YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

箱根関所

● 武蔵国~相模国・3

保土ヶ谷宿~藤沢宿

鎌倉道への道標
鎌倉道への道標

 1999年9月25日。3回目ともなると、だんだんスタートの場所が遠くなってきて、相模鉄道天王町駅に着いたときには既に13時ごろになっていた。天王町駅とJRの保土ヶ谷駅を結ぶにぎやかな通りは、保土ヶ谷駅前を過ぎると静かな商店街になる。このあたりが旧保土ヶ谷(程ヶ谷)宿の中心部らしく、右側に小さく「高札場跡」という看板が出ていたりする。東海道中膝栗毛では、宿屋の強引な客引き(留め女)が旅人の袖を引っ張って離さず、旅人が「コレ手がもげらア。手がなくちやアおまんまがくはれねへ。」というと留め女が「おめしのあがられねへほうが、おとめ申ちやア猶かつてさ(なおさら都合がよい)。」と返す、こんな情景が描かれているが、昼下がりの静かな商店街では、留め女につかまる心配もなさそうである。この宿場からは鎌倉方面への道が分かれていたらしく、左側には「かなさわかまくらへ通りぬけ」などと書かれた道標が4基立っている。

 その先でJR東海道本線の踏切を横断すると、すぐに国道1号に突き当たる。突き当たりにある家がかつて本陣を務めた軽部家だそうである。右に折れ、今井川という小さな川に沿って国道1号を歩いていく。谷になったところを国道1号と東海道本線が並んで通っており、この谷がつまりは保土ヶ谷なのであろう。保土ヶ谷の「ほど」とはすなわち「ほと」、陰部のことを指すのだとされる。東海道とは国道1号のことだと思っていたが、今のところ旧東海道と国道1号が重なっていたのは、日本橋を出てからの200mと神奈川のあたりの100mだけである。今回も1km弱を歩いただけで国道1号を離れ、旧東海道は再び細い道に入りこむ。住宅街を少し歩くと元町橋という橋に出る。もとはこのあたりが宿場だったらしく、こちらを元町、それに対して後の宿場町を新町というらしい。さらにこの東海道とは別に北回りの道筋もあり、そちらには古町という宿場町があったという。同じ保土ヶ谷宿でも古町・元町・新町と3つの宿場があったことになる(帷子宿、程ガ谷宿、新町宿と呼んでいる資料もある。)。ここで右の坂道に折れる。権太坂である。

権太坂
権太坂

 むかし旅人が老人に坂の名前を尋ねたところ、老人は自分の名を聞かれたと思って「権太」と答えた、これが権太坂の名前の由来だという。箱根駅伝で有名な坂であるが、ランナーが登るのはこの坂ではなくて左手にある国道の坂のほうである。渋滞している横浜横須賀道路の上を渡り、運動会をやっている小学校を左手に見つつ、だらだらと坂を登っていく。登るにつれ、眺めはよくなり、遥かにランドマークタワーまで見えている。秋晴れの日差しのもと、汗だくになりながら登りきったところに境木地蔵尊がある。ここは横浜市の保土ヶ谷区と戸塚区の境にあたるが、かつては武蔵国と相模国の国境にあたり、そのしるしが建てられていたことから境木という地名になったらしい。案内板によればこのお地蔵さんは、もともと鎌倉腰越の海に打ち上げられたもので、「江戸の方へ連れていってくれたら、海を守ろう」といって猟師に連れられてここまで来たが、ここで動かなくなったので猟師はお地蔵さんをこの地の村人に託したのだという。かつて境木からは富士山が望め、江戸時代の旅人たちは牡丹餅を食べながら一休みしたといい、お地蔵さんならずともちょっととどまりたくなるのが、この場所であるらしい。

境木地蔵尊から品濃坂を下る。
境木地蔵尊から品濃坂を下る。

 富士山も見えず、牡丹餅もないが、僕もちょっと一休みである。ここが最高点なので、あとは品濃坂という緩い下り坂になり、風景もおだやかなものに変わる。木々の間の切通し、果樹園の点在する住宅地。9つめの一里塚である品濃一里塚もほぼ完全な形で残されている。ところがその風景もほどなく環状2号線という巨大な幹線道路でぶった切られてしまい、旧東海道は歩道橋になって先へと続いていく。

戸塚 元町別道
「戸塚 元町別道」

 川上川・柏尾川という川に沿って下っていくとやがて旧東海道は国道1号に合流する。右側には森紙業、ポーラ、ブリヂストンと大きな工場が連なっている。工場が途切れたあたりに「江戸方見付跡」の碑。戸塚宿の江戸側の入口ということである。広重の「戸塚 元町別道」に描かれている吉田大橋を渡り、JRの東海道本線の踏切で待たされた後、戸塚駅前の商店街に入っていく。江戸から10里、40km以上、江戸時代の旅人がだいたい最初の宿をとるのが、この戸塚宿であったといい、弥次・北もこの宿場で宿泊している。

藤沢市に入る。
藤沢市に入る。

 戸塚の地名の由来となった富塚八幡宮があるくらいで、特に宿場らしい風情もなく、商店街を行きすぎると大坂という上り坂になる。坂を上り切ったところにあるファミレスで休憩。バイパスと合流して道幅は広くなるが、このあたりから松並木が続いていて旧街道らしさもわずかに感じられる。11番目の原宿一里塚の跡には看板が立っているだけだが、周辺には一里山という地名が残っているという。圏央道か何かの道路を左下に建設している。使われなくなったドリームランド行きのモノレールの下をくぐり、人の影を呑む大蛇がいたという影取町を過ぎると、国道1号と離れ、旧街道は左側の松並木が茂る道へと入っていく。横浜市の鶴見区、神奈川区、西区、保土ヶ谷区、戸塚区と通過してきたが、横浜市はようやくここで終わり、藤沢市に入る。坂を下っていくと広重の「藤沢 遊行寺」に描かれた遊行寺に着く。

藤沢 遊行寺
「藤沢 遊行寺」
遊行寺
遊行寺

 遊行寺は正式には清浄光寺(しょうじょうこうじ)という名前だが、遊行上人一遍の開いた時宗の総本山ということで一般には遊行寺と言われている。1325年遊行四代呑海上人の開山という歴史があるだけあって、さすがに立派なお寺である。境内の大銀杏は樹齢650年というから、お寺ができてすぐの時代からこの地に根付いていたことになる。広重の絵にははっきりとは描かれていないが、広重も一九も、そのほか東海道を行き来した無数の旅人たちもこの木を見上げてきたことだろうと思うと感慨深い。境川にかかる遊行寺橋を渡ると藤沢宿に入り、ここからは、467号という江ノ島から来る国道を歩いていく。東海道中膝栗毛でも、このあたりで弥次・北が風呂敷包みを背負った親父に江ノ島へ行く道を聞かれている。弥次さんが「こりよヲまつすぐにいつての、遊行さまのお寺のまへに橋があるから」などと教え出すと北さんが「ほんに橋といやア、たしか其はしの向ふだつけ、いきな女房のある、茶屋があつたつけ」などと話をそらす。弥次さんもつられて「ソレソレ去年おらが山へいつた時とまつた内だ。アノかゝアは江戸ものよ」。親父が「モシモシ、其はしからどふいきます」などとせかしても、弥次「そのはしの向ふに鳥居があるから、そこをまつすぐに」北「まがると田甫へおつこちやすよ」弥次「ヱヽ手めへだまつていろへ。ソノみちをずつと行と、村はづれに、茶やが弐軒あるところがある」北「ほんにそれよ。よくくさつたものをくはせるちゃ屋だ」弥次「ソリヤア手めへのいふのは右側だろふ。左側の内はいゝはな。去年おらがいつた時、ぴちぴちする鯛の焼きもの、それに大平が海老のはね出るやつに、玉子とくはゐと大椎茸に、、、」と、ぜんぜん道を教えてくれないので、親父はぶつぶつ小言を言いながら行き過ぎるという場面である。

義経首洗いの井戸
義経首洗いの井戸

 道を尋ねられることもなく、歩いていくとそろそろ日が暮れてくる。このあたり旧藤沢宿の中心部だが、藤沢駅からは少し離れていて、何の変哲もない片側1車線の国道である。蒔田源右衛門が主を勤めたという「蒔田本陣跡」の立て札があったり、ところどころ古そうな商家があったりするのが、わずかに宿場のなごりとなっている。奥州平泉で藤原泰衡に敗れ、酒漬けにされて鎌倉に送られた源義経の首が、湘南の片瀬海岸に捨てられた後に境川をさかのぼって藤沢に流れ着いたという伝説があり、その首をすくいあげた里人が首を洗い清めたという井戸が国道から少し入った小さな公園にある。あたりはほの暗くなってきており、ひとけのない公園で、井戸に附された毛筆の案内板を読んでいると何やら背筋が冷たくなってきた。この世ならざるものが写ったりしませんように、と念じながらカメラのシャッターを押し、さらに義経の首を葬ったという白旗神社にお参りしてから、逃げるように小田急江ノ島線の藤沢本町駅に向かう。今回歩いたのは17kmほどだが、今までの2回と違い、アップダウンのある行程で少々くたびれた。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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