YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

旧見付学校

● 遠江国・1

金谷宿~袋井宿

金谷坂
金谷坂

 2001年11月24日。10時10分ごろ金谷駅を出発した。駅裏にある長光寺の境内に芭蕉の句碑がある。「道のべの木槿は馬に喰はれけり」。早朝の馬上に揺られる芭蕉翁。道端にむくげの樹が立っていて、一輪の花が咲いている。と、思ったら芭蕉の乗った馬がそのむくげの花を食べてしまった。馬上でうとうとしかけていた芭蕉も(芭蕉はこの付近で「馬に寝て残夢月遠し茶の烟」という句も詠んでいる。)、その一瞬のできごとにインスピレーションを得たに違いない。馬が花を食べる、ぱくっという音まで聞こえてきそうな句である。

 坂道を登っていくと、やがて「東海道金谷坂」の標柱が現れ、道は石畳になった。石畳が残っているのは、東海道ではこの金谷と既に通ってきた箱根の2箇所だけである。もっともこの金谷坂も往時からの石畳はわずか30mだけで、残りは1991(平成3)年に町民などの参加で復元されたものだそうだ。400mほど続く坂道はけっこう急で、登り終えるころには汗が噴き出してきた。坂の上には茶畑が広がっており、ところどころ椿に似た白い茶の花が咲いている。ここは静岡茶の名産地・牧の原台地であり、この台地上にはかつて武田方の「諏訪原城」があった。茶畑の脇を過ぎて林の中に分け入っていくと左右に深い空堀が掘られている。大井川が削り取った断崖の上にあるこの城からは、前回通り過ぎた島田宿のあたりまで見渡せる。大井川鉄道を走るSLの汽笛が聞こえてきた。

一面に広がる茶畑
一面に広がる茶畑

 今年(2001年)の1月に復元されたばかりという石畳の菊川坂を下っていくと間の宿・菊川に着く。平らな道もつかの間、この先からは約1kmも続く上り坂が始まる。箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道の三大難所に数えられる小夜(さよ)の中山である。坂を上りながら左の方角を見ると、なだらかに続く丘陵の一面に茶が植えられ、白いすすきの穂や黄色いみかんの実がわずかばかりのアクセントとなっている。「雲かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ有明の月」という阿仏尼の歌碑があった。この小夜の中山は古くから和歌や俳句に詠まれており、歌碑や句碑もたくさんある。掛川市に入り、坂を登り終えると標高は150mほど高くなった。久延寺というお寺があり、その境内には有名な夜泣石が置かれている。

「その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い去った。その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。(境内設置の案内板より)」

 その後、通りすがりの弘法大師がこの話を聞いて哀れみ、石に指で「南無阿彌陀」と書くと石は泣かなくなったという。石には今も弘法大師の筆跡が残っているはずだが判然としない。

子育飴
子育飴

 死んだお石から生まれた子供は久延寺の住職に飴で育てられ、のちに母親の仇を討ったという。今もこの小夜の中山の名物は子育飴である。やはりこのあたりで飴を買った弥次・北に倣い、僕も昔ながらの趣を備えた飴屋さんで「つけあめ」100円也を買い求めた。弥次・北のころは「しろきもちに、水あめをくるみていだす」ものだったようだが、今受け取った飴は割り箸にまさしく飴色の水あめをまいただけのものである。店先にはいろいろお土産やパンフレットなども置いてあり、それらを眺めていると、突如、飴屋のおばさんが「あーっ」と大声をあげた。はっと気づくと、道々食べようと手に持っていた飴がでろんと垂れ下がっている。意外と柔らかい飴だ。慌ててぱくつくと口の中に素朴な甘さが広がった。

日坂 佐夜ノ中山
「日坂 佐夜ノ中山」
久延寺境内の夜泣石
久延寺境内の夜泣石

 56番目の佐夜鹿一里塚を越えて茶畑沿いのなだらかな道を進んでいくと、「命なりわずかの笠の下涼み」という芭蕉の句碑があり、涼み松という松が植わっている。「夜泣石跡」の碑があり、道の反対側には広重の「日坂 佐夜ノ中山」の絵を入れた碑がある。本来、夜泣石はこの場所にあったのだが、1881(明治14)年に勧業博覧会に出品されるということになって東京へと運ばれてしまった。実は夜泣石は先ほどの久延寺の石のほかにもうひとつあり、ここから東京に運ばれた石はそのもうひとつの石のほうである。博覧会の後に、石は東京から帰ってきたが、元の場所には帰らず現在の国道1号沿いに置かれてしまった。こちらも現存するが、東海道から少し離れているので今回の旅では見に行かなかった。そもそも夜泣石の伝説にはいろいろなパターンがあって、久延寺の石は妊婦の伝説とはまた別の話に基づくものともいう。広重の絵を見ると道の真ん中に石が置かれており、数人の旅人が集まってものめずらしそうに石を眺めている。難所らしく坂道はかなり急に描かれているが、実際の道はぜんぜん緩やかである。道が急になるのはこの先の沓掛という場所で、坂道で沓を履き替えて木に掛け、旅の安全を祈願したことから、沓掛という地名になったそうだ。「二の曲り」という急カーブを曲がり、転がるように坂を下りていくと日坂宿に着いた。時刻はちょうど12時。

日坂宿の川坂屋
日坂宿の川坂屋

 日坂宿は小夜の中山の西のふもとにあり、「西坂」が転じて「日坂」になったとも言われている。両隣の金谷宿と掛川宿の家数が1,000軒ほどであるのに比べると、日坂宿は僅か168軒しかない小さな宿場だった。国道1号は宿場裏手の高架道路・日坂バイパスを通過しており、人も車もほとんど通らない静かな旧東海道沿いには、江戸時代からの建物も数軒残っている。そのうちの1軒、かつて武家向けの旅篭であった川坂屋は、市によって保存が行われており、休日は内部を見学することができる。身分の高い武士は1階奥の上段の間に宿泊し、家臣はその手前の小部屋に寝ていた。敵に攻められたときの避難を考えて、上段の間は必ず1階に置いたものらしい。上段の間の横手の廊下は行き止まりになっているが、この先にはかつて茶室があったという。こうした話はボランティアらしいおばさんから伺った。岡部の宿場にも同じように見学できる旅篭がありました、という話をしたら、おばさんは、ああ、柏屋さんね、と微笑まれた。このごろの東海道ブームを反映して、各宿場の間でもいろいろつながりがあったりするのだろうか。

事任八幡宮
事任八幡宮

 弥次・北は日坂でどしゃぶりの雨に降り込められ、やむなくこの宿場に宿泊している。今日は雲ひとつない好天だが、晩秋の太陽はあまり高くまで上がらない。午後になって太陽が落ちてくると、西へ向かうには日差しが非常に鬱陶しい。日坂宿を過ぎて国道1号と東海道が合流する地点に事任八幡という神社がある。この神社は、遠江一ノ宮に位置づけられ、枕草子にも出てくる著名な神社という。「事任」と書いて「ことのまま」と読み、どんな願い事も思いのままに叶うことからこの名前があるそうだ。さっそくお参りし、期待をこめておみくじを引く。「凶」。がーん。「願望 心の穢れを去り衰運を挽回しなさい」。願い事どころか心が穢れているとまで言われてなんだかがっくりしたまま、この先とぼとぼと国道を歩いていく。いったん旧道に入ったところに伊達方一里塚の跡がある。ちょっと国道に戻り、また旧道に入り、再び国道に戻る。国道と並行して左に逆川という川、右に有料道路の掛川バイパスが通っている。国道を外れてしばらく歩くと葛川一里塚跡。この1里は特に見所がなかった。空はただただ青く、お日様はただただまぶしい。

掛川城大手門から天守閣を望む。
掛川城大手門から
天守閣を望む。

 何の変哲もない細道を左に折れ、東海道線の線路にぶつかりそうになるのをすぐ右に折れ、突き当りを左に曲がり、右に2回折れて、ちょっと左にずれて右に曲がると元の道。この入り組んだ「新町七曲り」を無事に通り抜けると26番目・掛川の宿場町である。掛川は宿場町であると同時に城下町でもあることから特に道が複雑になっているのかもしれない。さらに右・左と曲がり、ちょっと横道に逸れて、江戸時代にこの地で死んだオランダ使節・ケイスベルト=ヘンミィの墓を見ていく。掛川市内のメインストリートらしい商店街を歩いていき、北に折れると掛川城の大手門に着いた。門の先には3層4階の天守閣がそびえている。大手門は1995(平成7)年、天守閣は1994(平成6)年の復元だが、江戸時代からの御殿が残っており、これは重要文化財に指定されている。以前に見学したことがあるので今回は中に入らず、大手門の向かいの茶屋で抹茶アイスを食べる。川沿いに柳など植わっていてその向こうに天守閣がそびえる様子はなかなか雰囲気がある。掛川は近年、城下町をイメージした街づくりを行っているようで、商店街にもそれらしい建物が多い。商家風の銀行支店の壁面に、掛川城主を務めたことのある山内一豊と、その妻・お千代のレリーフがあったりする。掛川城は太田道灌の子孫の太田氏が城主となっていた期間が長いが、掛川市民にとっては山内一豊夫妻、それもどちらかというと妻・お千代のほうに、より親しみがあるらしい。お千代は、へそくりとして貯めた黄金10両で夫のために名馬を買い、夫の出世のきっかけを作ったという美談で知られている。しかし、名馬を買う前に貯めていた黄金10両が見つかっちゃったりしたら、横領として処罰されていたのではないだろうかと余計な心配をしてみる。

十九首塚
十九首塚

 城下の円満寺には掛川城の城門がそのまま残る。その先、東海道から少し外れ、平将門とその家臣を葬ったといわれる十九首塚(じゅうくしゅづか)を見る。将門は、関東で反乱を起こし、朝廷から派遣された藤原秀郷に滅ぼされた。秀郷は将門の首を持って京に上る途中、この場所で京からやってきた勅使と行き当たったので、ここで将門と18人の家臣の首実検を行うことになった(川のところに首を懸けたことから掛川の地名ができたという説もある。)。

「首実検のあと、さらし首にして十九人の首は無残にも路傍にすてることにした。これを聞いた藤原秀郷は『将門は逆臣であり、その罪は重しと言えども今や滅びて亡し、その死かばねに鞭打つは非道なり』と里人達と十九人の首を埋葬し、懇ろに供養しました。」
「当時は十九ヶ所あった首塚も、長い年月の流れと土地開発のため年々数が少なくなり、現在では将門のものと思われる大きな塚一ヶ所のみとなっております(地元の保存会作成の由来記より)。」

 大きな塚というほど大きくもなく、小さな土まんじゅうの上に小さな石塔が建っているだけの質素なものである。ちなみに将門の首塚と言われるものは東京の大手町にもある。『東京都の歴史(山川出版社)』を見ると「将門の首は藤原秀郷によって京都に届けられ、東市の樹にかけてさらし首とされた。その後についての確かな記録はないが、ふしぎな伝承がつくられた。将門の首が東国をめざしてとんできて、江戸柴崎村に落下したため、その地に首塚がつくられたのだという。」と記載されていて、若干、話に食い違いがあるようだ。

掛川 秋葉山遠望
「掛川 秋葉山遠望」

 逆川を渡ったところで国道1号に合流し、歩道の狭い国道を倉真川にかかる大池橋まで歩く。広重の「掛川 秋葉山遠望」に描かれたこの橋のたもとで、東海道と火伏せの神・秋葉山へ向かう道が分かれる。天竜浜名湖鉄道の西掛川駅を通り過ぎる。大池橋からは国道1号を離れているが、抜け道になっているらしくダンプカーなども通り過ぎる。旧東海道は国道1号と並行して通っていて、急カーブが少なく、道幅も2車線程度あるので、国道が混んでいるときなど抜け道になってしまっている箇所が多いようだ。

仲道寺
仲道寺

 国道と東名高速をくぐり、垂木川という川を渡る。名前のとおり江戸と京のちょうど中間点にあるという「仲道寺」というお寺がある。東海道は全長125里(492km)。江戸からここまでは59里強しかないので、単純に計算しても中間点にはならないが、尾張の宮宿から伊勢の桑名宿まで海上を渡る部分が7里あるので、それを差し引けばだいたい中間点になりそうだ。残り半分も無事に歩きとおせるようにという願いを込めてお参りしていく。しばらく松並木ののどかな道を歩いた後、国道に戻って原野谷川を渡る。河川敷はたくさんのススキで覆われており、その向こうに2002年ワールドカップの会場になる静岡スタジアム「エコパ」が見える。

袋井 出茶屋ノ図
「袋井 出茶屋ノ図」
どまん中茶屋
どまん中茶屋

 袋井市に入ると再び国道から離れて、かつて花茣蓙で有名だったという名栗の立場を過ぎ、松並木の道を歩いていく。右側は大和ハウスなどの工場が続いている。万松山可睡斎とともに遠州三山に数えられる油山寺や法多山への道標がある。広重の絵を解説した看板がところどころに立っている。富士浅間神社の入り口に立つ大きな赤鳥居。日蓮上人ゆかりの妙日寺。60番目の久津部一里塚。松並木が終わり、27番目の袋井宿に入った。ほかの宿場から少し遅れて1616(元和2)年につくられた袋井宿は、東海道五十三次のちょうど真ん中の宿場であり、商工会議所から小学校からクリーニング屋から飲み屋からダンススクールに至るまで看板には「東海道どまん中」の文字が入っている。宿場の入り口にある「東海道どまん中茶屋」に入る。広重の「袋井 出茶屋ノ図」に描かれている棒鼻の茶屋をモチーフに最近建てられたもののようだ。中に入るとおじさんが「いらっしゃい」とお茶を淹れてくれた。しばし広重の画中の旅人になったような気分を味わう。そろそろ日が暮れてきたので、どこか泊まれるところはないですかと尋ねると、おじさんは近くのホテルに予約を入れてくれた。この茶屋から予約すると割引料金で宿泊できるそうだ。お茶代の代わりに、遠州名物の丸凧が描かれた絵葉書を1枚買っていった。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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