YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

有松

● 三河国~尾張国・2

赤坂宿~岡崎宿

 2002年4月26日。東名高速バスに乗り、12時少し前に本宿バス停に着いた。東名高速道路と並行して、名古屋鉄道(名鉄)本線が通っており、高架駅の本宿駅がある。1934(昭和9)年、この本宿と三河湾沿いの蒲郡を結ぶ道路(現在の国道473号)が開通し、風光明媚な様子が箱根に似ているということから「新箱根観光道路」と命名された。本宿駅も観光地の玄関口として八角屋根の洒落た駅舎となっていたが、1992(平成4)年に国道1号拡幅のため取り壊されてしまい、今は旧駅舎の模型が国道に置かれている。

近藤勇首塚
近藤勇首塚

 国道1号を横断して旧道に入り、東京方面に少し戻って前回時間がなくて見に行けなかった法蔵寺に向かう。石段の左手にヤマトタケルノミコトが戦勝祈願したという賀勝水という井戸があり、右手にも水が流れていてミズバショウが咲いている。本堂前には満開の藤棚。この美しい古刹の奥に新撰組隊長・近藤勇の首塚がある。近藤勇は1868(慶応4・明治元)年4月に東京・板橋で処刑され、東京都三鷹市の竜源寺に埋葬されている。しかし、首だけは京都・三条大橋西詰にさらされた後、三晩目に同志によってこの法蔵寺に持ち去られた。近藤が生前敬慕していた称空義天大和尚が法蔵寺の貫主を勤めていたためであったが、首塚は世間をはばかって土でうずめられ、やがてその存在も忘れられてしまった。この首塚の調査が行われたのは近藤勇の死後90年も経った1958(昭和33)年のことであり、現在では首塚を覆っていた土が取り除かれ、首塚の傍らには石像も建てられている。

鳩ヶ窟
鳩ヶ窟

 法蔵寺を出て西へと歩いていく。今は病院になっている代官屋敷の跡と、77里目の一里塚跡を過ぎると東海道は国道1号に合流する。片側2車線の国道は大型トラックがスピードを出して行き交い、その騒音を少しでも緩和するためか歩道と車道の間に遮音壁も設けられている。国道と並行して名鉄線も頻繁に走っている。国道を横断して旧道に入るとようやく静かになったが、名電山中駅を過ぎて旧道は再び国道と合流する。田んぼの中に小山があり、その中に山中八幡宮という神社がある。1563(永禄8)年の三河一向一揆の際、若き日の徳川家康は一向宗の門徒に追われ、この神社の境内にある洞窟に隠れていた。追っ手がこの洞窟に迫り、まさに中を改めようとしたそのとき、鳩が洞窟から飛び出し、追っ手はここにはいないと探索せずに去っていったという伝説がある。鳩ヶ窟と呼ばれるこの洞窟は現在も残っているが、入り口はとても狭く、奥がどうなっているのかはよく見えなかった。

 国道に戻る。名鉄線の車庫が高台に造られており、銀色の新型車がとまっている。国道は高架になって名鉄線を乗り越し、東海道はまっすぐ進む幅2mほどの細い道に入っていく。この先は藤川宿。小さな広場があって広重の「藤川 棒鼻ノ図」のパネルがある。棒鼻とは「棒の端」の意味であり、転じて宿場の端を指す言葉。浮世絵に描かれているのは、広重が同行したと言われる八朔御馬献進の行列が藤川宿の棒鼻、つまり、僕のいま立っているこの場所を通過しようとする場面である。画中には高札が2枚と宿場入り口を示す傍示杭、道の両側に築かれた宿囲石垣(しゅくがこいのいしがき)が描きこまれている。ふと視線を上げてパネルの横を見やると、現実にもちゃんと高札2枚と傍示杭が立っており、そして石垣まで築かれている。浮世絵と同じ風景を再現しようという藤川宿の心憎い演出である。

藤川 棒鼻ノ図
「藤川 棒鼻ノ図」
藤川宿東棒鼻
藤川宿東棒鼻

 これは浮世絵にはない冠木門をくぐって宿場に入る。直角に右に折れ、少し広い道に突き当たる。左へ曲がって静かな町並みを歩いていく。問屋場跡の標柱が立つ。脇本陣の跡は資料館になっている。長さ9町20間、約1kmの宿場を抜けたところに芭蕉の句碑があった。「爰(ここ)も三河 むらさき麦のかきつばた」。かきつばたは『伊勢物語』三河八橋の場面に出てくる。そして茎や葉、穂がかきつばたと同じ紫色に染まる麦がこの藤川の名産だった。このむらさき麦は食用や染色用として用いられていたが、やがて栽培されなくなり、戦後になると幻の麦となってしまった。愛知県農業総合試験場の協力でこのむらさき麦が復活したのは1994(平成6)年になってのこと。この句碑の手前でもむらさき麦が栽培されている箇所があったが、残念ながらその穂は紫色に染まってはおらず、なんだかふつうの麦、という印象だった。

むらさき麦
むらさき麦
このようになるらしい(案内板の写真)
このようになるらしい
(案内板の写真)

 道しるべがあって道は二股に分かれる。左は吉良上野介の領地・吉良へ向かう吉良道。吉良道は三河湾で採れる塩の運搬のための道でもあった。右の東海道を進むと名鉄線の踏切があり、その先には松並木が続いている。国道に戻り、また旧道に入る。谷が広がって岡崎の市街地が近づいてきた。山綱川という川を渡る付近はゲンジボタルの発生地らしいが、その川沿いには廃車が山積みになっていて、とてもホタルが出そうな場所ではない。

西大平藩陣屋
西大平藩陣屋

 その先の乙川には橋がかかっていないので国道の橋を渡る。作手道との合流点に道しるべがあり、西大平藩の陣屋が置かれていた岡崎市大平町に入る。西大平藩の藩主は大岡家、藩祖は名奉行として知られる大岡越前守忠相である。旗本だった大岡越前は、山田奉行を務めていたころ紀州藩出身の徳川吉宗と知り合ったと言われ、吉宗が将軍になると普請奉行、つづいて町奉行に引き立てられる。41歳のころからおよそ20年間江戸南町奉行を務めた後、吉宗の後押しで寺社奉行に昇進。寺社奉行は一介の旗本に過ぎない大岡越前がなることは通常ありえない要職だったため、大名である同僚からは意地悪な仕打ちを受けたりしたようである。しかし、大岡越前の出世はここにとどまらず、寺社奉行就任の12年後、72歳のときには4080石の加増を得て、ついにここ西大平藩1万石の大名となる。大岡越前が養父から相続した知行が1920石に過ぎなかったことを考えるとまさしく異例の出世だった。大きな大名の居所は城だが、西大平藩の場合は陣屋と呼ばれる屋敷があるのみである。陣屋跡には門と塀が再現され、小さな公園のようになっている。少し手狭な感じはするが、大岡家の場合は藩主の江戸居住が認められていたため、この陣屋にいたのは郡代や代官など十数人に過ぎなかったようだ。

 国の史跡に指定されている大平一里塚を見てから国道に合流し、東名高速道路の岡崎インターチェンジの下をくぐり抜ける。国道と分かれてしばらく行くと「岡崎城下二十七曲り」と刻まれた碑があった。東海道はもともと乙川の南側を通っていたのだが、豊臣秀吉の時代に岡崎城主となっていた田中吉政が東海道を付け替え、乙川の北側にある岡崎城下を通すようにした。このため岡崎の城下町は「東海に名だゝる一勝地(東海道中膝栗毛)」としてにぎわい、現在も岡崎市は西三河地方の中心都市となっているのだが、その一方で城の防衛上、道を複雑に折り曲げる必要が生じ、ついには27回も折れ曲がる街道ができあがってしまったのである。

岡崎信金資料館
岡崎信金資料館

 岡崎は徳川家康の生まれ故郷である。家康自身は日光東照宮に眠っているが、位牌は彼の先祖の位牌とともに岡崎の大樹寺に置かれている。さらに岡崎には織田信長の命令で家康が殺さなくてはならなかった正室・築山殿と長男・信康の首塚がある。八柱神社にある築山殿の首塚と若宮八幡宮にある岡崎信康の首塚へ立ち寄った後、左へ右へと曲がり、かつて宿場の中心だった伝馬通りに入る。伝馬通りには岡崎の歴史にまつわる人物や事柄を示す小さな石像が立ち並んでいる。これがなかなかユーモラスで楽しいのだが、東海道はまた左に折れて伝馬通りを離れ、吉良方面への分岐点を右に曲がる。曲がり角には案内の石柱が立っているのだが、いまひとつ分かりにくい。1917(大正6)年に建てられ、銀行の本店や商工会議所として使われた煉瓦造りの建物が岡崎信用金庫の資料館として公開されている。以前、僕は岡崎市の北隣の豊田市に住んでおり、ここは既に来たことがあったので通過する。曲がり角がよく分からなくなり、行ったり来たりしながら籠田公園に至る。この付近にはかつて岡崎城の外堀があったらしいが、今は跡形もない。松坂屋や名鉄ホテルなどの集まる岡崎の中心街を迂回するように、また道を折れていき、伊賀川のほとりに出る。最初のうちは曲がり角の数を数えていたが、もう何回曲がったか完全に分からなくなった。このあたり、材木町、肴町など城下町らしい町名が残り、材木町の歩道は町名にちなんで木製のブロックが敷き詰められていた。

八丁味噌アイス
八丁味噌アイス

 正しい道を歩いているという自信がまったくないまま国道をまたぐ歩道橋を横断する。ようやく岡崎城が見えた。古い町並みを少し歩き、国道248号を渡って愛知環状鉄道中岡崎駅を過ぎると八丁村(現・八帖町)。岡崎城から8丁(約800m)離れていたことによりこの名があるというが、何よりこの八丁村の名を有名にしているのは「摺ってよし摺らずなほよし生でよし煮れば極よし焼いて又よし」と詠われた岡崎名物の八丁味噌であろう。八丁味噌は大豆を麹化し、塩と水だけを加えて醸成する。水運の便利な岡崎は大豆や塩の入手がしやすく、矢作川の伏流水が豊富にあったことから豆味噌の産地となったのだそうだ。江戸時代から続く早川家、大田家の二家が、今も「カクキュー」「まるや」のブランドで製造を行っている。東海道の左手には「まるや」の工場、右手には「カクキュー」の工場があり、東海道にはほのかに赤だしの香りが漂っている。矢作橋のたもとまで歩いたところで本日の東海道歩きは終わりとして、「カクキュー」の工場へと向かった。1907(明治40)年に建てられた蔵が史料館となっており、工場見学もできるようだが、時刻は17時を回っており、今は販売所しか開いていないようだった。せっかくなのでここで「八丁味噌アイス」を購入し、近くの公園で試食する。甘さ控えめしょっぱさ控えめ、ほんのり八丁味噌の風味があるようなないような。。。うーん、なんつーか、ビミョーな味だなあ。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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