YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

関宿

● 伊勢国・3

亀山宿~土山宿

 2003年1月12日、早朝に大阪を出たら9時前には亀山に着いた。シラサギが川で水を飲んでいたり、ヒヨドリが木々を渡り飛んでいたり、人通りの少ない朝の亀山はすっかり鳥たちの町になっている。城下町らしくカギ型に折れ曲がった道を歩いていく。街道を少し外れたところに家老・加藤内膳家屋敷の長屋門と土蔵・土塀が保存されている。今日は亀山で「江戸の道シティマラソン」という市民マラソンを開催しているらしい。竜川を渡る橋のたもとで幾人かのランナーとすれ違う。この場所にあった亀山城の京口門は「亀山に過ぎたるものの二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門」とうたわれた壮麗なものであり、広重の「亀山 雪晴」にも描かれている。絵を見ると門は竜川の谷から上ってくる急な坂の上にそびえているが、現在は、谷を渡るように高い橋がかけられているので、坂が緩くなって当時の面影はあまり感じられない。「実験バス」と書かれたバスの停留所に「京口坂」という名前が残るのみである。「実験バス」は、亀山市が、バス停から500m以上離れた交通空白地域において、路線バスの必要性などを調査するために去年(2002年)の8月1日から来年(2004年)の3月31日まで運行しているものだそうである。しかし、この「実験バス」は、火・水・金・土の週4回、1日4便だけの運行で、さらに火・金と水・土で時刻表が違っていたりして、はっきり言ってあまりお客さんが見込めないような感じがする。

太岡寺畷を行く。
太岡寺畷を行く。

 ランナーとすれ違いながら進むと国史跡に指定されている野村一里塚。ここがおそらく江戸から100里にあたるはずで、100里目の一里塚にふさわしく丈20mもある大きな椋の木が片側の塚に残っている。右に折れて布気皇舘太神社という古社の前を過ぎると東海道は鈴鹿川の段丘を下り、旧国道とJR関西本線を歩道橋で乗り越す。ここから先は太岡寺畷という約3.5km続く一本道になる。江戸時代は松並木、明治時代には桜並木が続いていたそうで、いまも新しい桜の木を植えているところがある。名阪国道と呼ばれる国道25号の高架橋をくぐる場所では、広重の「東海道五十三次」のうち、三重県内の各宿場の絵が橋脚に描かれている。近くで東名阪自動車道と伊勢自動車道を直結する高速道路の工事が行われている。名阪国道を過ぎると、正面には藍色の山並が連なり、左に流れる鈴鹿川の水は薄青色の空を写し、右には枯草色の田んぼが広がっている。まるで向こうから水戸黄門一行でも歩いてきそうな穏やかな風景だ。

関 本陣早立
「関 本陣早立」
関の町並み
関の町並み

 ガソリンスタンドにかかっている大音響の松浦亜弥と国道を走る車の音が風に乗って流れてきて、すっかり現代に引き戻された。ズバッと国道を横断し、川を渡って鈴鹿郡関町に入る。右側の旧道にそれる分岐点に「小万のもたれ松」の碑。父の仇を討つために亀山へ武術の修行に通っていた小万という女性が隠れたという松がここにあったそうである。ほどなく東追分。伊勢神宮式年遷宮の際に伊勢内宮宇治橋南詰から移されるという鳥居が左側に立っている。この鳥居をくぐる道が伊勢神宮に至る伊勢別街道である。ここから関宿が始まり、道路の舗装の色が土色に変わった。通りの両側には漆喰で固められた虫篭窓や細かい格子のついた建物が並び、瓦の色と木の色と漆喰の色に統一された町並みは、江戸時代の宿場の雰囲気をよく残している。関宿に並ぶ建物は明治時代半ばまでに建てられた建物が半数以上を占めており、1984(昭和59)年には国の伝統的建造物群保存地区(伝建地区)に指定されて、特に町並みの保存に力が入れられている。電柱も見当たらず、郵便ポストや電話ボックスも江戸時代風の(もちろんこれらは江戸時代にはなかったものだが)デザインになっている。郵便局や銀行支店を町並みにうまく溶け込む建物になっている。実は、学生時代の1995(平成7)年にも一度この宿場を訪れたことがあるのだが、今回は東海道を歩いているということでまた新たな感動がある。道はやや上り坂になっており、坂の上から町並みを見下ろすと、まるで博物館の町並み模型を見ているような錯覚に襲われた。

左に深川屋、右に玉屋、正面奥に地蔵院
左に深川屋、右に玉屋
正面奥に地蔵院

 外見だけでなく内部を見ることのできる建物もある。関まちなみ資料館では厨子二階(通りを高いところから見下ろさないように二階の天井を低くした建築)の町屋の建物を、関宿旅篭玉屋資料館では大旅篭の建物を見学することができる。まちなみ資料館では、伝建地区に指定された1984(昭和59)年から1997(平成9)年までの町並みの変化を建物1軒ごとに写真で記録している展示が興味を引いた。古い建物がきちんと保存されているのはもちろん、それほど古くない建物についても、トタンだった部分を木に改めたり、窓ガラスを格子で覆ったりするなど江戸時代風の町並みをつくり上げる努力がなされている。玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたという著名な旅篭で、玉屋にちなみ、漆喰で宝珠をかたどった窓がついているのがよく目立つ。内部は母屋と離れに分かれ、特に離れは武士を泊めた部屋ということで欄間の彫刻が見事である。これらは資料館として関町が整備した建物だが、現役の商店として用いられている建物もある。そのひとつ、関の銘菓として知られる「関の戸」を販売している深川屋さんに立ち寄ってみた。この建物は1782年の大火の後に建てられた建物だそうで、唐破風のついた庵看板が時代劇のセットのようである。からからと戸を開けて畳敷きの店内に入り、15個入り850円の「関の戸」をひとつ買い求めた。

地蔵院
地蔵院

 古代には、都から東に向かう官道として東海道・東山道・北陸道の3つがあったが、それぞれに鈴鹿関、不破関(岐阜県関ヶ原町)、愛発関(あらちのせき、福井県敦賀市)という関所が置かれ、律令三関(りつりょうさんげん)と呼ばれていた。関宿は、そのうちの鈴鹿関に由来する名である。律令三関は789(延暦8)年に停廃されたが、関東・関西の呼び名は、その後もこれらの関を境にしているという(もっとも「関東」は後に足柄関・碓氷関より東側を指すようになったともいう。)。軒先ぎりぎりの大きな山車を通したことから「関の山(できうる最大限度)」の語源となった山車倉の隣に広重の「関 本陣早立」に描かれた川北本陣の跡。このあたりから正面に741(天平13)年行基菩薩の創建と伝えられる地蔵院が見えてきた。この地蔵院のお地蔵様は、同じく行基が建立に深く関わった奈良の大仏と並べ「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」と謡われたという。そもそも仏様には性別という概念がないはずであり、お地蔵さんを大仏さんと娶わせるというのも何だかずいぶん突飛な発想だ。お参りしたあと、江戸時代には先の玉屋と並び称される旅篭であった会津屋さんで昼食におこわを食べていく。

 関宿は西追分で終わりになる。左は奈良へ向かう大和街道、右が京へ向かう東海道。奈良時代の東海道は左の道で、右の道は平安遷都以降の886(仁和2)年に開かれた道である。江戸から来る東海道と伊勢から来る伊勢別街道、京へ向かう東海道と奈良へ向かう大和街道。この4つの道が集まる関は江戸時代には相当な繁栄を見せたようだが、1890(明治23)年、東海道に沿って草津と四日市を結ぶ関西鉄道が開通すると、宿場としての賑わいが失われてしまった。鉄道の開通によって交通が便利になり、都市として復活していく宿場町も多いが、関西鉄道の場合は、米原を経由する官営鉄道の東海道線と熾烈な客引き合戦を演じた挙句、鉄道国有化法により1907(明治40)年に国鉄関西本線となり、その後は東海道本線に投資が集中したため、あまり顧みられない路線となってしまう。JRになってからも亀山を境にJR東海とJR西日本の路線が分かれるせいか、この関付近では未だに単線非電化。1時間に1本、小型のディーゼルカーが1両で往復するだけのローカル線となってしまっている。

阪之下 筆捨嶺
「阪之下 筆捨嶺」
筆捨山
筆捨山

 道が分かれるところに「南無妙法蓮華経」の鬚題目を刻んだ供養塔がある。前回、亀山の手前で、谷口法春・法悦親子が東海道沿いなどに刑場供養塔を建てたという話があったのを思い出し、裏に回ってみるとやはり「施主 谷口法悦」と刻まれていた。国道1号を歩いていくと右側の駐車場に丸い大石が置かれている。何も説明がないが、ガイドブックには、何度片付けても街道に転がり出たという「転び石」の話が載っていた。さすがに国道には転がり出なくなったようだ。わき道にそれて鈴鹿川を渡り、国道に戻ってからもそのまま鈴鹿川に沿って登っていく。すっかり山あいの風情になり、正面に筆捨山が見えてきた。筆捨山は、室町時代の絵師・狩野元信がこの山の景勝に魅かれて絵を描き始めたが、次の日に行ってみると気象の変化で景色がまるで変わっており、描きかけのまま諦めてついに筆を捨てたという故事に由来する。狩野元信は筆を捨てたが、歌川広重は「阪之下 筆捨嶺」にこの山を描いた。かつては、ごつごつとした岩が奇観を呈していたようだが、目の前の筆捨山は緑に覆われ、特に変わったところのない山である。

 国道を離れ、犬の遠吠えばかりが聞こえる寂しい道を進むと、サッカーボールのような形のホールが目立つ鈴鹿馬子唄会館があり、さらに進むと坂下宿に着く。

坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る 馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しよという 坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に 手綱片手の浮雲ぐらし 馬の鼻唄通り雨 与作思えば照る日も曇る 関の小万の涙雨 関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足 関の小万の米かす音は 一里聞こえて二里ひびく 馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら 昔恋しい鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする(鈴鹿馬子唄)

鏡岩
鏡岩

 坂下は鈴鹿峠を控えた重要な宿場だったが、東海道が廃れた今となっては単なる山間の一集落となってしまっている。馬子唄にも唄われた大竹屋本陣は茶畑に、小竹屋脇本陣はキャベツ畑に変わっていた。この付近では上下線が完全に別ルートになっている国道1号(上り線)に戻ったのもつかの間、やがて東海道は杉木立に囲まれた山道に入る。いよいよ東海道では箱根に次ぐ難所である鈴鹿峠。かつては峠を越えるJRバス亀草線があったが、数年前に三重交通バスと土山町営バスに分割して引き継がれた際、三重県側の伊勢阪下バス停から滋賀県側の熊野神社前バス停までの約4kmが完全に廃止になってしまった。ほかには歩く人もなく、今まで歩いてきた東海道の中でも最も心細い区間である。かつては山賊も出たといい、蜂を使って山賊を撃退した水銀長者の話も伝わる。途中、片山神社に峠越えの無事を祈り、国道の下をくぐる。「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」という芭蕉の句碑があり、さらに山道を行く。鈴鹿峠の標高は350m弱であり、箱根に比べれば半分以下の高さしかない。上り坂はほどなく終わり、平らな道になった。どうも最高点に着いたらしいが、眺望は開けない。道を外れて鏡岩を見にいく。鏡岩は石英を含む珪岩でできており、山賊たちはこの岩に映る旅人の姿を見て襲撃を加えたという。今は岩肌がぼろぼろになり、何も映らないが、この場所からは今まで登ってきた道のりがずっと見渡せた。

関の戸
関の戸

 近江国に入り、滋賀県甲賀郡土山町。木立が途切れ、道路の状態も眺めもともに良くなる。時刻は14時。金毘羅参りの道中安全を祈願した大きな万人講常夜灯のもとに小さな公園があったので、少し休憩を取る。土山町は土山茶で知られる町であり、周囲には茶畑が広がっている。「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と先ほどの馬子唄にあるとおり、この峠が天候の境目になっているのか、茶畑にはところどころ雪が残っている。関で買い求めた「関の戸」の包みを開き、お茶にする。「赤小豆の漉餡を白い求肥皮で包み、その上を阿波特産の和三盆でまぶしてあります。その姿は鈴鹿の嶺に積る白雪をなぞらえたと伝えられています。」と栞に書かれていたが、まさにその鈴鹿の白雪を目にしながら銘菓をつまむ。上品な甘さと眼下に広がる風景が峠越えの疲れを癒してくれる気がした。

土山 春之雨
「土山 春之雨」

 下り坂は国道の整備によりかつての道筋が消えてしまっているため、歩きやすくはあるが単調な道となる。ところどころに残る旧道を歩くと、民家の入り口に信楽焼きの狸が目につくようになった。建設中の第二名神高速道路の橋をくぐり、山中一里塚の跡を過ぎる。蟹のお化けが出たという蟹ヶ坂を下り、高尾金属工業の工場脇を通ると田村川に突き当たる。広重の「土山 春之雨」にあるとおり、本来の東海道はこの田村川を板橋で渡り、田村神社の境内に入っていたのだが、今はこの板橋がなくなってしまったので、国道の橋へと迂回して田村神社へと至る。田村神社は、坂上田村麻呂を祭る神社であり、田村麻呂が鈴鹿峠の鬼退治をしたり盗賊を捕らえたりしたという伝説から、もとは鈴鹿峠の上に社殿を構えていたそうである。由緒ある神社らしく立派な銅の鳥居が立っている。歳の数の福豆を川に流すと厄落としになるということで福豆の袋がたくさん落ちている。国道を挟んだ反対側に道の駅「あいの土山」がある。「あいの土山」はもちろん馬子唄にちなむ名前だが、この「あいの」の語源は諸説あってよく分からないという。道の駅では土山茶を始め、蟹ヶ坂で退治された蟹の血でつくったという蟹ヶ飴など土山町のいろいろな物産を販売している。この晩に友人宅で鍋を囲む予定があるので、日本酒を一本買っていくことにした。

土山本陣
土山本陣

 道の駅の裏手を進むと49番目の土山宿に入る。ここも宿場だった歴史を大切にしたいという心意気が感じられるところで、家々には屋号が表示され、往時の旅篭の名前などを記した碑がたくさん建っている。旅篭なのに「寿し屋」「大工屋」「木綿屋」などとおよそ宿屋らしくない名前が多く見られるのが面白い。一里塚の跡がある。「お茶を摘めつめ しっかり摘みやれ 唄いすぎては 手がお留守」などと自己矛盾を起こすような茶もみ唄が道端に記されている。明治元年の天皇行幸の際に明治天皇が誕生日を迎えられ、第一回の天長節が行われたという土山本陣が残っている。

 国道を横断し、多賀大社に向かう御代参街道を分け、東海道は野洲川に行き当たる。上流に青土ダムがあるため水量は少ない。歩いて渡れないこともないかもしれないと、ちょっとのあいだ迷ったが、濡れずに渡ることはさすがに無理なので、大回りをして国道の橋を渡る。川向こうには茶畑が広がり、「関西茶品評会一等入賞茶園」などと看板の出ている畑もある。伊勢神宮の祭祀をつかさどる斎王が京から派遣される際に宿泊するという垂水頓宮の跡が森の中に残っている。そろそろ日が暮れてきたので、白川橋バス停16時55分発の「あいくるバス」で帰ることにした。「あいくるバス」は廃止になったJRバスを引き継いだ町営バスだが、実際の運行は民間のバス会社に委託されているらしく、バス停にやってきたのは「滋賀観光」と書かれた観光バスだった。

(甲賀郡土山町・・・2004年10月1日、水口町、甲賀町、甲南町、信楽町と合併して、「甲賀市」となった。)

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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