YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

瀬田橋

● 近江国~山城国・3

大津宿~三条大橋

 1999年から歩き始めた東海道の旅も、25回歩いてようやく最後の宿場・大津までやってきた。終点の京都・三条大橋まではあとわずか3里(約12km)の道のり。最終回くらいは少し賑やかに歩こうと、2003年6月21日、友人O氏と11時にJR大津駅で待ち合わせる。

 O氏は学生時代の友人で今は神戸に住んでいる。公私ともに多忙なO氏とは、なかなか日程が合わず、梅雨のさなかに歩くこととなってしまったが、今日の関西地方はよく晴れていて、汗ばむ陽気である。もうひとりやはり学生時代の友人で大阪に住んでいるN氏も呼んでいるが、都合により途中から途中までの参加となりそうだと連絡を受けている。

 駅前から琵琶湖に至る大通りを少し下り、旧東海道との交差点を左折する。前回通った大津事件跡を通り過ぎ、京阪電車が路面を走る国道161号に行き当たる。国道を横断してまっすぐ進むのが北国街道、国道沿いに左に折れるのが東海道。両街道の分岐点であるこの交差点にはかつて高札場があったため「札の辻」と呼ばれ、近代に入ってからは大津市の道路原標が置かれている(現存)。街道の名前は、ある場所における目的地の名称を冠して付けられているものが多く、同じ街道でも名前を呼ぶ場所によって街道名が変わったり、目的地を同じくする別々の街道が同じ名前で呼ばれることはよくある。北国街道はここでは京都から北陸地方へ向かう街道を指しているが、米原から北陸へ向かう街道や中山道追分宿から善光寺を通って新潟県の高田・出雲崎へ向かう街道も北国街道と呼ばれている。

蝉丸歌碑
蝉丸歌碑

 国道の坂を登っていくと、京阪電車が道路から逸れるあたりに本陣跡の表示がある。明治天皇がこの本陣で休憩したということで近辺は「御幸町」と呼ばれている。逢坂関の置かれた逢坂山に向かい上り坂が続く。東海道線を乗り越すと、その右手に関蝉丸神社。この神社はもともと関明神と呼ばれ、逢坂関の守り神である猿田彦命や豊玉姫命などを祀っていたのだが、平安時代の琵琶法師で歌人の蝉丸が逢坂山に庵を結んでいたことから、後に蝉丸を音曲芸道の神として合祀し、現在の名称に変わっている。蝉丸といえば、百人一首にも入っている「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の歌で有名である。しかし、その出自は「今昔物語」によれば宇多天皇の皇子・敦実親王に仕える雑色(雑用をする下役人)、「平家物語」などによれば延喜帝(醍醐天皇)の第四皇子とされていて、実際のところはよく分かっていないようだ。境内には「これやこの…」の歌碑のほか、紀貫之の「逢坂の関の清水にかげみえて今やひくらん望月の駒」の歌碑や、そこに詠われた関の清水という湧き水がある。なお、蝉丸神社にはこの下社のほか、上社、分社と3つの社がある。

旧逢坂山トンネル
旧逢坂山トンネル

 京阪電車の踏切を渡って国道1号と合流する附近に「鉄道記念物 旧逢坂山ずい道東口」の表示があった。京都から大津に向かう東海道線は、現在、京都駅を出ると長さ1866mの東山トンネルを抜けて山科駅に着き、さらに2325mの新逢坂山トンネルを抜けて大津駅に向かっている。しかし、これはトンネル技術の向上した1921(大正10)年になってから完成した路線であり、1879(明治12)~1880(明治13)年に京都~大津間が開通したときには、京都駅から現在のJR奈良線の線路を通って稲荷駅に至り、山を迂回して名神高速道路沿いに東へ向かっていた。そして山科駅(現在の駅とは別の場所)、大谷駅という2つの駅を過ぎると、この(旧)逢坂山トンネルがあり、馬場駅(現・膳所駅)に着く。ここで方向を変え、現在の京阪石山坂本線を経由して大津駅(現・浜大津駅)まで線路は続き、長浜駅へは琵琶湖を渡る汽船による連絡だった。

 旧逢坂山トンネルは長さ664.8mで、新逢坂山トンネルの3分の1の長さしかないが、日本初の山岳トンネルであること、そして、日本人が外国人の力を借りずに建設したトンネルであることから鉄道記念物に指定されているそうである。現在、内部は地震予知の研究施設として使われており、西側の入り口は名神高速道路建設に伴って埋められてしまったが、東側の石積みアーチが今も残っており、その上部には三条実美揮毫の「楽或頼功」の石額が掲げられている。

車石
車石

 京阪京津線に沿って国道を登っていき、名神高速道路の鉄橋の下をくぐると2つ目の蝉丸神社(上社)の鳥居がある。いつしか周囲は山に囲まれ、かつては寂しい峠道であったと思わせる風情になってきたが、幹線道路の国道1号は、ひっきりなしに大型トラックが行き過ぎる。ようやく坂を登りきると「逢坂山関址」の碑と常夜灯がひとつ立っている。右側の旧道に入ると、うるさい国道とは打って変わった静けさになり、かつて峠の茶屋を営んでいたという鰻屋さんの先に、3つ目の蝉丸神社(分社)がある。神社の前には「車石」の一部が保存されており、その説明板が立っている。

大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されてきました。江戸時代中期の安永八年(一七七八)には牛車だけでも年間一五八九四輌の通行がありました。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。京都の心学者脇坂義堂は、文化二年(一八〇五)に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約一・二kmの間に牛車専用道路として、車の轍を刻んだ花崗岩を敷き並べ牛車の通行に役立てました。これを「車石」と呼んでいます。

 心学とは江戸時代の商人のための道徳のようなものだが、一学者が1万両(現在の10億円くらい)もの大金を出せるはずもないように思うので、義堂の指導により、商人たちがお金を出し合って造ったと考えるのが妥当なところだろう(義堂の発案により近江商人の中井源左衛門が財を投じたとも、義堂が出資したのは710両ほどで後は幕府が建設したともいう。)。ここでもうひとりの参加者N氏を待ち合わせがてら休憩をとる。

大津 走井茶店
大津 走井茶店

 12時30分、京阪電車の大谷駅を降り立ったN氏は、開口一番、「なんか、いい雰囲気のところだねえ。ここは旧道なの?」と言ったが、残念ながら、旧道はすぐ先で国道に合流してしまい、名神高速道路と京阪電車も並行するやかましい坂道を下っていくことになる。途中、広重が「大津 走井茶店」に描いた走井という井戸を持つ月心寺や、色とりどりに咲き乱れるアジサイにわずかばかりの街道情緒を感じながら坂を下り終えると、東海道は名神高速道路をくぐり、再び旧道に入り込む。この附近は東海道に沿って大津市と京都市、すなわち滋賀県と京都府、近江国と山城国の境界線が走っており、街道沿いの家々の自家用車が滋賀ナンバーだったり京都ナンバーだったり、マンホールの蓋に京都市のマークがついていたり大津市のマークがついていたり、となんだか複雑なことになっている。

山科追分
山科追分

 その先の髭茶屋追分(山科追分)には伏見・奈良・大阪への道を分ける「柳緑花紅 みぎハ京ミち ひたりハふしミみち」と書かれた道標(ただし1954(昭和29)年建立の複製品)が立つ。全く知らなかったが「柳緑花紅(やなぎはみどりはなはくれない)」は有名な禅語であって、「万物は皆、仏性の体現者として等しく尊厳な存在である。しかしまた、実際の形相にはそれぞれ、歴然とした違いがあって、一味平等でありながら差別歴然、差別歴然でありながらまた一味平等。」というような真理を説いているのだそうな。しかしなぜこの追分にそんな禅語を刻んだものやらその意図はいまひとつ分からない。

 街道左手の閑栖寺正面にも車石が保存されている。歩道橋を渡った先に「三井寺観音道」の道標があり、逢坂越の裏街道となっていた小関越の道が合流する。さらに旧道を進むとようやく近江・山城国境を越え、京都府京都市に入った。東京都・神奈川県・静岡県・愛知県・三重県・滋賀県の1都5県、そして4特別区33市21町(旧清水市含む。)を歩いてきたが、これが最後の行政界である。町名は京都市山科区四ノ宮。病で失明した仁明天皇第四皇子・人康(さねやす)親王が隠棲していたことに由来する地名である。先ほどの蝉丸とこの人康親王は、どちらも目が見えず、山里に隠棲して、学問芸能に才能があるなどいろいろ共通点があるため、蝉丸が天皇の第四皇子だという説は人康親王との混同により起こったものであるとか、蝉丸と人康親王は実は同一人物だとか、いろいろな憶測を呼んでいるようだ。

 13時30分になり、山科駅前のRACTO(ラクト。洛東と楽都をかけているらしい。)というビルでうどんを食べる。このRACTO山科は、第一種市街地再開発事業により、1998(平成10)年に完成したビルで、大丸が核テナントとして入っている。山科は、それまでのJR東海道本線、京阪京津線に加え、1997(平成9)年に地下鉄東西線が開通しており、京都市は山科を京都の東の玄関口として発展させたい意向のようだ。

天智天皇陵
天智天皇陵

 しばらく歩くと三条通にぶつかりJR線をくぐる。通りをはずれ、右手の参道をまっすぐ進むと天智天皇陵がある。大化の改新によって、聖徳太子以来の課題であった天皇中心の政治体制をつくり上げた天智天皇は、唐・新羅連合軍に敗北した白村江の戦い以降、防備を考えて近江大津宮へと都を遷しており、陵墓も大津に近いここ山科に建設された。一説によれば天智天皇は馬に乗って林に入ったまま行方不明となり、後から沓だけが見つかったため、この陵墓には沓だけが葬られているとも言われている。林の中に鳥居が立つ空間があり、その向こうに墳墓がある。墳墓は上円下方墳になっているが、上円部分は八角形の形をしているそうである。この天智天皇陵にちなみ、附近の地名は「御陵(みささぎ)」という。

 いったん三条通に戻ってから、今度は左側の道に入る。大きな車が通れないくらいの細い路地で、正しい道なのか少し不安だったが、これがまさに東海道であるらしい。すぐに広い遊歩道と交差する。ここは以前、京阪京津線の線路だったところだが、1997(平成9)年に地下鉄になったため、今は遊歩道として使われているのである。細い道をどんどん進むと少しずつ道路が上り坂になってきた。これから最後の日ノ岡峠を越えるのだが、N氏は所用のため、ここで分かれて地下鉄御陵駅に向かう。再びO氏とふたりになり、引き続き坂を登っていく。途中、亀の水不動尊という祠に湧き水があり、亀の石像から水が流れ出している。振り返ると山科盆地に広がる町並みが見える。京都の中心部まではあとわずかの距離だが、こうして市街地を外れると、なんだか山の中のような趣である。と思ったのもつかの間、東海道は広い三条通に合流してしまい、車の行き交う道路では核兵器反対のデモ行進までやっている。以前はこの道路上を走っていた京阪電車が地下鉄化され、道路が広がって歩道も歩きやすくなったのがまだしも救いである。峠を越えて道路は下り坂になり、左手には蹴上浄水場、右手にはインクライン(舟を台車に乗せて運ぶ施設)がある。少し行くとレンガ造りの水力発電所もある。これらは、1890(明治23)年、工学博士田辺朔郎の手により完成された琵琶湖疎水に関連する施設である。琵琶湖から直接京都に水を引く琵琶湖疎水は、東京遷都により沈滞した京都経済復興のためのプロジェクトで、この水を利用して飲料水、工業用水、農業用水の確保のほか、舟運、日本で初めての水力発電、また水力発電による電気を利用した市電の運行や工業の電力化などが行われたのである。

高山彦九郎像
高山彦九郎像

 2002(平成14)年4月に近鉄系の都ホテルがウェスティンホテルと提携してリニューアルオープンしたウェスティン都ホテルの前を過ぎ、神宮道の交差点を横断し、白川を渡ると三条大橋はもう目前に迫ってきた。三条駅前に至り高山彦九郎・皇居望拝之像の前で足を止める。高山彦九郎(1747~93)は、林子平、蒲生君平と並んで寛政の三奇人と言われ、幕府政治への批判、尊皇思想の鼓吹のために全国を旅し、後に勤皇の志士たちから心の鑑と仰がれていた人物である。5度の上洛の際、必ず地に手をついて皇居の方角を伏し拝んだと言われ、その格好が銅像になっているが、今やその事績どころか名前すらほとんど知る人もなく、「三条土下座前」といえば、東京で言うなら「渋谷ハチ公前」並の待ち合わせ場所としてしか知られていないのだから気の毒だ。

 さて、三条大橋に着いた。多くの人々が橋の上を忙しげに行き交い、ある人は擬宝珠をつけた木製の欄干にもたれて橋の下を流れる鴨川を眺める。橋の先に見えるのは賑わう京の町。「『広重五十三次』を歩く」所収の最後の絵「京師 三条大橋」から顔を上げて、現代の三条大橋を見やれば、建物・乗り物や人々の服装は変われど、今も昔も鴨の流れと橋の賑わいは変わらない。

僕が京都にたどりつくのはいったいいつのことになるのだろうか。そのとき、僕は何をしているのか。そして日本橋を出発した今日、1999年9月18日のことを思い出してどのような感慨にふけるのだろうか。(第1回の冒頭より)

京師 三条大橋
「京師 三条大橋」
三条大橋にて
三条大橋にて

 橋を渡りきったのは2003年6月21日15時48分のことだった。この旅を始めた頃の僕は25歳、今は29歳。500km歩き、箱根を越え、富士を見、とろろ汁を食い、大井川を渡り、浜名湖を過ぎ、御油松並木、有松絞り、桑名の蛤、関の宿場、鈴鹿を越えて、草津本陣と、ずいぶんいろいろなものを見聞きし、飲み食いした。しかし、その間、まさか転勤で大阪に住むことになろうとは予想していなかったが、結局のところ僕の人生には大した変化もなくて、日本橋を出発したあの日は、感慨にふけってしまうほど昔のことではなさそうだな、とちょっと苦笑する。

 三条大橋の西詰めで出迎えてくれた弥次・北の銅像にちょっと挨拶して、三条通をさらに西へ。まだ16時前で日も高かったが、通りがかったビアレストランでO氏と祝杯をあげることにした。

【完】

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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