YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

箱根関所

● 武蔵国~相模国・4

藤沢宿~大磯宿

茅ヶ崎一里塚
茅ヶ崎一里塚

 1999年10月11日振替休日。小田急江ノ島線藤沢本町駅が出発点。今日も秋晴れの好い日和である。駅前の県道藤沢厚木線を歩いていく。右手に清掃センターの煙突、引地川という川を渡る。メルシャンの工場あり。途中から県道ではなくなり、閑静な住宅街に入る。さしたる見どころもなく、2kmほど歩くと国道1号にぶつかる。ここで国道1号を左に折れるのが東海道、まっすぐ進む細い道は大山道であり、大山神社に続く道ということで鳥居がかかっている。道の分かれ目には不動明王のついた道標と榎か何かの木が立つ。ようやく京都までの道のりの1割くらいは進んだようで、国道に「日本橋から54km」という標識が立っている。このあたりから再び松並木が始まり、13番目の一里塚跡の標識がある。茅ヶ崎市に入り、松並木によるものと思われる赤松町、松林という町名が見える。「松並木を大切にしましょう」という看板も目につく。右側遥かに見えるのは大山だろうか。JR相模線の線路を越えて、SATYの向かい側に14番目の茅ヶ崎一里塚が片方だけ残っている。

見えますか? 左富士
見えますか? 左富士

 茅ヶ崎市役所の前を通りすぎ、またまっすぐに淡々と歩いていくと、やがて東海道はにわかに右へと曲がり出す。この先の千の川という川にかかる鳥井戸橋のたもとに「南湖の左富士」の碑があるはずだ。東海道は富士山の南側を東西に通っているので、江戸から京都に向かって歩くと、富士山はふつうは右側に見えることになるのだが、この付近では東海道が右にカーブし、一時的に北西に向かうため、左側に富士が見えるのだそうである。こんなに建物が建てこんでいなかった江戸時代には日本橋から既に富士山が見えていたのだろうが、今回の旅では今まで一度も富士山が見えていない。果して左富士は見えるのか。国道は右へ曲がる。いったんまっすぐになり、また右へ曲がる。鳥井戸橋が見えてくる。橋の上から左を見る。雲一つない青空。天から地へとだんだん淡くなる空色のグラデーションの一番下に、薄紫色の二等辺三角形。見えました、左富士。この旅初の富士山、それも東海道ではここと静岡県富士市の2箇所でしか見えない左富士ということで興奮してカメラを向ける。しかし、撮れた写真は、なんだか大した景色でもなく、富士山も、うすらぼんやりとして写っているんだか写っていないんだか。というか、それ以前に、そもそも写真では富士山が左側にあるのか右側にあるのかはわかるはずもないのであった。

左下の杭が相模川橋の橋脚と言う。
左下の杭が
相模川橋の橋脚と言う。

 この左富士の碑の近く、鶴峯八幡という神社の入口付近に「弁慶塚」という見所もあるが、この弁慶塚、どういうわけだか民家の庭のような場所に置かれている。あたりを気にしながら近づいていって、塚の隣に立っている「弁慶塚の由来」なる案内板を一読して早々に退散する。その案内板によれば、「武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久九年十二月二十八日その落成供養を行った。源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列、盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴峯八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月死去した。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝たえている。」ということだそうである。しかし、この場所に義経の亡霊が出てくる必然性がどうも乏しい。単にここで頼朝が落馬し、それが原因で死んでしまったので、後から義経の亡霊の話が付け加わったのじゃあないかという疑念がわく。そもそも義経の霊を慰めるのになんで「弁慶塚」なんだろう。この弁慶塚から少し行った先にはその当時のものという相模川の橋の橋脚まで残っている。現在の相模川と当時の相模川とは位置が異なっており、現在は小出川という川沿いにある公園の池の中にある朽ちかけた太い杭のようなものがそれだが、この橋脚はずっと地面の下に埋もれていたものが、関東大震災のときに土地が隆起して、偶然に発見されたものというから驚きである。そんな貴重なものがこんなところに放置されてよいものなのだろうか。ちなみに残っている橋脚は10本あり、そのうち3本は依然として地下に埋まっているという。橋の幅は4間、約7mあるそうなので、鎌倉時代にしてはずいぶんと立派な橋だったのだろう。亡き妻のためにこの橋をかけた稲毛某もこの橋のためにきっと莫大な投資をしたのだろうが、しかし、義経の亡霊が出たり頼朝が落馬して死んだりと縁起でもないことになってしまって稲毛某にはなんだか気の毒である。新湘南バイパスの高架橋をくぐってしばらく歩くと、現代の相模川にかかる馬入橋に出る。江戸時代には橋がなく渡し舟だった。相模川の別名を馬入川という。頼朝が橋の上で落馬して馬ごと川の中に落ちたという異説から馬入川の名がついたというが、この話はいくらなんでも作り過ぎだろう。海がもう近いはずだが、この橋から海の方角を見ても、東海道線の鉄橋とその先の湘南大橋に遮られて海はちょっと見えそうになかった。

 相模川を渡ると平塚市に入る。平塚駅が近いため、しばらく活気のある商店街が続く。7月には仙台・一宮に並ぶ日本三大七夕祭のひとつである平塚七夕祭がこの商店街で行われるはずである。少し通りが静かになったころ旧東海道の平塚宿に入る。前の藤沢宿からの距離は3里18町(約14km)もあり、今まで通ってきた中ではいちばん長い。しかし次の大磯宿までは27町(約3km)しかないため、もうひと宿場歩くことにする。目の前にはサラダボウルを伏せたような姿をした高麗山が見えてきた。高麗山は、標高170mほどとあまり高い山ではないが、宿場近くにあって目立つ格好をしているため、広重の「平塚 縄手道」にも大きく描かれている山である。広重の絵では何本か松の木が立っているだけの野原を飛脚や旅人が行く図になっているが、ほんの百数十年後の今では銀杏並木の道路を車が行き交っている。ただ山の形だけが同じである。問屋場跡の碑がある場所をちょっと右に折れ、地名の由来となった「平塚」を見てくる。坂東平氏の始祖である平真砂子を埋葬した場所に築かれた塚というが、最近改装したばかりらしい公園のような場所に、直径5mほどの塚が石の柵で囲まれて存在しているばかりであり、どうもいまひとつぴんとこない。人口25万人の平塚市の名称由来にしてはちょっと小さすぎるような気もする。

平塚 縄手道
「平塚 縄手道」
平塚宿と高麗山
平塚宿と高麗山

 再び東海道へ戻るとすぐに中郡大磯町に入る。JRの相模貨物駅を左手に見て、花水川を渡る。高麗山のすぐ下に来たのでちょっと登ってみようと思い、登り口がわからずしばらくうろうろした後に「湘南青少年の家」という施設の脇に登り口があるのをようやく見つけ、すべりやすい坂道を進む。頂上まで行くのはちょっと厳しそうだったので、相模湾が一望できる東天照という高台まで来たところで引き返す。高麗山はかつて朝鮮半島にあった高句麗という国が滅亡したときにその王族の一部がここに移り住んだことに由来し、そのふもとには高来(たかく)神社という神社もある。その先、旧東海道は国道を離れ、松並木の美しい静かな道に入る。広重の「大磯 虎ケ雨」にも海と松並木と宿場町と丘が描かれている。海は見えないが、松が残っているせいか、イメージ的には現代の風景にも重なるところがある。このあたり化粧坂といい、日本三大仇討のひとつ「曽我の仇討」で、曽我十郎祐成が白拍子の虎御前と恋に落ちた場所だそうである。東海道線のガードをくぐると国道に戻り、大磯宿の中心部に入る。大磯は古来、小淘綾(こゆるぎ)の浜と言われた景勝地で、万葉集にも「相模路のよろぎの浜のまなごなす児らはかなしく思はるるかも」という歌があるという。また、「三夕の和歌」のひとつにも数えられる西行法師の有名な歌「心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」も大磯で詠まれたという。東海道が小さな谷川を渡る地点をその鴫立沢であると考えて、江戸時代の崇雪という人がここに草庵を結び、その庵はいまも鴫立庵として残っている。まさしく鴫立つ沢の秋の夕暮れになってきたが、午後4時を過ぎてしまい鴫立庵には入れなくなってしまった。脇道を入り国道のバイパスをくぐって小淘綾の浜へ出ると、釣り人の姿がちらほら。この旅で初めて海辺へ出たことで満足してJR大磯駅へと向かった。

大磯 虎ケ雨
「大磯 虎ケ雨」
小淘綾の浜
小淘綾の浜

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

前へ ↑ ホームへ  次へ
   4