YAGOPIN雑録 東海道徒歩の旅 箱根関所
 
 ● 武蔵国〜相模国・1
日本橋〜品川宿
 

 魚桶をかついだ棒手振りが目の前を通り過ぎる一瞬、秋刀魚の背がきらりと光ったように見えた。ほのかな魚のにおいが朝もやに混じって流れてくる。「下あに、下にぃ」という重々しい声が、魚河岸の威勢の良い掛け声にまじって聞こえてきた。ゆるく反り返った日本橋の向こうから、どこかの藩の行列が近づいてくるようだ。その日本橋のたもとに立っていた僕は、おもむろに本から顔を上げた。ちょうど信号が青になったところだった。大名行列の代わりに車の列が轟音とともに石橋を通りすぎていく。ほのかな魚河岸のにおいもいつしか下を流れるどぶ川の臭いに代わっている。

 僕が眺めていた本は、「『広重五十三次』を歩く」という本だった。今からおよそ170年前に歌川広重の描いた一連の浮世絵「東海道五十三次」とともに東海道のルートと現代の風景を紹介している本である。その最初の絵「日本橋 朝之景」の風景を想像しながら、僕は、現代の日本橋に立っている。時刻は13時30分を少し回ったところ。昨日、西日本を通りすぎた台風は熱帯低気圧に変わったというものの、まだ厚い雲が東京の空を覆っている。この先、およそ500kmも続く「かもしれない」旅のはじまりには少し憂鬱な天気だった。

 僕は、これから東海道をずっと歩いていくつもりなのだった。といっても今日は最初の宿場である品川宿まで歩いて電車で家に帰ろうかと思っている。そして次は品川からどこかの宿場まで歩く。また電車で戻る。これを繰り返していつかは京都三条大橋まで行こうかと思いついた。いや、思いつきといってもこれは僕のオリジナルでなく、大学時代の先輩S氏の真似事である。S氏は10年前にこの東海道の旅をはじめて6年ほどかけて京都まで歩ききっているが、僕が京都にたどりつくのはいったいいつのことになるのだろうか。そのとき、僕は何をしているのか。そして日本橋を出発した今日、1999年9月18日のことを思い出してどのような感慨にふけるのだろうか。

 いや、飽きっぽい僕のこと、京都になんてとてもたどりつかないかもしれない。当面の目標は、…箱根あたりにしておこうか。そして箱根まで着いたら次は府中(静岡)、そして浜松、と少しずつ歩を進めていけばいい。そういう気の長い旅をしたいと、そんなふうに思った。

日本橋 地下鉄の三越前の駅を降りて僕は日本橋のほうを眺めている。銀座のほうへまっすぐ続く中央通りを、東西に横切る首都高速道路、その真下にひっそりとかかっている日本橋。ふつう橋というと川のほうから真横に見ることが多いものだが、日本橋というとたいていはこの絵柄、つまり通りを真正面に橋に向かって行く構図になる。まあ、首都高速の日陰になった川から真横にこの橋を見ても辛気臭い図にしかならないことはまちがいないのだが、それ以上にこの方向から見られる日本橋のほうがなじみが深いような気がするのは、「東海道五十三次」の日本橋がやはりこの方向で描かれているからではなかろうか。

 江戸の日本橋はゆるく反り返っているから真正面から見ても橋が盛上がって際立って見えるのだが、路面電車時代よりあとの日本橋はまっ平らになってしまったので、正面から見たのでは橋がどこにあるのか判然としない。上にかかる首都高速のほうが目立つから、子供のころの僕などは首都高速の橋を日本橋と言うのかと思っていたくらいなのだ。その首都高速の高架橋に「日本橋」と大書したプレートがとりつけられているのでなおさらのことである。

 あの「日本橋」の文字だが、実は最後の将軍、徳川慶喜の筆である。といっても慶喜公が首都高速完成の年まで生きていたというわけではない。あのプレートの文字は、日本橋の親柱にとりつけられた橋名板の文字の拡大コピーなのである。ということは慶喜公は少なくとも今の日本橋が架かった年には生きていたということになるが、これはその通りで、現在の日本橋は明治44年の創架、慶喜公が亡くなったのは大正2年のことである。江戸の中心たる日本橋は、最後の将軍亡き後の江戸の象徴として生きているかのようでもある。

 日本橋の手前には「東京市道路元標」の塔と、「日本国道路元標」のレプリカ。道路元標に2種類あったことに初めて気づく。日本国道路元標の本物は、日本橋の真ん中に埋められていて、その地点が国道1号と4号・6号・14号・15号・17号・20号の各国道の出発点となる。石橋にとりつけられた、東京都のマークを抱きかかえた獅子の像と、背を伸ばして立っている麒麟の像を横目に日本橋を渡り終えると、そこはかつて高札場のあった広場である。前に通ったときにはなかった説明板が新たに取りつけられているのに気づいて足を止める。それは、この日本橋が重要文化財に指定されたことを記したものだった。平成11年5月13日の指定というから、ついこの間のことではないか。建設省の国道の物件としては初めての指定という。今まで重文指定されていなかったというのは少し意外だったが、慶喜公の橋名板とともに永遠にこの橋が生き続けることが決まったことは嬉しく思う。

東急日本橋店跡 橋を渡ってすぐの交差点で国道1号は右へ折れ、ここからは国道15号となる(橋からここまでは重複区間)。交差点の北東角の建物は今年の1月まで東急百貨店日本橋店だった建物である。江戸時代には大村白木屋の名で知られ、三井越後屋、現在の三越と並ぶ大店だった。昭和初期に日本初のデパート火災を起こしたことでも知られ、現存の建物もその当時の建物を修復したものであるが、再開発されることがほぼ決まっているようで、この建物を見られるのももう残りわずかのことであろう。交差点を渡りしばらく行くと高島屋。その向かいの丸善で岩波文庫版「東海道中膝栗毛」を購入する。さきに紹介した「『広重五十三次』を行く(NHK出版)」とこの「東海道中膝栗毛」を今回の旅の参考書とするつもりでいる。広重と一九、そして弥次・北のふたりをこの旅の道連れにする気分である。その先のブリジストン美術館の裏あたりに住んでいた広重画伯を迎えに行くつもりでちょっとわき道に逸れる。案内板によれば、広重がここに住んでいたのは1849年から流行り病のコレラで亡くなる1858年までの間であり、「東海道五十三次」を描いた時代よりは10年以上あとのことになるのだが、まあ、細かいことは気にしないことにしよう。

 地下鉄京橋駅を過ぎる。このあたり現在の地名は中央区京橋だが、江戸時代には南伝馬町と言われたところで、日本橋の大伝馬町、小伝馬町と並び、公用の駅馬を扱っていたところだった。戯作者・山東京伝の名はこの京橋南伝馬町に住んでいたことに由来する。汐留。右の高架橋はゆりかもめ京橋は京都方面への最初の橋ということで京橋と名づけられたと言われるが、京橋川が埋め立てられたために今はない。川の跡は高架の高速道路(東京高速道路株式会社線)になっていて、その下に大正時代と昭和初期の京橋の親柱と、銀座のレンガ街に使われていたレンガとガス灯が展示されている。京橋の先は銀座になり人通りも多くなる。外国人も増える。商法講習所の跡という碑があり、商法講習所は一橋大学の前身という説明がある。一橋大学の発祥の地は銀座ということか。その先、四丁目交差点の和光と三愛は修繕中だった。足早に銀座を通りすぎると新橋に着く。こちらも京橋同様に高速道路になっていて橋はないが、ここで東京都中央区が終わり、港区に入る。新橋郵便局の前に銀座の柳の碑があり、銀座の柳二世、という木がさびしげに一本立っている。新橋交差点で昭和通りが合流するので急に道幅が広がり、片側四車線になる。道路の名前も「中央通り」から「第一京浜」になる。左側、旧汐留貨物駅、鉄道開業当時には新橋駅だったところである。銀座が繁華街として発展するのも、この新橋駅と築地の外国人居留地の中間にあってのことだった。汐留跡地はいまはただの野っ原だが、再開発工事が始まっており、近い将来には電通の本社や日本テレビなど、高層ビルの立並ぶふつうの街並になることだろう。しかし、旧新橋駅の駅舎も再開発と同時に復元されるということで、これだけは楽しみである。

 JRのガードをくぐって、あとはまっすぐに第一京浜国道を歩いていく。幅の広い道を歩くのは退屈だ。浜松町は、浜松出身の権兵衛という者が名主であったことに由来するという。その浜松町まで来たところでくたびれ果て、腹も減ったのでちょうどそこにあったウェンディーズに入る。ウェンディーズもそうだが、このあたりダイエーの本社がある関係か、ダイエー系の飲食店が多い気がする。そういえばこの先の田町のあたりは森永の本社があったため以前は森永ラブが多かった。シュプリームソテードダブルチーズバーガーという冗長な名前のものを頼む。今日は品川宿まで歩くつもりだが、改めて地図を見てみると、まだ道のりの半分も来ていない。

左の石垣が高輪大木戸跡 東京タワーを見つつ、金杉橋で古川を渡る。芝四丁目で国道130号が分岐するが、これは第一京浜と東京港を結ぶ、わずか500mほどの距離しかない国道である。近づいてきたNECのビルはその形からロケットビルなどと呼ばれている。札の辻交差点はかつて高札場があったところ。「御田八幡神社」と大書されたビルがある。「財界二世学院」というナゾの学院がある。高輪大木戸の跡という石垣が残っている。江戸を発つ、また江戸に着いた旅人はこの大木戸のところまで送り迎えされるのが通例だったらしく、そのためにこのあたりには料理屋などが立並んでいたという。高輪は高縄手のことで、高いところにある道、といったような意味の地名である。家康が江戸に入る前の東海道は、高台を通っていたので本来はそちらの道を指す地名であった。新しいほうの東海道はこのあたりではずっと海沿いを通っていたのだが、今は海は遠くまで埋め立てられて、どんなに背伸びをしても海はまったく見えようがない。高輪大木戸のあたりは江戸時代には月見の名所だったと言うが、そんな風流は今の第一京浜ではまったく望むべくもない。

 泉岳寺は何度か来たことがあるので通過。吉良邸はいまの両国のあたりにあったから、赤穂の浪士たちは吉良の首を掲げてこんなところまで歩いてきたということになる。品川駅の高輪側は高層ホテルが立並び、港南側はさいきんではビジネス街になりつつある。新幹線も近く停車するようになるという。しかし品川駅と言ってもここはまだ品川宿はおろか品川区にも入っていない場所である。昔の東海道をたどって第一京浜から左のわき道に入り、八ツ山橋でJR線を渡ったあたりから東京都品川区。東海道を意識してさっき渡った京橋と新橋の親柱が移設してあるほか、53の宿場の名前を書いた小さな石柱がずらっと並んでいる。京浜急行電鉄の踏切を渡ってようやくその最初の宿場に到着した。

品川宿の現在の風景 品川宿は、江戸四宿(品川・新宿・板橋・千住)のひとつとして繁栄したところ。江戸から一番近い宿場がそれぞれ繁栄したのは、単なる宿泊客が多かったということではなく、「飯盛女」と遊びに来る客が多かったということである。ここは江戸から日帰りの場所にあるわけだから、こんなところで泊まろうという客は目的が見え見えである。いまの品川宿はなんだか地元の商店街、という雰囲気でまったくそんな艶めいたところは見られないが、昔の風景を思い浮かべながらそんな街並を行くのもまた面白い。海苔屋を見かけ、そういえばこの品川はかつて品川海苔で有名だったはず、などと思う。デジカメの電池が切れたのでそこのコンビニに入るが、このコンビニの建っている場所はかつて伊藤博文や高杉晋作も宿泊した妓楼『土蔵相模』の跡である。すぐ先の問答河岸の跡は、沢庵和尚と三代将軍徳川家光の問答に由来する。沢庵は、朝廷と幕府の間に起きた紫衣事件に関わって出羽上山(山形県上山市)に流されるが、のちに家光に乞われて品川の東海寺の住職となる。家光はたびたび品川の沢庵のもとを訪れたが、その帰り道、東海寺からこの問答河岸の船着場まで送ってきた沢庵にこう問うた。「海に近いのに『とお海寺』とはこれいかに。」沢庵答えていわく「大軍を指揮しても『しょう軍』と言うに同じ。」今は問答河岸の跡に立ってもまったく海は見えず、東海寺はほんとうに「とお海寺」になってしまった。しかし江戸時代にはここは確かに海べりだった。問答河岸からまた少し歩いて左に折れたところにある利田(かがた)神社境内の小さな「鯨塚」がそれを証明している。今では信じられないことだが、江戸の昔にはこんなところまで鯨が打ち上げられたことがあったのである。広重の「品川 日の出」の絵を見てもこの品川宿は、帆船の浮かぶ江戸湾と、切り立った御殿山の間に挟まれるようにして立っている。旧東海道から問答河岸・鯨塚のほうに向かってやや下り坂になっているのがその唯一のなごりというべきだろうか。

品川寺の地蔵尊 大名の泊まる本陣の跡は公園になっている。滋賀県の土山宿から贈られたという松を植えたりしてなんとなく江戸時代風に仕立ててはいるが、だからといって往時の本陣の雰囲気がしのばれるわけでもなんでもない。本陣のすぐ先は目黒川で、これを渡ると北品川宿から南品川宿に入る。商店街の賑わいもやや静かになる。街道沿いらしくお寺が多い。品川の名を冠した品川寺(ほんせんじ)に大きな地蔵尊がある。江戸六地蔵のひとつであり、ほかの5つは浅草の東禅寺、新宿の太宗寺、巣鴨の真性寺、深川の霊巌寺と永代寺にある(永代寺のものは今は無い)というから、おおむね各街道の江戸への出入り口に設けられたものであろう。そのお地蔵様に別れを告げ、江戸の町を飛び出したところで今日の旅はおしまいにする。午後4時。右へ折れて大井町の駅へに着いたころには万歩計の表示は15,000歩あまり、およそ9km歩いたことになっていた。

(道路元標について・・・戦前はすべての国道は「東京市道路元標」を起点にしており、その標柱は日本橋の真ん中に立てられていた。しかし昭和40年代に東京市道路元標柱は現在地に移設され、代わりに佐藤栄作首相が文字を書いた「日本国道路元標」の印が置かれたのだそうである(つまりは「東京市道路元標」のほうが歴史が古い。)。さらに、すべての国道が東京を起点とするのでは重複区間が多くなりすぎるので、現在では必ずしも東京が起点となっておらず、元標の意味も希薄になっている。たとえば以前は国道1号=東京市道路元標〜伊勢神宮、国道2号=東京市道路元標〜鹿児島県庁だったのが、今は法律上、一般国道1号=東京都中央区〜大阪府大阪市、一般国道2号=大阪府大阪市〜福岡県北九州市という表示になっている。)

 
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