YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

旧見付学校

● 遠江国・3

浜松宿~白須賀宿

 2002(平成14)年2月9日。こだま407号に乗り、10時15分、浜松に着いた。前回の終着点から国道152号を歩き始め、遠州鉄道第一通り駅を過ぎてからほどなく左へ曲がる。この交差点をまっすぐ行くと浜名湖の北を回る姫街道に合流し、右へ曲がったところにはかつて浜松城の大手門があった。浜松城は1570(元亀元)年から1586(天正14)年まで徳川家康の居城だった城だが、例によって以前に訪れたことがあるので寄っていかない。交差点からは国道257号に入る。江戸時代の浜松には6軒の本陣があったといい、この通りにもそのうち4軒の表示が出ている。杉浦本陣は浜松信金の支店、川口本陣はUFJ銀行の入ったビル。少し前まで梅屋本陣の跡に西武百貨店があり、その並びには老舗百貨店の「松菱」があって、このあたりが浜松の中心をなしていた。しかし1997(平成9)年に西武が撤退。中心市街地の地位低下を防ぐため、跡地にはザザシティ浜松という大きなショッピングセンターが造られ、残った松菱と一体となった街づくりがされることになった。ザザシティとはザザッと寄せる波のように人が集うイメージからつけたネーミングだというが、浜松の地名の由来となったといわれる「ざざんざの松」をも意識したものかもしれない。ところがザザシティ全館グランドオープンの直前、昨年(2001年)11月になって今度は松菱が経営破たんしてしまった。

「本物件は右破産者に対する静岡地方裁判所浜松支部平成一三年(フ)第八〇六号破産事件の破産宣告決定にもとづき、当職らが管理占有するものである。当職らの許可がないかぎり何人の立ち入りもこれを許さない。」

 トイざらすやユニクロが入った新しいザザシティのビルがにぎわうのと対照的に、ものものしい文面の告示が貼られた松菱の扉は固く閉ざされたままである。

ザザシティ浜松
ザザシティ浜松
松菱の入り口
松菱の入り口

 浜松名物・浜納豆の店の先を右に折れ、さらに斜めに左の道に入る。ここを斜めに入らずまっすぐに進むのは入野街道という別の街道で、この道をしばらく行くと浜松で生まれた国学者・賀茂真淵を祀る賀茂神社に至る。東海道は八丁畷といわれるまっすぐな道になる。川崎宿の先にも同名の道があったが、こちらの八丁畷は八丁(約800m)どころか、その倍の1.6kmほど続く。東海道本線をくぐって再び国道257号に合流し、新幹線をくぐってさらに進む。長い直線が終わって右へとカーブする道の両側に二つ御堂と呼ばれるお堂がある。奥州藤原氏第三代・藤原秀衡の側室が、上京の途中にここで秀衡死去の知らせを聞いて北側に阿弥陀堂を建てた。しかし実は秀衡はまだ生きており、その後ここを通りかかった秀衡が側室に感謝して建てたのが南側の薬師堂という。片側1車線の国道の歩道にはところどころ松が植わっている。1991(平成3)年の5月に浜松市に合併されるまでこの付近は浜名郡可美村といった。村内にスズキ自動車の工場があり、企業城下町だったようだ。合併前には村役場だったと思われる可美市民サービスセンターの前を過ぎて、諏訪神社の隣にある合併記念の碑を見る。ざざんざの松の弟松と言われる音羽の松を見に行く。12時。

舞坂松並木
舞坂松並木

 沿道は住宅が多い。民家の庭先を見ると、小さな石の祠が祀ってあったり木片にお札を挿したものを立てていたり門口にヒイラギを植えていたりする家が多い。魔よけの意味があるのだろうが、このあたりに特有の風習なのか、それともどこでも見られるものに今まで気づかなかっただけなのか。遠州製作所の工場の前で国道と分かれて旧道に入る。しばらく歩道がなく歩きにくい。このあたり旅人の休憩する立場(たてば)だったらしく、弥次・北はここでぼたもちを食べている。67里目の一里塚跡。天気はそこそこの晴天で比較的暖かいが、遠州の空っ風が吹き荒れている。火伏せの神・秋葉山三尺坊の常夜灯があちこちに見られるのも風が強い土地だからこそか。3kmばかりひたすら歩き、浜名郡舞阪町に入ると立派な松並木が始まる。広重の東海道五十三次のレリーフをはめ込んだ石が並木の下に並んでいるので、日本橋から次々眺めていく。いつのまにやら通った宿場の数も30に届こうとしている。国道1号にぶつかったところで松並木は終わり、その30番目の宿場・舞坂宿に着いた。

舞坂宿脇本陣
舞坂宿脇本陣

 舞坂宿の入り口には諸侯通行の際に番人が立ったという見附の石垣が残っている。厚みがなくてなんだか薄っぺらな石垣だなと思う。68番目になるはずの一里塚跡があるが、説明を見ると67里16丁(1里は36丁)とあり、なぜか一里塚の番号と距離が合致していない。のり、しらす干といった看板が多くなる。町並みはなんとなく宿場の面影を残している。1838(天保9)年に建てられた脇本陣・茗荷屋の建物が今も残り、復元されて無料で一般公開されている。脇本陣は、ふだんは普通の旅篭だが場合によっては本陣の代用ともなる宿である。この脇本陣は1909(明治42)年から1918(大正7)年まで町役場として用いられたり、ある医師の所有となったりしたのち、1991(平成3)年から6年かけて町が復元に取り組んだものだそうだ。街道からは6mほど奥まったところに建てられており、入り口には唐破風を設けて高い格式を示している。いちばん手前は乗物(高級な駕篭)や荷物が置けるよう板の間になっており、荷物を入れやすいよう街道に面した側は蔀戸になっている。建物は主屋棟と繋ぎ棟と書院棟の3つに分かれ、書院棟のいちばん奥に上段の間があった。上段の間の向こうに庭があり紅白の梅が満開に咲いている。主屋と書院の間にも坪庭がある。湯殿と大小用の厠は二組ずつあり、奥にあるのは漆を塗ったVIP専用である。風呂は今のように湯船に浸かるのではなく、掛け湯が主だったようである。

 宿場をさらに歩いていくと浜名湖に行き当たる。ここから先、東海道はおよそ1里半の今切の渡しを渡ることになる。渡船場は身分に応じて3箇所あり、庶民は南雁木(「がんぎ」ではなく「がんげ」と読む。)、武家は中雁木、諸侯は北雁木と呼ばれる渡船場を使っていた。北雁木の跡のみ現存するが渡し舟はない。その代わりに現在では埋め立てられたり橋が架かったりして向こう岸まで歩いて渡れるので、船に乗る弥次・北とは別れ(この後、彼らの乗った船では、蛇使いの親爺の蛇が逃げ出して大騒ぎが起こることになる。)、まずは歩いて弁天島に渡る。広重の「舞坂 今切真景」にも描かれている波除けの杭に砂が堆積して島ができ、江戸の松葉屋という商人が渡し船の安全を願って弁天神社を創建したために弁天島の名がついた。国道1号も東海道本線も新幹線も同じ場所を通過しており、東海道本線には弁天島という駅がある。湖の中に巨大な赤い鳥居(弁天島シンボルタワー)が屹立している。その向こう、湖と海がつながる陸地の切れ目には国道1号浜名バイパスの橋が架かっている。1498(明応7)年の地震と津波でできたこの切れ目は「今切」と呼ばれている。今切ができるまでは船に乗らなくとも浜名湖の南側を通って先へ進むことが可能だった。

舞坂 今切真景
「舞坂 今切真景」
浜名湖
浜名湖

 コンビニに立ち寄って中浜名橋を渡ると浜名郡新居町。もうひとつ西浜名橋を渡ると対岸に着く。浜名湖の向こうに遠く富士が見えた。広重の「舞坂 今切真景」にも富士が描かれている。富士山とあまり縁のなかったこの旅、こんなところまで来て富士が見えるとは思わなかった。

新居 渡舟ノ図
「新居 渡舟ノ図」
新居関所
新居関所

 新居といえば、箱根と並ぶ東海道の関所があった場所。国道1号から少し南に入ったところに関所の跡(大元屋敷)があるが、ここにあった関所は1699(元禄12)年の災害でやや西に移転している。その2度目の関所(中屋敷)も1707(宝永4)年の大地震で宿場もろとも移転となり、新居町駅前から国道301号を進んだところにある3度目の関所跡に古い関所の建物が残っている。1855(安政2)年の建築というから広重が「新居 渡舟ノ図」に描いてからおよそ20年後に建替えられた建物ということになろう。江戸時代には全国53箇所あった関所の建物のうち、現存するのはここだけというから貴重である。もとは関所の東側にあった船着場から直接関所の敷地に入り、関所の西側にある大門から新居宿に抜けていたのだが、埋立てが進んだために今はまったく陸地の中となり、南側に国道が通っている。現在、東側の船着場の復元工事が行われているが、浜名湖まではだいぶ距離があるので、関所の横に形ばかり池のようなものができあがることになるのだろう。通行人の面番所には番頭、給人、下改、賄役、足軽、番所勝手足軽、往還女改之女といった関所役人の人形が並べられ、その後ろには旅人を脅かすための弓矢や槍や鉄砲がたくさん並べられている。関所が廃止されたのは1869(明治2)年のことで、以降この建物は小学校や町役場として用いられたこともあった。関所の斜め前あたりには紀伊国屋という旅篭の建物も残る。1874(明治7)年に建替えられているので厳密には江戸時代の建物ではないが、当時の雰囲気は伝わってくる。弥次・北も食べた新居名物・うなぎの蒲焼のたれが今も干からびて壺の底に残っていたりするのが面白い。まさか弥次・北の頃から残っているたれではないだろうが。。。

 東海道は本陣跡に突き当たって左に折れ、国道301号は右に折れる。古い家々の並ぶ通りを行き、一里塚の跡を過ぎると国道1号に出る。浜名湖が海とつながる以前には、この付近に橋本宿という宿場があったらしく、その名のもととなった浜名橋の跡や、源頼朝が茶の湯に使ったという風炉の井という井戸がある(頼朝の時代に茶の湯と呼べるものがあったかどうかは疑問だが)。今回は新居までのつもりだったが、時間的にも体力的にもまだ余裕があるので先へ進む。ただし次の白須賀宿の周辺には鉄道がないためバスの時刻をあらかじめチェックしておく。新居から白須賀へのバスは1日6本しかなく、休日はさらに少なかった。バスの通る国道1号から外れて浜名旧街道という旧道を行く。後から整備し直したという松並木が続く。右手は高師山という高さ60mほどに揃った丘陵地になっており、東海道はその裾野を通っている。左手を通る国道1号とバイパスの向こうには海が広がっているはずである。足利義教が立寄ったという紅葉寺の跡や阿仏尼の碑。落ち着いた町並みの集落を2つ3つ通り過ぎるうち、いつの間にか湖西市に入っている。元町という集落はかつての白須賀宿だが、新居宿と同じく1707(宝永4)年の地震と津波でやられ、宿場は潮見坂という坂の上に移転してしまった。少し疲れてきて急な潮見坂を登切る元気もなさそうだったので、今日はここでおしまいにする。

潮見海岸にて
潮見海岸にて

 バスの時刻までちょっと間があるので誰もいない海岸に出て遠州灘に沈む夕日を眺めた。そういえば海岸に出たのは120km手前の蒲原宿以来である。潮見坂のバス停の前に食堂があったので、せっかくだからうな丼を注文する。蒲焼といっしょに肝が乗っかっているうな丼は初めて見たように思う。あさりの味噌汁はこの店の名物と書いてある。食べ終わって18時18分発のJRバスで新居町の駅へ戻り、弥次・北と同じ浜松に宿をとった。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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