YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

関宿

● 伊勢国・1

宮宿~四日市宿

 前回まで20回歩き、東京から約350km離れた名古屋市熱田区の宮宿までたどりついた。ちなみに「東海道中膝栗毛」の主人公、弥次郎兵衛・北八は、戸塚・小田原・三島・蒲原・府中・岡部・日坂・浜松・赤坂と、宮まで9泊10日で来ているから、だいたい毎回弥次・北の半分くらいの距離を進んでいることになろうか。

 ここまでの行程は多摩川や浜名湖など、江戸時代の人が渡し舟に乗った区間も含めてすべて歩いてきたのだが、宮宿から桑名宿までの七里の渡しは30km近くもあり埋立地で見どころも乏しいので歩いてもあまり意味がなさそうである。かと言って、今回いきなり桑名から始めてしまっては中間を飛ばしたような印象になるため、21回目となる2002年9月22日は、熱田神宮にもういちど参詣した後、再び前回の終点である宮の渡し場へとやってきた。

出ふねをよぶこへ「ふねが出るヤアイ」
此ときやどやの女おこしにきたり
「モシいんま壱番ふねでおます。御ぜんをあげましよ」
弥次「ヲイヲイ北八サアおきや」
トふたりはおき出て、手水つかふ内ぜんも出、くひしまひ、かれこれするうち、
やどやのていしゆ「おしたくはよふおざりますか。舟場へ御案内いたしましよ」
北八「それは御苦労、サア弥次さん出かけやせう」
トそこそこにしたくして、おもての方へ出かける。

 現在の時刻は10時過ぎであるから早朝に旅立った弥次・北はもう桑名に着いたころか。舟はないから僕は代わりにバスを使う。渡し場を過ぎて30分ほど西に歩いたところに熱田六番町というバス停があり、名古屋駅から長島温泉へ向かう三重交通バスがここを通る。このバスの通る国道23号のルートが若干内陸寄りではあるが、かつての七里の渡しのルートに近い。

現代版七里の渡しとなる三重交通バス
現代版七里の渡しとなる
三重交通バス

 10時36分発のバスはぎりぎりのところで乗り逃がしてしまい、次は11時6分発だった。天気はあいにくの曇り空。バスは国道1号を西へ、左折して環状線を南へ向かい、さらに右折して国道23号に入る。小さな追突事故があったらしく少し渋滞していたが、事故現場を過ぎるとバスは快調に進んでいった。庄内川、続いて日光川を渡る。河口付近には埋立てを免れた藤前干潟が広がり、そのはるか向こうには伊勢湾岸自動車道の名港中央大橋と名港西大橋が見えている。海部郡弥富町・飛島村を過ぎ、三重県桑名郡木曽岬町に入る。このあたりは川に囲まれた「輪中」と呼ばれる地域となっており、木曽川・揖斐川・長良川の木曽三川をはじめ、大きな川には事欠かない場所だが、なぜか県境は鍋田川という小さな川だった。300年前には舟で渡れた場所だけあって、地形図を見ると標高0mの等高線があちこちに走っている。1959(昭和34)年9月26日の伊勢湾台風のときには周辺一帯がほとんど水没し、東海三県の死者・行方不明者は4,500人を超えたという。

木曽川
木曽川

 幅1kmほどの木曽川を渡ると桑名郡長島町に入り、バスは国道23号を外れた。このバスは長島温泉行きなので、長島スポーツランド前のバス停でバスを乗り換えなくてはならないが、バス停から10分ほど歩いたところに七里の渡しの碑があるので乗り換えついでに見ていく。木曽川端にあるその碑には「東海道七里渡青鷺川舊跡」という文字が刻まれている。江戸時代の七里の渡しは、海岸伝いや島伝いに進む航路となっており、この付近では島と島の間にある青鷺川という川を通っていた。もっとも積荷や潮の状態により沖合いを通らなくてはならない場合もあったようである。12時38分発の桑名駅行きに乗り換えて揖斐川・長良川を渡る。並行している伊勢湾岸自動車道の橋は、七里の渡しの帆掛け舟をイメージして造られたそうだ。桑名市に入りバスは市街地を走り出す。12時50分、寺町バス停で降りた。バスに乗っていたのは1時間と15分ほど。昔の七里の渡しは4時間ほどかかったようなので、3分の1以下の時間で着いてしまったことになる。

 今、バスで渡ってきた木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川は、現在はほぼ完全に別々の川となっているが、もともと3つの川は網の目のように入り混じりながら流れており、洪水の際の被害を大きくしていた。そのため1753(宝暦3)年、美濃郡代伊沢弥惣兵衛の案に従って三川を分流する工事が計画され、幕府への御手伝普請として薩摩藩がこの工事にあたることになった。この「宝暦治水」に薩摩藩は950名の人員と藩財政の2年分にあたる40万両(270万両と書かれた案内板もあった。)の資金を投じ、そして1年3ヶ月の工事の間に85名の病死者及び切腹自害者を出すこととなる。のちに「薩摩義士」と呼ばれる、この宝暦治水による犠牲者の最後の一人は、工事終了後に責任をとって切腹した総奉行の平田靭負(ゆきえ)であった。

桑名 七里渡口
「桑名 七里渡口」
七里の渡し船着き場
七里の渡し船着き場

 平田靭負ほか24名の薩摩義士の墓は、寺町バス停のすぐ前にある海蔵寺の境内にある。寺町にはその名のとおり寺院が多い。海蔵寺から桑名別院本統寺へと歩み、境内の芭蕉句碑を眺める。曰く「冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす」。八間通りという大通りを歩き、左折して七里の渡しの船着き場へとやってきた。船着き場跡には水門が建設されており、遠くには長良川河口堰が見える。小さな公園のような場所に立っている伊勢神宮一の鳥居と常夜灯が、わずかばかり江戸時代の名残をとどめている。そのすぐ近くで水門管理所の工事が行われており、完成予想図を見ると広重の「桑名 七里渡口」に描かれている桑名城の櫓を模した建物となるらしいので、この水門管理所が完成すればもう少し往時の雰囲気に近くなるかもしれない。ここが東海道徒歩旅の再スタート地点となるが、時刻はちょうど昼食どきになってきた。桑名の宿の名物は言わずとしれた焼き蛤(はまぐり)。弥次・北ももちろん桑名の焼き蛤で酒をくみかわしている。僕も近くの店に入り、その名も「その手はくわなの焼き蛤御膳」を注文する。蛤の時雨煮のお茶漬けと焼き蛤のセットで1,500円。空腹だったこともあり、とても美味しくいただけた。

焼き蛤としぐれ蛤のお茶漬け
焼き蛤としぐれ蛤のお茶漬け

 店を出てから桑名城跡に造られた九華(きゅうか)公園へ向かう。「九華」は「くはな」の当て字である。城跡には寛永年間に藩主を務めた松平定綱らを祀った鎮国守国神社があるほか、石垣と堀の一部が残るばかり。最後の桑名藩主・松平定敬(さだあき)が幕府方につき新政府軍と対峙したため、城は破却され石垣も一部が四日市港の築造に使われてしまったのである。公園を後にして桑名市博物館に立ち寄り、右へ左へ曲がりながら桑名宿を歩いていく。揖斐川を背にした湊町であり、10万石の城下町でもあった桑名は、かつて東海道有数の宿場町であった。今は静かな商店街となっているが、中でも仏壇屋を多く見かける。そのことと何か関係があるのか、その先、お寺が多くなる。十念寺に桑名藩士・森陳明の墓。桑名藩が戊辰戦争に敗れた後、新政府から首謀者を出せと言われたときに自ら名乗り出たのがこの森陳明であった。寿量寺には桑名で没した狩野光信の墓。壬申の乱の際、天武天皇が桑名に宿泊した縁により創立されたという天武天皇社があり、その先で国道1号を横断する。

城南神社
城南神社

 復元された火の見櫓がある丁字路を左折すると、あとは一本道が続く。途中伊勢神宮との縁が深い城南神社という小さな神社がある。伊勢神宮には20年ごとに社殿と鳥居を造りかえる式年遷宮という慣わしがあり、1993(平成5)年に61回目の遷宮が行われているが、この式年遷宮で不要となる古い社殿の一部と鳥居をもらい受けて建てられているのがこの神社だそうである。一代前の伊勢神宮の社殿・鳥居が建っているという、すごい栄誉に浴している神社なのに、ガイドブックにも載っておらず、あまり知られていないのはちょっと不思議だ。

 国道258号の陸橋をくぐると、東海道は町屋川(員弁川)にぶつかる。江戸時代には町屋川の舟運で大いに賑わった場所であったといい、当時の常夜灯が残っている。ここに架かっていた町屋橋は1933(昭和8)年に廃止されてしまったので、代わりに架けられた国道の橋を渡る。三重郡朝日町に入り、近鉄伊勢朝日駅前でしばし休憩する。右手に東芝三重工場、左手に朝日町役場がある。少し坂を上って道路予定地らしい空き地を横断し、坂を下って彼岸花に彩られた田んぼの中の道を進んでいくと朝明川に突き当たる。この川の上で伊勢湾岸自動車道の工事が行われているため、東海道の橋も仮設の橋に置き換わっていた。四日市市に入って、JR関西本線の踏切を渡り、三岐鉄道線・近鉄名古屋線の高架橋を立て続けにくぐる。富田の一里塚跡を過ぎ、富田駅前に至る。古い家並みが続くこの富田の集落は、かつて蛤が名物だった。弥次・北は桑名に続き、ここでもまた焼き蛤を食べている。1910(明治43)年に皇太子(のちの大正天皇)が中学校の見学のため富田に立ち寄り、その際に通ったという「行啓記念道路」の碑がある。「創立まもない田舎の中学校に皇太子殿下をお迎えするなどということは、まさに破天荒の出来事であり、職員・生徒はもちろん富田の住民の感激は大変なものであったと伝えられている。」と案内板には記されていた。

四日市 三重川
「四日市 三重川」
三滝橋より
三滝橋より

 富田山城道路という幹線道路を横断し、四日市自動車検査場の前を過ぎる。やがて東海道は国道1号に合流するが、三ツ谷一里塚跡の石碑を見て海蔵川を渡ると再び旧道に入る。広重の「四日市 三重川」に描かれた三滝橋から海の方を見ると、画中の帆柱の代わりにコンビナートの煙突が立ち並んでいるのが見える。「すぐ(「まっすぐ」の意)江戸道」「すぐ京いせ道」と書かれた道標のところでいったん東海道は途切れるが、少し先で復活し、アーケード付の商店街へと突入していく。アーケードは近鉄四日市駅とJR四日市駅を結ぶ中央大通りまで続く。現在は、近鉄とJRの四日市駅は別々になっているが、1956(昭和31)年までは近鉄がJRの四日市駅に乗り入れる形になっていた。中央大通りは線路の付け替えで不要になった近鉄の用地を利用して拡幅されたものである。JRの四日市駅までは少し距離があるので、近鉄四日市駅を今回の終点にする。時刻は17時40分。電車に乗る前に駅前の近鉄百貨店で四日市名物の「なが餅」を購入した。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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