YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

黄瀬川

● 伊豆国~駿河国・7

藤枝宿~金谷宿

 秋晴れの2001年10月14日。始発列車で東京を発ち午前9時に前回の終着点である藤枝から歩き始めた。この付近の東海道は国道1号の裏道にあたるためか片側1車線の道路をスピードを出して車が行き交っているが、旧街道らしく道はゆるやかに左へ右へと曲がっていて見通しが悪く少し危ない。住宅地のなか突然西友が現れるがまだ開店前。その先に田中藩領と掛川藩領の境を示す「従是東田中領」と書かれた榜示石が立っていたそうだが現存しない。前回見た「従是西田中領」の榜示石ともども田中藩の家臣で書家の藪崎彦八郎が記したもので、その達筆は旅人を感心させたというが、今は小さな石柱がその跡を示すのみである。なお、この付近は田中藩領と掛川藩領、旗本領、横須賀藩領が入り組んでおり、この1kmほど先からまた一時的に田中藩領に戻るのだという。

御先騎
御先騎

 大井川が近いせいか藤枝から島田にかけての東海道は何度か付替えられているようで、中世の東海道だったという細い道が残っている。1635(寛永12)年に田中藩主が領地を大井川の洪水から守るために築いた千貫堤跡の表示と、前回の帰り道に食べた「瀬戸の染飯」の茶屋跡の表示が向かい合わせに立っている。ここの案内板には瀬戸の染飯は「足腰が強くなるというので旅人には好評だった」と書かれていた。松並木が続くようになり、51番目の上青島一里塚がある。やがて合流した国道1号にも205.7kmの表示があり、いつの間にか東京から50里、200km以上も歩いていたことに気づく。島田市になり、六合駅付近で国道1号からいったん旧道に入り、また国道に戻る。むかしの農家風の建物を何軒か見かける。戦後すぐの1946(昭和21)年に昭和天皇がこの地の製茶工場を訪れたという記念碑がある。ここから水の多い大津谷川を渡り、左にそれる旧道に入ると島田宿なのだが、その旧道にはロープが張られており車両通行止めになっている。歩道には場所取り用のシートや折りたたみ椅子が並べられ、既に人だかりができ始めている。遠くから「静岡県指定無形民俗文化財 島田の帯祭」と書かれたのぼりが近づいてきた。

大奴
大奴

 島田の帯祭りは、大井川の安全を祈願する大井神社の祭礼で、1695(元禄8)年以来、3年に一度行われ、今年で第103回目を数える由緒正しいお祭りである。3年に一度、3日間しか行われない帯祭りの日にたまたまこの島田宿を通過する偶然が何かの引き合わせのようにも思えてとても嬉しい。見物客にまぎれてしばらく祭りの通過を見守る。行列の先頭は大名行列で、拍子木を打ち鳴らす「お先触」に長柄の槍をかつぐ一群が続き、具足の後ろから馬に乗った「御先騎」の武士が威風堂々登場する。といっても馬上にまたがっていたのは幼稚園児くらいの小さな子供だった。華やかな衣裳の鉄砲隊もまた子供たちで、その後ろからは蛇の目傘を持ち、舞いながら歩む25人の「大奴」がやってくる。山伏姿に大きな奴髷を結い、化粧まわしのような前垂れをかけて、左右に差した長い木太刀に女帯を飾っているという異様な姿で、この大奴の帯こそが「帯祭り」の名前の由来をなすものである。むかし島田に嫁いできた花嫁は、大井神社にお参りしたのち島田の宿のひとびとにその晴れ着姿を見せて歩き回るのがしきたりであったのだが、そのように見世物同然に歩き回らせるのは酷であるとして、祭礼の大奴に晴れ着の帯だけを飾ってもらい披露することとしたのだそうだ。大奴の次には赤い房のついた矛を振りかざす「大鳥毛」が続く。このあたりが帯祭りのハイライトともいうべきところである。

蓬莱橋の上で
蓬莱橋の上で

 まるで東海道の旅の最中に大名行列の一群に行き当たってしまったようだった。いつまでもじっとしているわけにもいかないので人ごみをかきわけていくが、いっこうに先へ進まない。途中で横道にそれて大井川にかかる蓬莱橋を見に行った。明治になってから旧幕臣や失職した大井川の川越人足らが荒れた牧の原の台地を開墾し、当時輸出商品としても注目されていた茶の栽培を行うようになったが、牧の原を拓く人々は大井川を渡り島田に生活用品を買出しにいくのに非常に苦労していた。そこで1879(明治12)年に島田と牧の原を結んで大井川に架けられたのがこの蓬莱橋である。全長897.4m、幅2.7mのこの橋は、橋脚はコンクリートに替えられたものの橋自体は木造のまま現存し、ギネスブックにも「世界一の木造歩道橋」として載せられているものである。蓬莱橋の名は旧幕臣たちを激励に訪れた徳川亀千代(徳川家達)が牧の原を「宝の山」と呼んだことに由来するそうだ。

 橋の維持管理のため、地元の土地改良区が通行料金50円を徴収している。橋を渡った先には広大な牧の原台地が広がるだけでほかには何もないのだが観光客がけっこう訪れていた。橋はあちこちが傾いたり歪んだりしているが自転車で通行している人もいる。穴があいた個所に赤ペンキで×印が描かれているのも危なげである。しかし青空のもと広々とした大井川を歩いて渡るのもまた爽快だ。橋の真ん中で引き返すつもりだったのだが思わず向こう岸まで渡り切ってしまった。

お神輿

 東海道へ戻るとまだ帯祭りの行列は続いている。大名行列のトリは馬上にしつらえたふかふかの七ツ布団に座ったお殿様のはずだが、ご休憩中なのか席を外しておられるようだった。ちなみにパンフレットの写真を見るとやはりお殿様にも小さな子供が充てられている。大名行列に続くのはお神輿を中心とする神官の行列、さらに鹿島踊りを踊るひとびと、5台の屋台が続いて3kmにわたるという行列はおしまいになる。3年に一度とは言え、ずいぶん費用がかかった祭礼である。大井川を控えて東海道でも有数の豊かな宿場だった島田宿の勢いが今も感ぜられる。この祭りの列を抜けるまでに2時間もかかってしまい、もう正午を過ぎてしまった。参道に屋台の並ぶ大井神社にお参りし、大井川の川明け川留めの時を刻んだ大善寺の時の鐘を見てからパルプ工場の塀に沿って進む。いったん脇道に入って八百屋お七の恋人だった吉三郎の墓がある関川庵に寄る。お七の墓は東京の文京区。せめて一緒に葬ってやるわけにはいかないものかと思いつつ東海道に戻ると道の両側には川越人足が集まった番屋の建物が並び、まるで時代劇のセットのような風景になってきた。既に大井川は近い。

川越遺跡
川越遺跡

 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われるように、江戸時代の大井川には橋がかかっておらず、東海道一の難所であったとされる。1626(寛永3)年の徳川家光上洛に際し、家光の弟でこの地の領主だった駿河大納言徳川忠長が大井川に舟橋を架けて家光を渡したことがあったが、忠長は家光に喜ばれるどころか逆に不興を買ってしまった。大井川がそれだけ戦略上の要地と見られていた証とも言えよう。旅人が大井川を渡るときは、まず川会所で川札を買い、その川札を川越人足に渡して川を渡してもらっていた。川越人足は川札を鉢巻きや髷に結わえておき、あとでその川札を札場に持っていって現金に換えていた。川札の値段はさきの安倍川同様、水の深さによって異なり、股通48文、帯下通52文、帯上通68文、乳通78文、脇通94文と決められていたが、安倍川の渡し賃が16文から64文だったことを考慮するとやはりだいぶ高い。川幅が倍近くあるのだから当然といえば当然か。川札の枚数は川渡しの方法により異なり、肩車であれば水が浅いときは1枚、水が深くなると補助者が必要になるので2人分で2枚。蓮台であればいちばん安い平蓮台に2人乗りの場合で、担ぎ手6人分の6枚と台札が2枚で計8枚必要になる。最上等の大高欄蓮台に乗れば担ぎ手16人と台札等を合わせて52枚の川札が必要だった。なお、安倍川のところで1文=10円の換算をしてみたが、ここの案内板を見ると1文=30円で計算している。この計算でいくと最低額の股通の肩車は48文=1,440円、最高額の脇通の大高欄蓮台は4,888文=146,640円ということになる。お金がない場合には、ライフセイバー役の「待川越」が持つ棒につかまってタダで渡る方法もあったらしい。

 「東海道中膝栗毛」では、弥次・北は最初川越人足に台越しで2人800文と言われ、それは高すぎると今度は武士のふりをして「問屋」に赴く。

といや「ハイおふたりなら蓮台で四百八拾文でござります。」
弥二「それは高直じや、ちとまけやれ。」
といや「エヽ此川の賃銭にまけるといふはないヤア。ばかアいはずとはやく行がよからずに。」

 弥二さんは「イヤ侍にむかつて、ばかアいふなとはなんじや。こいつ武士を嘲弄しおる。ふとゞきせんばんな。」などと強がるが、もうとっくに正体はばれていてふたりは大恥をかくのである。しかし、この話の中には「川札」は出てこないし川越しの値段も直接交渉した場合と問屋にかかった場合で異なるなどいろいろ腑に落ちないところがある。実態はけっこういいかげんだったのか、それとも膝栗毛のこの場面は一九の創作なのか。

大井川
大井川

 両側に並ぶ番屋などの建物は1870(明治3)年に川越制度がなくなってから移築されて通船の事務所や学校の校舎の一部として用いられていたものである。その後、国の史跡に指定され、1970(昭和45)年から10年ほどかけて元の場所に近い位置に復原されたそうだ。川会所も復原されており内部には蓮台などが展示されている。小腹が減ったので、公園でお茶を飲みながら、先ほど道筋で買い求めた島田名物の小饅頭を食べる。この公園に立つ「朝顔の松」は、目の見えない「朝顔」という女性が、恋人を追って川に飛びこんだショックで目が見えるようになり、そのとき初めて目にした松という。もっとも本物の朝顔の松は昭和の初めに枯死しており、いま立っているのは2代目の松である。初代は板碑になってお堂の中に入っている。

長い長い大井川橋
長い長い大井川橋

 公園の向かいにある島田市博物館を見てから川べりに出たのは13時30分。意外と水量がある。4尺5寸(136cm)を越すと川止めになったそうだから、下手をするとこのくらいでも川止めになるのかもしれないと思う。現在はやや上流に大井川橋がかかっており、下流には東海道線の鉄橋がかかっている。川幅は約1km。17連のトラス鉄橋となっている大井川橋を渡るのには12分かかった。川の真ん中が駿河国と遠江国の国境となっており、現代の行政区域で言うと榛原郡金谷町に入る。大井川を挟んで島田宿と向かい合う24番目の金谷宿である。広重は「島田 大井川駿岸」と「金谷 大井川遠岸」の2枚とも大井川の川渡しを描いた。駿河側の岸と遠江側の岸、川を渡る人々に視点を置いたものと川向こうの山々を俯瞰したもの、と広重も差をつけるのに腐心しているようだが、やはり同じシリーズのうちに同じ場所の絵を2枚入れるのは難しかったのか、その後の蔦屋版のシリーズなどでは1枚の大井川の絵に島田と金谷の両宿をまとめてしまっている。

島田 大井川駿岸
「島田 大井川駿岸」
金谷 大井川遠岸
「金谷 大井川遠岸」
金谷宿本陣跡付近
金谷宿本陣跡付近

 また街道を外れて「盗みはすれども非道はせず」の義賊・日本左衛門の首塚を見に行く。日本左衛門は京都で自首して、江戸に送られて処刑され、見附(静岡県磐田市)でさらし首にされて、金谷に葬られた。東海道を行ったり来たりである。見附にさらされていた首を奪ってきて金谷に葬ったのは愛人の女性だったというが、首を抱いて東海道を急ぐその心持ちはどうであったか。戻って大井川鉄道の踏切を渡ったところでまた寄り道し、新金谷駅前にあるPLAZA LOCOという建物に入る。ここには川越し資料館があるほか、SLも走る大井川鉄道にちなんで小型のSLや客車などが展示されている。祭りでにぎわう島田宿とは対照的に静かな金谷宿の中心部に至り、本陣跡を過ぎるとだんだん道は上り坂になってくる。これから先は牧の原台地を越える小夜の中山越えが待っているのだが、今日はこの金谷でおしまいにする。53里目の一里塚跡を過ぎて金谷駅に着いたのは14時30分ごろだった。今日は日帰りの予定だが、まだ少し時間があるので金谷駅から大井川鉄道に乗り、大井川の上流にある川根温泉に寄っていくことにした。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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