YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

瀬田橋

● 近江国~山城国・1

土山宿~石部宿

 2003年3月2日。雨が降った翌日の晴天で風が強い。すなわち花粉の飛散しやすいコンディションで、花粉予報を見るとやはり「非常に多い。」となっている。いったんはめたコンタクトレンズを外し、眼鏡をかけて外に出る。

茶畑と伊勢大路
茶畑と伊勢大路

 9時13分、前回の終着点である白川橋のバス停に着いた。このあたりでは新しい道ができたことによって元の道が分かりにくくなっているが、家々と茶畑の間を通る細い道に「伊勢大路(別名阿須波道)」と記された石柱が立っていて、この道が旧道であることがかろうじて分かる。さらにその細道がやや広い道に合流する地点には「江戸時代の東海道と近辺地図」という新しい看板が出ており、「左側の狭い道が江戸時代の東海道で明治13年3月1日に右側の道ができて東海道の道路が変更された。」という詳しい説明書きがあった。江戸時代の東海道は野洲川を松尾の渡しで渡っていたが、おそらくその後に橋が架設されたために道筋が変更されたのだろう。街道沿いの家並みからは落ち着いた雰囲気が感じられるが、飛び出し注意のためか「大森薬局」と書かれたベニヤ板の子供の人形がやたらにたくさん立っているのが目につく。家々の裏には土山茶の茶畑が広がっており、霜除けの換気扇が何本も並んでいる。

反野畷。大森薬局の人形がたくさんある。
反野畷
大森薬局の人形がたくさんある。

 大野市場の一里塚を過ぎ、大日川という小さな川を渡る。水害に悩まされていたこのあたりの村人が、1703(元禄16)年に排水路として人工的に造った川だそうだ。しかし、水害がひどくなったのは、隣の村が村境に堤防を築いたおかげだというから、困った話である。ここからは反野畷という一本道が続き、久しぶりに松並木が現れた。「従是東淀領」と記された小さめの領界石が立っている。淀藩は京都と大阪の間にある藩なので、このあたりは飛び地になっていたのだろう。ゆったりと流れる野洲川に沿ってのんびりと歩いていく。椿や梅や菜の花や、春の花が咲き始めている。国道を渡った先に茅葺きの家も残っている。宿場からだいぶ離れたのに、まだ旅籠跡の表示がところどころに出ているのを不思議に思う。もう1度国道を渡って水口町に入り、復元された今在家一里塚を見る。このあたりは巨岩・奇岩の多かったところといい、岩を祀った岩神という神社があったり、だいぶ磨耗した磨崖仏が川べりにひっそりと鎮座していたりする。

 信楽方面に向かう国道307号を横断して坂を登ると、50宿目となる水口宿の東見附に着いた。11時。右側には大岡山(古城山)という標高300m弱の山がそびえている。この山の上には豊臣秀吉の命によって水口岡山城という城が築かれ、その時ふもとに城下町として3本の通りがつくられた。今も高札場の跡から道路が三筋に枝分かれし、真ん中の東海道を挟んだ両側にも同じような通りが並行して続いている。山すそにある大岡寺には「いのちふたつ 中に活たるさくらかな」と刻まれた芭蕉の句碑がある。「野ざらし紀行」にはこの句の前に「水口にて二十年を経て故人(古い友人)に逢ふ」という詞書がある。

閑散とした水口宿
閑散とした水口宿

 宿場町の趣きを残した通りから商店街のアーケードに突入すると、ほとんどの店がシャッターを下ろしていて、人通りもほとんどない。水口は県の甲賀地域振興局が置かれたり、甲賀病院という大きな病院があるなど甲賀郡の中枢を担う町だと言えるが、公共交通機関が近江鉄道とバスしかないため、幹線道路沿いのロードサイド店に商業機能が移動して中心市街地が空洞化してしまったようだ。甲賀郡のうち水口・土山など5町は現在、法定協議会を設立して合併を検討しており、実現すれば人口10万人近い市が誕生することになるが、その中心部がこのような状況ではちょっと寂しい。

 近江鉄道水口石橋駅前で三筋の通りは再びひとつになり、その合流地点に曳山の模型が置かれている。水口神社の春祭りには多数の曳山が町内を巡行するそうだ。東海道は銀行支店の前の丁字路を北に折れ、さらに西・南・西と進む。路傍に置かれた力石の写真を撮っていると地元のおじさんに声をかけられた。

「東海道を歩いてはるの。そらよろしいなあ。」

 子供からお年寄りに至るまで、今日耳に入ってきた言葉はすべて京ことばに近い関西弁である。鈴鹿関から西はまさに関西なのだなと実感する。

水口城資料館
水口城資料館

 おじさんに水口城への道を尋ねる。大岡山の上に築かれた水口岡山城は関が原の戦いで落城しており、水口城はその後の1634(寛永11)年、三代将軍家光上洛時の宿舎(御茶屋)として平地に整備された城である。作事奉行は、茶道・華道にも秀で、江戸城西の丸・駿府城・二条城・桂離宮などの建築・作庭にも携わった小堀遠江守政一(小堀遠州)。築城後しばらくは幕府から城番が派遣されていたが、1685(天和2)年に加藤明友が二万石で入封し、水口藩が成立した。水口藩は水口城本丸を将軍の宿所と位置づけて自藩では使用せず、本丸の外側に城郭を整備している。先ほど東海道が北に迂回するような道筋になっていたのも、城郭を整備する際に東海道を付け替えた結果である。しかし、実際に将軍が水口に宿泊することはその後いちどもなく、正徳年間には本丸御殿は幕府の命により撤去されてしまった。現在は、本丸部分は高校のグラウンドになっており、本丸に付属する出丸部分に水口城のやぐらを模した水口城資料館が建設されている。100円払って中に入ると、資料館のおばさんがわざわざお茶を淹れて出してくれた。

水口 名物干瓢
「水口 名物干瓢」

 水口藩の初代藩主・加藤明友の祖父は、賎ヶ岳の七本槍のひとりであり、伊予松山20万石、のちに会津若松40万石の大名となった加藤嘉明である。嘉明を継いだ息子の明成は、お家騒動を起こして改易となってしまったが、孫にあたる明友が大名として存続を許され、幕末に至るまで代々水口藩主を務めている。ただし正確に言えば、加藤家は一時期、下野国壬生藩に転封になっており、広重が「水口 名物干瓢」に描いたかんぴょうは、藩主が下野国の名産品を持ち帰ったことから水口の名物となったものだそうだ。

 水口宿のはずれにある五十鈴神社の傍らに、江戸から108里目、林口一里塚の跡があった。これで全行程の約9割を来たことになる。正午を過ぎ、昼食にしたかったのだが、適当な店が見つからないうちに、東海道は北脇縄手という田んぼの中の一本道に入ってしまった。向こうの台地の上は工業団地になっており、その手前の国道沿いにラーメン屋やマクドナルドなどが並んでいるのが見えるが、500mほど離れていてちょっと遠い。結局、次の泉一里塚まで我慢して歩いてしまった。

横田川
横田川

 東海道は泉一里塚の先で野洲川(横田川)にぶつかる。かつては東海道十三渡のひとつである横田の渡しがあり、夏の間は船渡し、水の少ない冬場は土橋をかけて川を渡れるようになっていた。日が暮れても渡れるようにと設置された巨大な常夜灯が今も残っている。1891(明治24)年にはこの場所に板橋がかけられたが、今は少し下流にかかっている国道の橋を使わないと川を渡れない。甲西町に入って橋を渡り、JR草津線の三雲駅前に出る。駅前の寿司屋でようやく食事にありついてほっとする。魚の名前が書いてある湯呑みが寿司屋の定番アイテムだが、ここの湯呑みは寿司ねたの番付表になっていた。横綱は当然トロだと思ったら、意外にも「しゃり」と「くさ(海苔)」である。以下、大関が「なみだ(山葵)」と「がり」、関脇が「とろ」と「づけ」、小結が「たま(赤貝)」と「ひも」。なるほどといえばなるほどだが、どうもいまひとつ華やかさに乏しい上位陣である。

 横田の渡しの反対側の常夜灯を見に行ってから先へ進む。JRの踏切を渡った先にトンネルがある。1884(明治17)年にできたトンネルだそうだが、これはなんと大砂川という川の下をくぐるトンネルである。堤防によって川の位置が固定されると砂の堆積によって川底が上っていき、ついには天井より高い位置まで川底が上ってしまう、いわゆる「天井川」である。やはり少しは水が漏れてくるものと見えて、トンネルの内側が濡れている。弘法杉という大きな木が川沿い(すなわち道路よりはかなり高い位置)に立っており、これは弘法大師が地面に挿した杉の箸が育ったものなのだそうだ(もともと二本あったが、一本は枯れてしまったという。)。今日5つ目の一里塚が近くにあるはずだったが表示が見当たらない。やはり天井川になっている由良谷川をくぐり、その先の家棟川は橋を渡る。家棟川は橋をかけるためにわざわざ川底を低くしたと見え、少し上流に人工の滝のようなものが設けられている。左側の山の上に「美し松」という天然記念物の松が自生する場所があるというので山を登っていったが、ちょっと遠いようだったので途中で諦めて戻ってきた。

天井川(トンネル部分)
天井川
(トンネル部分)
天井川(水が流れている部分)
天井川
(水が流れている部分)
紅殻を塗った家(土山宿付近)
紅殻を塗った家(土山宿付近)

 今朝から格子や柱を紅殻で塗った家をときどき見かける。紅殻は酸化鉄を主成分とする赤い顔料で、インドのベンガル地方で産したことからこの名前があるという。紅殻格子というと京都の祇園や金沢のひがし茶屋町のように花街だったところに多いものだと思っていたが、必ずしもそういうわけではないようだ。今日の行程はあまり見どころがないが、紅殻格子のほかにも、杉玉(酒林)をかけた酒屋さんや関西地方に多い虫篭窓の民家など、通りの雰囲気に旧街道らしさがよく感じられてとても快適である。とはいえ次の石部町に入る頃には朝から20km以上歩いていることになり、だいぶ疲れてきた。「いしべ宿驛」と書かれた休憩所でしばらく休む。このすぐ先に1968(昭和43)年まで石部宿本陣の建物が残っていたそうだが、今は建替えられて普通の家になっていた。真明寺に「つつじいけて その陰に干鱈さく女」という芭蕉の句碑がある。石部宿の茶屋で詠んだ句だそうだが、さてこの「干鱈さく女」ってどんな女性だったのだろう。1.はっと目を見張るような美女。2.生活に疲れたおかみさん。答えは1.と言いたいところだが、生活感あふれるひなびた情景の中に真っ赤なつつじがぱっと咲いている、というほうが絵になりそうな気がするので、やはり2.が正解だろうか、などと思う。

 JR石部駅前には「めぐるくん」という愛称の町営バスが停まっていた。滋賀県に入ってから土山町・水口町・甲西町・石部町と歩いてきたが、それぞれの町で「あいくるバス」「はーとバス」「ふれあい号」「めぐるくん」と別々に町営バスを走らせている。土山町・水口町などの合併が検討されていることは先述したが、甲西町と石部町の間でも合併の話し合いがなされているので、やがてこれらのバスも再編されていくことになるのだろうか。駅で20分ほど待ち、16時02分発の電車で帰る。大阪の寮までは1時間ちょっとで帰ることができた。

(甲賀郡水口町・・・2004年10月1日、土山町、甲賀町、甲南町、信楽町と合併して「甲賀市」となった。)

(甲賀郡甲西町・石部町・・・2004年10月1日、合併して「湖南市」となった。)

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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