YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

有松

● 三河国~尾張国・4

池鯉鮒宿~宮宿

 まだまだ暑いが日差しはだいぶ穏やかになってきた2002年9月21日。11時20分に知立逢妻町バス停に着いた。国道1号を歩いているうちに刈谷市に入る。一里山町という地名がついているところを見ると、むかし一里塚があったのだろう。国道はトラックが次々に走り、沿道も工場が多くて殺風景だったが、やがて東海道は左の細い道に分かれていき、いかにも旧街道らしい落ち着いた趣になった。お寺がいくつかあり、お彼岸とあって墓参の人がちらほら。このあたり現在は今岡町とか今川町という地名なのだが、かつては芋川の里と言い(「今川」と「芋川」は何か関係があるのだろうか。)、芋川うどんまたはひもかわうどんと呼ばれるうどんが名物だったそうだ。刈谷市教育委員会の案内板によれば「今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。」とあったが、とりあえず東京人を自任する僕は聞いたことがない。「東海道中膝栗毛」にも「名物のしるしなりけり徃來の 客をもつなぐいも川の蕎麦」という狂歌が入っているが、なぜかここではうどんではなく「いも川の蕎麦」ということになっている。

境橋と歌碑
境橋と歌碑

 名鉄富士松駅前を過ぎて国道1号の下をくぐり、敷島パン刈谷工場、境川健康センターの前を過ぎると境橋に出る。境川にかかるこの橋は名前の通り三河国と尾張国の境になっている。同じ愛知県でも三河と尾張では微妙に意識の差があると言われるが、そうした意識差が現れたのかどうか、かつてこの橋は三河側は土橋、尾張側が木橋となっていて、中間で継ぎ合わされた継橋だったという。橋の傍らには「うち渡す尾張の国の境橋 これやにかわの継目なるらん」と「三河」と「にかわ」をかけた狂歌の歌碑がある。読み手は権大納言正二位藤原朝臣光広卿というお公家さんで、そんなやんごとなき方がこんな駄洒落みたいな狂歌を詠んでいるのもちょっと面白い。

 豊明市に入り、建設中の伊勢湾岸自動車道の高架橋をくぐって、また国道1号を歩いていく。名鉄豊明駅前を過ぎて再び東海道は左へ分かれる。国指定史跡となっている阿野一里塚が両側に残っているが、かなり崩れた感じで原状をとどめているとは言い難い。一里塚のあたりから名鉄前後駅前まで緩い上り坂が続く。大きなスーパー「APITA」があり、少し下り坂になる。だらだらと道なりに歩いて国道に合流し、名鉄の高架をくぐって中京競馬場前駅の裏に出る。ここを左折したところに桶狭間古戦場跡と伝えられる公園があり、義元戦死の場所を表す「七石表之一」という石碑や義元の墓などがある(ただし首塚・胴塚はそれぞれ別の場所にあり、遺体はここにはない。)。1560(永禄3)年5月19日、上洛しようとしていた今川義元の軍に織田信長が奇襲をかけ義元を敗死させた桶狭間の戦いはあまりに有名だが、兵力25,000と言われる今川軍がその10分の1程度の兵力しか擁しなかった織田軍になぜ簡単に打ち破られたのか。

 さきほど尾張国に入ってから、周辺は緩い丘と谷間が入り混じったような地形となっている。この付近は岡崎平野と濃尾平野の境にあたり、美濃三河高原から知多半島へと続く丘陵地帯となっているのである。この丘陵地帯は岡崎平野を支配する今川軍と濃尾平野を支配する織田軍の激突地となっており、地形を利用してたくさんの城砦が築かれていた。桶狭間の戦いの前日、5月18日の時点では、今川方は既に鳴海城、大高城、沓掛城などの城を手に入れており、織田方は鳴海城に対峙する善照寺砦、大高城に対峙する鷲津砦・丸根砦などを保持して対抗している。

 信長は、多勢の今川軍を打ち破るのに適当な場所は、見通しがきかず大軍を動かしにくいこの丘陵地帯しかないと考えていたはずである。しかし信長は前日まで戦場から約20km離れた本拠地の清洲城に閉じこもり、まったく動きを見せなかった。だからこそ義元は、本隊を進撃させながらこの丘陵地帯の城砦をひとつずつ落としていき、一帯を完全に支配してから清洲の信長を攻めるといった作戦に出たものであろう。5月18日、既に義元はこの丘陵地帯の東端にある沓掛城に入っている。

 ところが、翌5月19日早朝、信長は幸若舞を舞い、茶漬けをかきこむやいなや、単身清洲城を出発し、この丘陵地帯を目指していく。信長の行動についていけたのはたった5騎。そりゃあ家臣もあわてただろう。必死で信長を追いかけて、朝8時ごろには清洲にいた軍勢が10kmほど南にある熱田神宮に集結することになった。そのころ今川軍は先発隊が丸根砦、鷲津砦の攻撃を開始し、本隊は沓掛城からゆっくりと西の大高城方面に向かわんとしている。信長側の不穏な情勢はもしかすると伝わっていたかもしれないが、あまりに急すぎてその意図までは伝わらなかっただろうと思う。やがて丸根砦、鷲津砦は落ち、信長はさらに南下して善照寺砦に入る。織田軍の一部は今川方の鳴海城の攻撃を開始し、そしてあっけなく返り討ちに遭う。信長の目標はもちろん義元本隊にあり、これは陽動作戦だったのだが、しかし、義元から見れば、信長は丸根、鷲津の負けを取り返そうとやっきになって鳴海城の奪取を狙ったものと見えたのではないか。

義元戦死の地
義元戦死の地

 昼時になり、義元は田楽狭間または田楽ヶ窪と呼ばれる窪地で昼食休憩をとった。田楽狭間で行われた戦いをなぜ桶狭間の戦いというのかについてはよく分かっていない。戦う場所としてこうした窪地が適しているとは思えないが、まさか義元は自分が攻撃されるとは思わず、たまたま開けた場所としてこの地を選んだものだろう。信長は善照寺砦からさらに南、中島砦に拠って報告を待っていた。義元は田楽狭間にあり。中島砦から田楽狭間まではわずか3kmほど。天候は急に悪化し、豪雨となった。すべての条件がそろい、東から西に向かって伸びた今川軍の中心部を信長は北から急襲する。大混乱の中、服部小平太忠次が義元を見つけ「御免」と一声、槍を突く。義元は太刀でなぎ払い、その勢いで小平太の膝に切りつける。その間に毛利新介良勝が背後から義元に組みつき、義元に指を噛みちぎられながらも、ついに首級を挙げた。今川軍は総崩れになって敗走する。

 桶狭間の戦いについては、そもそもこの場所のほかにもう1箇所古戦場と伝えられる場所があり、信長の経路もはっきりしないところがあるため、上記は筆者の想像も交え、地図を眺めながら、まあこんなところかなあ、というところを書いてみたものである。さらに調子に乗って両軍の勝敗要因の分析をしてみると、まず義元は城砦を多く奪取したほうが戦いに勝つと考えていたのに対し、信長は義元さえ討ち取れればよいと考えていた。したがって信長の意図を解さない義元は、各城砦の攻撃に兵力を分散させ、地形的にも複雑でしかも不慣れな敵地において自らの安全に万全を期さないまま本隊を動かすという危険を冒してしまった。当然、その背景には信長に対するあなどりと自らの軍勢に対する過信もあっただろう。一方で信長は目標である義元本陣に向かって極めてスピーディに、かつリアルタイムの情報を得ながら的確に動いていた。そして豪雨。義元側への情報伝達は最後の最後で決定的に遅れてしまい、これが勝敗を決したことになる。時に義元42歳、信長は今の僕とほぼ同年代の27歳であった。

 古戦場跡の上には高徳院というお寺があり、その境内に史料館がある。義元の木像のほか、復元された当時の衣裳や実際に用いられた当時の武具などが展示されており、イメージを膨らませることができる。巨大な太刀は力まかせに馬をなぎ倒し人に打ち下ろすためだけのもの、よろいの脇腹に空いた穴は槍が突き刺さった跡・・・、考えただけでも痛そうだ。今川方の死者は2,753名とされており、この少し手前の丘の上には戦死者を埋葬供養した戦人塚という塚もあった。

 いったん左の裏道に入り、国道を横断して右側の道へとそれると名古屋市に入る。この地域は名古屋市に編入される以前には愛知郡有松町と呼ばれたところだった。有松は池鯉鮒と鳴海の両宿の間の宿として尾張藩により設けられた町である。この付近の丘陵地帯は愛知用水が建設されるまで水利が悪く農業には適さない土地だった。そのため竹田庄九郎という人物が、豊後国で行われていた絞り染めを習得して産業とし、やがて有松絞りは東海道を行き交う人々の土産品として有名になっていった。有松絞りの実演は今も有松絞り会館で見学することができる。少なくとも80歳は超えておられると思われるお婆さんが、綿布を規則的に糸で括りつけていく。

「むかしは、子供は勉強するより絞りおぼえろといわれたもんだ。今はわきゃあ(若い)人は絞りなんてやりゃせん。じでゃあ(時代)も変わったもんだて。」

 糸で括りつけられた綿布を藍染めにして糸をほどくと、染色された部分と染色されない部分が模様になって絞り染めが完成するのである。糸の括り方は100種類以上あるといい、この括り方によって模様が変わっていく。しかし、お婆さんが語るように、この有松絞りも後継者の不足が問題となっているようだ。

鳴海 名物有松絞
「鳴海 名物有松絞」
有松の町並み
有松の町並み

 有松で絞りの手ぬぐいを買った弥次さんをまねて、小さな絞りの根付を買っていくことにした。広重も「鳴海 名物有松絞」の中で絞りを商う商家を描いている。旅人が足を止めやすいよう店の表側は大きく開かれていて、お土産用の手ぬぐいが上からつるされているのが見える。現代でも、有松には広重の絵に描かれたような商家がたくさん残っており、伝統的建造物群保存地区の指定も受けている。さらに毎年10月の祭りの日には江戸時代ないし明治時代に造られた3台の山車がからくり人形を乗せてこの美しい町並みを練り歩く。伝統的な建造物に伝統的な産業、そして伝統的な祭り。名古屋という大都市の片隅にこうした地区が今も残されているのはすばらしいことと思う。

 名鉄の踏切を越え、少し足を早めて歩いていく。今日は最低でも2つ先の宮宿まで行きたいのだが、時刻は既に15時である。さっき根付を買ったときに東海道を歩いているという話をしたのだが、店の人からも宮の手前、笠寺あたりで日が暮れるね、と言われてしまった。鳴海も絞りの産地であり、町並みにも昔の建物がちらほらと残っているが、有松ほど知られてはいない。今川方の前進拠点となった鳴海城の跡に立ち寄ってから、突き当りを右へと曲がる。幹線道路を横断し、天白川を渡り、名古屋の中心に少しずつ近づいていく。笠寺一里塚には立派な榎の樹が植わっていて圧倒される。笠寺観音・笠覆寺に着く。

 下女として長者に虐げられていた玉照姫という美女が、雨ざらしになっていた観音像に笠をかけたことがきっかけになって、太政大臣藤原基経の息子・兼平の妻になるという、笠地蔵とシンデレラを合わせたような伝説があり、その玉照姫が観音像のために建立したのがこの笠覆寺である。向かい側には玉照姫を祀った泉増院というお寺があって、縁結びの絵馬がたくさんかかっていたが、「お金持ちの人と出会えますように」というようなお願いがあったりするのはお寺の成り立ち上やむをえないところか。門前町のような通りを過ぎて環状線という広い道路と名鉄線を横断する。次の宮の宿から出る渡し舟の出港をこのあたりまで呼び継いだといい、呼続(よびつぎ)という地名になったという。今は両側とも住宅地が続いているが、かつて西側は年魚市(あゆち)潟という浜になっていたといい、このあゆち潟が愛知郡、ひいては愛知県の名のもとになった。山崎の長坂という緩い坂を下って山崎川を渡り、国土交通省の名四国道工事事務所の前を過ぎ、名古屋都市高速道路の下をくぐって、幅の広い国道1号に戻る。すぐに左側に旧道が分かれて東海道最大の宿場町だった宮の町に入った。秀吉の小田原攻めの際に息子を失った母が供養のためにかけたという裁断橋の跡などがあるが、とりたてて宿場らしい町並みにはならないまま道路は丁字路に突き当たる。道標があって「北 さやつしま」「南 至いせ七里の渡し」などと記されている。ここから北に向かえば、岩塚宿、万場の渡し、神守宿、佐屋宿、三里の渡しを経て桑名宿に至る佐屋街道。南に向かえば海路で直接次の桑名宿へと向かう「七里の渡し」の舟着き場。東海道をたどるためには南に向かうことになるが、その前に「宮」の宿名の由来であり、広重も「宮 熱田神事」に描いた熱田神宮に参詣していく。三種の神器のひとつ草薙剣を奉安する神社であり、信長も桶狭間の戦いの前に参詣していった。信長が戦勝に感謝して築いた信長塀が今も残っており、この塀は京都三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並んで日本三大塀と呼ばれているそうだ。

宮 熱田神事
「宮 熱田神事」
熱田神宮
熱田神宮
七里の渡し
七里の渡し

 参詣を終えて大きな歩道橋を渡り、七里の渡しの舟着き場に着く。舟着き場のあたりには往時の旅籠の建築も残っている。この先、東海道は木曽川・長良川・揖斐川の河口付近を通過するため、次の伊勢国桑名宿(三重県桑名市)まで7里すなわち30km弱も続く長い長い舟渡しとなる。舟が嫌いな人は先ほどの道標のところから北に向かい、佐屋街道を回っていくことになるが、それでも3里は舟に乗らなくてはならない。

(宿の)ていしゆ「イヤ明日はおふねでおざりますか。又佐屋廻りをなされますか」
北八「すぐに爰(ここ)から舟にしやせう」

 北さんも舟に乗ることに決めたようなので、僕もここから舟で桑名に向かいたいところなのだが、残念ながら今は桑名行きの舟など出ていない。舟着き場は公園になっていて舟の安全確保のために建てられた常夜灯が今も建っているが、埋め立てが進んだため、目の前には運河が海に向かって続いているばかりである。当時の航路もほとんどが陸地になってしまった。どうしようか。舟着き場にたたずんでいるうちに太陽はどんどん沈んでいく。お腹もすいてきた。

ひつまぶし
ひつまぶし

 30分後、僕は熱田神宮前のうなぎ屋でビールを傾けながら名古屋名物のひつまぶしをかきこんでいた。刻んだうなぎを乗せたご飯を茶碗によそい、1杯目はそのまま、2杯目は薬味をかけて、3杯目はさらにだし汁をかけていただく。すっかり満腹になって店を出ると日はとっぷりと暮れていた。桑名に渡るのは明日にしよう。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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