YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

有松

● 三河国~尾張国・1

白須賀宿~赤坂宿

 2002年2月10日7時50分、新居町駅に着いた。乗るつもりだった7時38分発のJRバスには間に合わなかった。次のバスは昼までないので、やむをえず潮見坂までタクシーに乗る。1900円。痛い出費になってしまった。昨日の終点から潮見坂を上り始め、坂の途中から振り返ると、潮見坂の名のとおり両側の木立の間に水平線が見える。『東海道中膝栗毛』の表現を借りれば「北は山つゞきにして、南に蒼海漫々と見へ、絶景まことにいふばかりなし」である。江戸時代以前の東海道は近江から美濃へと内陸を抜けるルートを通っていたため、京からやってきた人々はこの坂で初めて海を見たという。また1432(永享4)年、富士を見るため東に向かった将軍・足利義教は、この潮見坂で早くも富士を見、「今ぞはや願ひみちぬる潮見坂心ひかれし富士を眺めて」と詠んだ。富士山が見える西の限界もこのあたりだと思われるが、今日は曇り空でさすがに富士は見えそうにない。

白須賀 汐見阪図
「白須賀 汐見阪図」
白須賀から遠州灘を眺める。
白須賀から遠州灘を眺める。

 坂を上りきると白須賀に着く。「須賀」はすなわち「洲処(砂洲のあるところ)」の当て字で、もともと白須賀宿が潮見坂下の海辺にあったことによる地名である。ちなみに奈良の飛鳥も「すか」に接頭語の「あ」をつけてできた地名という。昨年(2001年)1月に開館した「おんやど白須賀」という歴史資料館のような施設があるが、10時の開館までまだ1時間以上あるのでパスする。「潮見坂公園跡」という看板があり、この地で徳川家康が織田信長をもてなしたり、明治天皇が休んだりしたという説明がある。公園は中学校に変わってしまったので今は何もない場所だが海だけはよく見える。広重の「白須賀 汐見阪図」の構図を彷彿とさせる風景だが、大名行列が上る細い坂道の代わりに、今はトラックが上る国道1号の坂が見えている。ゆるい下り坂になり、白須賀宿の中心部に入った。道をカギ形に曲げた、曲尺手(かねんて)または枡形と呼ばれる構造になっている。蒲原や由比にもあったものだが、ここの看板には改めて詳しい説明が記されていた。

「江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りてあいさつするしきたりでした。しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態です。そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄のお寺に緊急非難(ママ)をしました。」

 本陣跡の付近にバスターミナルがある。バスの時刻表を見ると新居町駅方面と豊橋駅を結ぶJRバスが1日6便、鷲津駅へのJRバスが1日4便、そして新所原駅への遠鉄バスが1日3便、たったこれだけである。土曜休日はさらに少なく、しかもJRはバスの廃止を計画しており、湖西市が代替バスの運行を検討しているようである。バスの便の悪いところだからか、白須賀は古い落ち着いた町並みが残っている。もっとも、近くにスズキの工場があることもあって、たいていの人は自動車を使うのだろうから、単純に交通が不便とも言えないか。遠州の空っ風で火が燃え広がるのを防ぐため、火除け地が設けられており、常緑樹のマキの木が植えられているのも興味深い。

二川 猿ケ馬場
「二川 猿ケ馬場」
県境
県境

 国道1号に出てしばらく歩き、遠江と三河の国境を流れる境川という小さな川を渡る。ここからは愛知県豊橋市である。潮見バイパスと合流して片側2車線の幹線道路になった。なだらかな台地の上を行く。このあたり水利が悪く、かつては猿ケ馬場と呼ばれる荒れ野だった。今は豊川用水が流れているため大根やレタスの畑ができ、ところどころ大きな工場もあったりする。昨日は比較的あたたかだったが、今日はけっこう寒い。手袋を忘れたのでポケットから手が出せない。遠く山並みが見えていて、もしかすると富士山が見えるかもしれないと思ったが、ぼやーっとした空模様でちょっと見えそうもなかった。「一里山」という地名があるところを見ると一里塚があったのだろう。広重の「二川 猿ケ馬場」には荒れ野に立つ茶店に旅人が立ち寄る様子が描かれている。弥次・北も猿ケ馬場の茶店で一杯やっており、僕も朝ごはんを食べていないので茶店ならぬコンビニに立ち寄った。

 国道を1里ばかりも歩いて神鋼電機の工場前を右に折れ、新幹線をくぐり川を渡って東海道線の踏切を過ぎると二川の宿場に着いた。時刻は午前10時。舞坂・新居・白須賀と趣のある町並みが続いたが、この二川はそれらにも増してかつての面影を色濃く残す町並みとなっている。宿場の入り口に72里目の一里塚の跡がある。古い商家の店構えを見せる醤油屋さんの前が曲尺手になっており、その先には東海道では草津宿とこの二川にしかないという本陣の遺構が残っている。この本陣は、玄関棟、主屋、書院棟の3棟が接続された構造になっており、そのうち1807(文化4)年建築の玄関棟と1753(宝暦3)年建築の主屋が現存している。これらの建物は1985(昭和60)年に本陣を務めた馬場家から豊橋市に寄付され、取り壊されていた書院棟が復元されて1991(平成3)年に二川宿本陣資料館として一般公開されている。この資料館は以前にも見学したことがあるのだが、今回東海道の旅をしているということで改めて中に入る。昨日は新居宿の旅篭、舞坂宿の脇本陣を見ているし、今回の旅程では古い宿場建築をいろいろ見られる。

二川宿本陣
二川宿本陣

 本陣には他の宿屋にはない屋根のついた門があり、立派な玄関がある。玄関部分は200年ほど前に建てられており、柱や天井は黒光りして歴史の重みを感じさせる。駕篭などを置く板の間があり、その向こうは本陣を運営する家族が居住する部分(勝手)となっている。本陣の家族は4~5人で、そのほかに下男下女が3~4人。大名が宿泊したときは、これだけの人数ではとても足りず、臨時に人を雇い入れたりして対応したらしい。玄関からはずっと畳敷きの廊下が続いており、庭に面したところに大名などの貴人が宿泊した上段の間が復元されている。この二川宿本陣をもっとも多く利用したのは福岡藩主の黒田家だそうで、1837(天保8)年に黒田長溥が宿泊したときの詳しい記録が残っている。3月12日に先触がやってきて22日の宿泊を予約したが、雨のため予定が遅れて藩主は4月4日に到着。本陣に宿泊した人数は51名、うち2食つきの者が37名、1食つきの者が11名。宿泊料は銀4枚、そのほか2食つきの者は平均412文、1食つきの者は平均272文を支払ったという。ちなみに銀4枚は銭16貫(16,000文)に相当するから計算すると合計37,419文(銀10枚弱)。1文=30円に換算すると宿泊料は112万円程度、ひとりあたり22,000円くらいということになる。この年は米価が高騰していたため宿泊料も例年より高かったということであり、まあ妥当な線かな、とも思うが、しかし、よほど頻繁に宿泊があればともかく、たまに大名がやってきて何日も準備して収入が100万円やそこらではとてもやっていけないような気もする。しかも銀4枚というのは日本有数の大大名だった黒田家だったからのことであって、小さな大名では銀1枚から2枚程度が相場だったようだ。さらに羽織だとか色紙なんかを宿泊料代わりにする大名がいたり、備え付けのきせるなどは50本出して10本返ってくればましなほう、お椀から箸からはては衣類、屏風、布団まで持ち去られたりしたとも言われ、本陣経営がいかにたいへんだったか垣間見られる。二川宿本陣の馬場家では副業として質屋を営んでおり、そちらの収入でなんとかしのいでいたようだ。

 弥次さんはこの本陣の前で、大名のお供の中間と喧嘩を始めてしまった。

中間「なんだこいつ、ぶちはなすぞ」
弥次「きさまたちの赤鰯[錆びた刀のこと]でナニきれるものか」
中間「そふぬかしやア切にやアならぬ。コリヤ角助、お身のこしのものをちょつと貸しやれ」
かく助「イヤさておぬしも気のきかぬ男だ。おれがほんとうの脇差は鑓持の槌右衛門へ二百[文]の[借金の]かたにとられたを、お身さまもしつてゐるじやアねへか」
中間「ホンニそふだ。ヱヽコリヤおのれ、打はたすやつなれど、ゆるしてくれふ。はやくいけ」
弥次「いやいくめへ。サアきれきれ」
トつつかゝる。みなみなこのけんくは[喧嘩]、おかしがりて、引わけもせず、けんぶつしていると、
かのお中間「ヱヽそふぬかしやア、了簡がならぬ。突殺してなとくれふ」
ト引ぬいてつきにかゝる竹みつを、弥次郎ひつつかんでねぢたをせば、くだんの男
中間「ヤアレ人ごろし人ごろし」
ト此内はやとのさまのおたちと見へて
おさへのひやうし木「カツチカツチカツチ」
豊橋市内を走る路面電車
豊橋市内を走る路面電車

 喧嘩も無事おさまったところで本陣を出て、伊良胡阿志両神社道と書かれた道標を過ぎ、JRの二川駅前に出る。新築の駅舎は宿場風に造っているようだが、大きすぎていまひとつ雰囲気が出ていない。遠くの丘の上に岩屋観音と呼ばれる観音像が立っているのが小さく見える。片側1車線の道路になって火打坂を上り、左に折れてしばらく進む。国道1号にぶつかったところにマクドナルドがあり、一休みしたところで正午になる。豊橋の町の中に入ってきて、国道では車道と歩道の間に遮音壁の設置が行われている。大きな交差点があり、路面電車の走る道路と合流する。昔は東京、横浜、名古屋、京都をはじめ、小田原、三島、静岡、岡崎など東海道沿いの多くの町に路面電車が走っていたようだが、今はこの豊橋が東海道沿いに路面電車が残る唯一の町である。

吉田城鉄櫓
吉田城鉄櫓

 交差点を左に曲がり、すぐ右に曲がって細い道に入り、さらに左・右と曲がる。現在の豊橋はかつて吉田といった。ちょっと横道にそれて吉田城を見に行く。途中の神明社で今日・明日と鬼祭というお祭りをやっているらしい。ポスターを見ると青鬼や赤鬼が登場するらしいのだが、今日は午前中に行事が済んでしまったらしい。残念。吉田藩主で老中首座になった松平信明が14歳のときに書いたというのぼりが立っている。14歳といえどもさすがに達筆である。1913(大正2)年に建てられたビザンティン様式の豊橋ハリストス教会の前を通り、城跡の豊橋公園へ向かう。公園脇には豊橋市役所と豊橋市公会堂が建っている。昭和初期に建てられた公会堂の玄関の両脇には丸いドームがついていてその周囲には鷲のような鳥の像がついている。公園はかつて陸軍歩兵第18連隊の営地だったということで門などにその面影が残る。公園の中に空堀があり、1954(昭和29)年に復元された鉄櫓(くろがねやぐら)が豊川に面して立っていた。吉田城は池田輝政によって15万石の大名にふさわしい城に拡張されようとしたが、輝政が10年ほどで姫路に転封になり、その後は5万石程度の小大名が続いたため未完成のまま終わってしまったという。そう思って眺めるとなんとなく中途半端な規模の城のようにも見える。少しいい天気になってきた。

 東海道に戻って電車道を横断する。この付近が吉田宿の中心部にあたり、本陣跡はうなぎ屋になっている。吉田やこの先の御油宿、赤坂宿は飯盛女の多い宿場として知られ、「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振り袖が」とか「御油や赤坂吉田がなくば何のよしみで江戸通い」などと歌われたという。菜飯田楽の店がある。マックなど食べないでここでお昼にすればよかったか。松葉公園の前の交差点を右に曲がり国道23号を渡る。公園に豊橋空襲犠牲者追悼の碑がある。1945(昭和20)年6月19日の空襲で624人が亡くなったという。今の豊橋は道路の広い整った町並みだが、これは戦後の区画整理によるものである。

吉田 豊川橋
「吉田 豊川橋」
豊橋
豊橋

 さらに左・右と曲がって豊川にかかる豊橋のたもとに至る。この豊橋は市名のもととなった橋だが、市の名前と区別するためか交差点名は平仮名で「とよばし南詰」と書かれていた。江戸時代には豊川橋、吉田大橋などと呼ばれたこの橋は、幕府直轄の五大橋のひとつであり、広重の「吉田 豊川橋」にも描かれている。川を渡って聖眼寺に芭蕉の句碑がある。「こを焼て手拭あぶる寒さ哉」。「こ」とは松葉のことであるらしい。74里目の一里塚の跡を過ぎて、しばらく古い町並みが続くと、豊橋の市街地が途切れる。時刻は14時。6時間歩いてさすがに疲れたので、豊橋魚市場の前でちょっと休憩する。豊川放水路を渡る高橋の手前で宝飯郡小坂井町に入った。かつて東三河地方を「穂の国」と呼んだことから、その国名が「宝飫(ほお)郡」という郡名として残り、やがて「宝飯(ほい)郡」と書かれるようになったという。歩道のない危ない橋から左手を見ると名古屋鉄道(名鉄)の橋とJR飯田線の橋、東海道線の橋が並んで架かっている。東海道線の橋は複線だが、名鉄と飯田線の橋は単線で、それぞれの橋を上り線用と下り線用として共同して使っている。国道247号を横断して飯田線の踏切を渡る。75里目の一里塚跡を見つけた。すなわち東京からおよそ300km歩いてきたことになる。

 古い町並みの集落を過ぎて、佐奈川という川を渡ると豊川市。東海道に並行してずっと幅の広い国道1号が通っており、その国道沿いにユニクロがあったので手袋を買った。

 国道1号にぶつかって今まで歩いてきた道が途切れた。しばらくちゃんとした道はなくなっているが、国道の向こうに農道のような砂利道が続いているのでその道を行く。いちおうこの細い道が東海道とみなされているらしく、東海道であることを示す小さな看板が道端に立っていた。田んぼの中を名鉄豊川線の赤い電車が通り過ぎていく。踏切を2つ渡って国道を横断し、再び古い商家の並ぶ旧道に入った。このあたりにかつて三河国府があったらしく、大社神社という神社の中に国府廃寺礎石という大石が置かれている。その先の交差点に「秋葉山三尺坊権現道」の碑と常夜灯が立っている。右から合流する道は、見附宿で分かれてから浜名湖の北側を迂回してきた姫街道である。

御油 旅人留女
「御油 旅人留女」
御油の町並み
御油の町並み

 音羽川を渡ると御油宿に入る。この宿場もまた落ち着いた町並みである。ゆるく右にカーブした街道の様子は、広重の「御油 旅人留女」によく似た風情だが、広重の絵では通りの幅が実際よりもやや広めに描かれているようだ。御油宿と次の赤坂宿の間はわずか16町(1.7km)ほどしかなく、東海道でも最も宿場間隔の短かったところであり、両宿場の競争が激しかったのだろう、広重の絵では宿引きの留女が2人の旅人を強引に勧誘している最中。片方の旅人は背中にしょった荷物を引っ張られて首が絞まり、苦しそうな顔をしている。『膝栗毛』でも「ほどなく御油のしゆくにいりたるころは、はや夜にいりて、両がはより出くるとめ女、いづれもめんをかぶりたるがごとく、ぬりたてたるが、そでをひいてうるさければ、弥次郎兵へやうやうとふりきり行すぐる」とあるから、この旅人、弥次さんをモデルにしたのかもしれない。ちなみに北さんは「赤坂までわつちがさきへいつて、いゝ宿をとりやせう。おめへくたびれたなら跡からしづかに来なせへ。宿から向ひ[迎え]の人を出させておきやせう」と言い残して先へ行ってしまっている。

御油松並木
御油松並木

 高札場の跡を曲がり、御油の松並木資料館を見てから先へ進むと、ほどなく宿はずれに至る。弥次さんは、このあたりの茶店のおばあさんから不吉なうわさを聞いた。「おまへひとりなら、此宿にとまらしやりませ。此さきの松原へは、わるい狐が出おつて、旅人衆がよく化され申すハ」。しかし、北さんが先に赤坂へ行ってしまっているので、御油に泊まるわけにはいかない。弥次さんは「ヱヽきついこたアねへ。やらかしてくれふ」と赤坂へ急ぐ。1944(昭和19)年に天然記念物に指定された松並木が今も残っており、観光客らしい人が何人か、写真を撮ったりしている。戦争中には各地の松並木が松油を取るために伐採されていることを考えると、天然記念物の指定を受けられたのは幸運なことだったと言えよう。まだ16時ごろで、明るいからキツネに化かされることもないだろうと、道の両側の土手に植わった松並木を楽しみながら歩いていく。

赤阪 旅舎招婦ノ図
「赤阪 旅舎招婦ノ図」
広重の絵のモデルと言われる宿屋
広重の絵のモデルと言われる宿屋

 さて、弥次さんのほうは、びくびくしながら松並木を歩いていると、先へ行ったはずの北さんがこの土手に腰をかけ、たばこを吸っているではないか。

弥次「ヲヤ手めへなぜこゝにゐる」
北八「やどとりにさきへいかふとおもつたが、爰(ここ)へはわりい狐が出るといふことだから、一所にいかふとおもつて待合せた」

 弥次さん、さてはキツネが北さんに化けたな、と思い、「きた八にそのまゝだ。よく化やアがつた、ちくしやうめ」と北さんを手ぬぐいで後ろ手に縛り上げて「サアサアさきへたつてあるけあるけ」。松並木の長さは約600m。あっという間に次の赤坂宿に着いた。芭蕉はこの短さを夏の月にかけてこう詠んだ。「夏の月 御油よりいでて赤坂や」。宿場内にある関川神社に句碑がある。赤坂宿の入り口からは宝飯郡音羽町になった。またまたこの宿場も古い町並みで、広重の「赤阪 旅舎招婦ノ図」のモデルとなったと言われる宿も残っている。弥次さんは、ようやく北さんがキツネではなくて本物だと気づき、手ぬぐいを解いていっしょに赤坂の宿屋に入ったが、しかし、まだどうも腑に落ちないところがある。

弥次「コレどふも合点が行ぬ。爰はどこだ」
[宿の]ていしゆ「ハイ赤坂宿でおざります」
弥次「ヱヽまだはぐらかしてゐやアがる。御ていしゆさん、なんとこゝの内は、卵塔場[墓場]じやあねへか」
女「おゆにおめしなさりませ」
弥次「ちくしやうめが、糞壺へいれよふと思つて。その手をくふものか」

 風呂にも入らず、料理にも手を出さなかった弥次さんだったが、北さんがうまそうに酒を飲むのを見て我慢がならなくなり、「イヤイヤ馬の小便だろふ。ドレにほひをかゞして見せや。ムウムヽウ。こりやアほんとうのよふだ。どふもこらへられぬ。アヽまゝよ、やらかせ」。そして、結局、

北八「おめへさつきから盃をはなさねへ。ちつとこつちへまはしな。ホンニ馬のくそだのせうべんだのと、いふかとおもやア、やみくもひとりで喰うやつさ。ハヽヽヽヽ」
弥次「おらア正直化された気になつていたが、今おもやアそふでもねへ、とんだ苦労をさせやアがつた」
北八「ヱヽおめへのくらうしたよりかア、おらアしばられて、へんちきなめにあつた。ハヽヽヽヽ」
本宿バス停
本宿バス停

 一件落着したところで僕は宿場を出て一本道を歩いていく。山がだんだん迫ってきて、音羽川の狭い谷間にわずかばかりの田が開けている。音羽蒲郡有料道路の高架橋をくぐるあたりに一里塚の跡があった。やがて両側の山はますます迫ってきて、道は国道1号に合流した。右側に名鉄名古屋本線、その向こうに東名高速道路が並走している。まるで人間の喉もとのように、重要な交通路がこの狭い谷間に集中している。東海道本線だけがここを通らないのは、御油・赤坂とこの先の藤川・岡崎の4つの宿場が共同して鉄道敷設に反対したからだそうだ。大きな工場がいくつかあり、岡崎市に入った。国道473号の丁字路を過ぎると、東海道はまた国道1号と分かれる。白須賀から30kmほど歩いて、だんだん足が言うことをきかなくなってきた。名鉄本宿駅の裏にある東名高速の本宿バス停から17時55分発の高速バスで東京へ帰った。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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