家の前に「東江戸 西南いワつき」という1834(天保5)年の道しるべが立っていたり、どっしりと重厚な趣きの土蔵が道路から少し引っ込んだ場所に残っていたりする。歩き疲れたので春日部駅前のケンタッキーフライドチキンで休憩。

伝 芭蕉宿泊の寺・東陽寺
伝 芭蕉宿泊の寺・東陽寺
粕壁宿・商家と道しるべ
粕壁宿・商家と道しるべ

 粕壁宿の通りをまっすぐ歩くと、春日部郷の地頭だった春日部重行にゆかりの深い最勝院というお寺に突き当たってしまう。最勝院の少し手前の交差点を右に曲がるのが日光街道で、左に曲がるのは城下町・岩槻に向かう道である。先ほどの商家の前にあった道しるべはもともとこの位置に立っていたもののようだ。交差点を曲がると街道はすぐに古利根川にぶつかり、そこには今年(2005年)の春に架け替えられた新町橋が架かっている。元荒川が元の荒川であったように古利根川は古くは利根川の本流だった。利根川を現在の流路に付け替えたのも、元荒川のところで出てきた伊奈忠治・忠克父子である。古利根川は江戸時代には埼玉郡と葛飾郡の境で、古代には武蔵国と下総国の境でもあったのだが、今は川向こうにも埼玉県春日部市が続いている。川を渡ったら左折しなくてはならないのを忘れて、うっかりまっすぐ進んでしまい、相当先まで行ってから気づいて逆戻りする。「庚申塔」「史跡小渕一里塚」と刻まれた2つの石柱が路傍に立っている。真新しい一里塚跡に比べると、庚申塔はかなり古いものらしく、最後の「塔」の字が道路の舗装に半分ほど埋まっている。すぐ先には今度は「青面金剛」の字がある庚申塔があり、その側面には「左日光道」と書かれている。庚申(かのえさる)の日の夜には、人の体から三尸(さんし)の虫が抜け出して天帝に罪業を告げるという言い伝えがあり、かつては、それを防ぐために庚申の日に村人が集まって夜通し起きているという慣わしがあった。庚申塔はそうした庚申待ちによる結願の記念に村境や追分などに立てられ、青面金剛や三猿を彫るのが定番だった。

 再び国道4号に合流し、国道16号との交差点を過ぎる。元禄の頃に建てられた楼門を持つ小渕山観音院の境内に「毛(も)のいへば唇さむし秋の風」の芭蕉句碑。この句は「おくのほそ道」に出てくる句ではないが、芭蕉がこのお寺に泊まったという説もあるようだ。ただ、ここは粕壁宿からは1km以上離れているため、曽良がはっきり「カスカベニ泊ル」と記していることを考え合わせれば、先の東陽寺の方が位置的にはしっくり来るような気がする。田んぼが広がり始めて北葛飾郡杉戸町に入る。町の入り口には地球儀型のモニュメントが置かれ、その北緯36度のところに線が引かれている。隣にある町内の案内図を見ると、北緯36度線は、杉戸町の南部を通過していて、中国の青島(チンタオ)や、アメリカのナッシュビル・ラスベガス・グランドキャニオン、イランのテヘランなどと同じ緯度にあたるのだそうだ。それにちなみ、このモニュメントには「すきすきすぎーと36」という愛称がつけられていて、近くには駐車場まで整備されている。確かに手元の地形図(1:25,000野田市)を見ると、北緯36度線は、町境から約250m北を通っていて、北緯36度線と国道4号は杉戸町内で交差している。ところが地形図をよく見ると、そのすぐ南にももう1本の36度線が通っていることが分かる。実は2002(平成14)年に測量法が改正になり、従来、日本測地系により表されていた緯度・経度が、新しい世界測地系によって表されることになった。杉戸町内を通っている36度線が以前の日本測地系によるものであるのに対し、もう1本の36度線は新しい世界測地系によるもので、こちらは杉戸町境からほんの50mほど南の春日部市内で国道4号と交差している。このモニュメントが設置された1993(平成5)年当時は、日本測地系によるものこそが36度線であり、まさかその後、隣の市に36度線が移動してしまうとは思いもよらなかっただろう。

小渕一里塚跡と庚申塔
小渕一里塚跡と庚申塔
すきすきすぎーと36
すきすきすぎーと36

 しばらく国道を歩いてから、左の旧道に折れる。1784(天明4)年に建てられたという道しるべがあり、「左日光」「右江戸」と刻まれている。正面には「青面金剛」とあるから、庚申塔の役割も兼ねているのだろう。よく見ると下のほうには「不」の字のような記号があり、これはどうやら草加宿手前の浅間神社の手水鉢に彫られていた「高低測量几号」と同じもののようだ。道しるべと並んで立っている小さな「馬頭観世音」の碑も街道沿いではよく見られる。再び国道に戻り、「東京から40km」のキロポストの先でまた旧道に入る。杉戸警察署前の公園でしばし休憩。時刻は14時半。杉戸町役場付近からは夏祭りの交通規制が敷かれている。通りの右側には露店が立ち並び、子供みこしもやってきた。このあたりが杉戸宿の中心部で、「本陣跡地前」という交差点もある。交差点手前の中央三井信託銀行の前に「明治天皇御休所」の碑があり、交差点の少し先には、本陣の名残といわれる小さな門があるが、普通の民家の門として使われていて、説明書きも特に付されていない。交差点を左に曲がった突き当りにある東武動物公園駅は、1981(昭和56)年までは杉戸駅と呼ばれていた。駅名から自治体の名前を外すというのは思い切ったことをしたものだと思うが、もともと杉戸駅のある場所は、杉戸町内でなく隣の宮代町内なので、仕方がないということになったのかもしれない。東武動物公園行きの電車は地下鉄まで直通しているので、動物園のいい宣伝になっていることだろう。

 交差点をまっすぐ進み日光街道を行くと、古い商家や土蔵が何軒か建っているのが見られる。ところどころ電柱に赤い線が引かれていて、「ここは昭和二十二年の洪水で利根川の堤防がこわれ赤い線まで浸水しました。」という説明板がとりつけられている。線の引かれている高さは場所によって異なるが、高いところでは胸くらいまである。利根川はここから10数km先にあるので、いかに大量の水が流れ出したかが分かる。再び国道に合流して田んぼの中を歩いていく。茨島一里塚跡には説明板のみが立つ。1986(昭和61)年に開設された杉戸高野台駅の周辺は住宅開発がなされているようだ。幸手市に入るとやがて国道は右にカーブしていくが、日光街道はそのまままっすぐ進む。東武日光線の踏切を渡った先にある幸手南公民館の前に道路元標が保存されている。白っぽい石でできていて文字が読み取りにくいが、説明板があるので旧上高野村の道路元標であることが分かる。忘れられたように道端に放置されている道路元標が多い中で、ちゃんと説明を付けて保存してあるのは珍しいように思う。街道はスーパーに突き当たって右に曲がる。左からは、東京・文京区の本郷追分で中山道から分かれ、川口、岩槻を通ってきた日光御成道(岩槻街道)が合流する。江戸時代を通じて19回行われた徳川将軍家の日光社参は、ここまでは日光御成道を通り、ここからは日光街道を通って行われた。源頼朝の奥州征伐の際に開基したと伝えられる神宮寺の前を通り、丁字路を左に曲がると幸手宿に着く。ちょうどお盆の時期なので、幸手宿も夏祭りの最中である。時刻は16時前。そろそろ足が重くなってきたので、提灯をたくさんつけた山車が通り過ぎていくのを横目にしながら、東武幸手駅へと向かう。駅前の「東武鉄道日光線開通紀念碑」を眺めているうちに、遠く神奈川県大和市の中央林間まで行く直通電車がホームに入ってきた。

杉戸宿本陣の門
杉戸宿本陣の門
赤い線の入った電柱
赤い線の入った電柱
日光御成道との合流点
日光御成道との合流点
幸手の山車
幸手の山車

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