2001年4月29日。早起きして天気予報を見ると、曇りのち雨。雨が降り出すのは夜になってから、ということなので、決行することにした。箱根湯本駅には9時35分ごろに着いた。天気は下り坂とはいえ、さすがにゴールデンウィーク中であり、湯本の駅前は混雑していたが、前回の終着点である三枚橋に向かう人はほかに誰もおらず、早川を渡って県道に入ると町並も旧街道らしい静寂に支配されている。
旧街道を入ってすぐの脇道にそれると、「道」をテーマにした箱根町立郷土資料館がある。箱根路は、古代には南足柄市方面から明神ヶ岳、仙石原、乙女峠を経由して御殿場に至る碓氷道、その後にはやはり南足柄市方面から足柄峠を越えて御殿場へ抜ける足柄道が使われていたのが、中世には湯本から尾根沿いに登って芦ノ湖に至る湯坂道に替わり、江戸時代の旧街道は須雲川沿いに登る道へと再度変更されたこと。その他にここ湯本から塔之沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯の箱根七湯をめぐる道もあり、現代の国道1号は、江戸時代の旧街道ではなく、七湯廻りのルートに近いルートをとっていること。また、湯本は正規の宿場ではないため宿泊は禁止されていたが、温泉場として宿泊する客が絶えず、1802(文化2)年に宿泊客を奪われた小田原宿と箱根宿が道中奉行に訴えるという事件があり、この訴えが却下されたことにより、旅人が温泉場に1泊していく「一夜湯治」が成立したこと。などなど、これから歩く箱根路についてひととおりの予習をしていく。
資料館を出てしばらく坂を上ると早雲寺がある。名前で察しがつくとおり、小田原を本拠に関東を支配した北条氏の菩提寺で、北条早雲以下氏綱、氏康、氏政、氏直と続く北条5代の墓がある。北条氏は豊臣秀吉に敗れ、北条氏政が切腹、氏直が高野山に流されて滅亡するが、実は北条氏政の弟の氏規は豊臣政権に歯向かわなかったために生き延び、その子孫が河内狭山1万石の大名にとりたてられていたというのはあまり知られていない史実。なお、早雲寺には箱根湯本で亡くなった連歌師・宗祇の慰霊塔もある。宗祇は北条早雲と同時代を生きた文化人である。
曽我兄弟ゆかりの正眼寺、22番目の湯本一里塚の碑を過ぎるとやがて県道から分かれて右側に石畳の旧街道が現れる。江戸時代の箱根路は、ぬかるみ防止のための箱根竹を敷き詰めた道であったのだが、竹では耐久性に劣り、敷き替えが大変だったため、1680(延宝8)年に石畳の道が整備された。現在もその石畳の道が箱根路のところどころに残っており、当時の旅人の苦労がしのばれる。とはいえ、当時の石畳の道は、明治以降に廃道同然となり、関東大震災や1930(昭和5)年の北伊豆地震でほとんど崩壊したため、現在残っている石畳のかなりの部分は比較的最近になって神奈川県が整備しなおしたもののようである。石畳の道はいったん坂を下り、小川を渡って観音坂という上り坂を上ると再びもとの県道に戻る。この先、露天風呂に入れるところがあり、しばし休憩していく。
朝食は食べてきたが、温泉を出ると少し空腹感をおぼえた。どうしたものかと思っていると、ありがたいことにこんなところにもファミリーマートがある。ソフトクリームをなめながら葛原坂を上る。旧街道を歩いているらしいグループをときおり見かけるようになる。遠くに初花ノ滝が一筋落ちているのが見える。夫・勝五郎の仇討ち成就のために妻の初花が身を浄めた滝といい、これは歌舞伎十八番にもある有名な話だそうだが、その方面に明るくないのでよくわからない。その先の須雲川の集落にある鎖雲寺というお寺に勝五郎・初花の墓もある。須雲川の集落は寛永年間に街道を行き交う旅人の休憩のため、また街道の維持管理のためにつくられた集落という。こうした集落を「間の村」といい、小田原と箱根の間には板橋・風祭・入生田・湯本・湯本茶屋・須雲川・畑宿の7ヶ村があったということは先ほどの町立資料館で知った。
須雲川を過ぎるとまた坂道になる。現在の道は遠回りをして緩く上っているが、江戸時代は一直線に急な坂を上っており、ここで馬に乗った女性が落馬して死亡したため、女転し坂の名がある。江戸時代の女転し坂は関東大震災で崩れてしまい今は通行できないが、往時の坂の上からのぞきこむと、馬に乗ってはとても上れそうにない場所だ。「箱根八里は馬でも越すが…」とはいいながら、やはり箱根路は馬ではそう簡単に越せなかったものと思われる。なお、箱根八里、とは小田原宿から箱根を越えて三島宿までの区間を指している。やがて右から石畳の割石坂が分かれるが、ここの石畳は一部、江戸時代のものが残っているという。「これより江戸時代の石畳」という看板が立っているが、ちょっと見ただけでは後からつくられたものと見分けがつかない。シャガの花に彩られた石畳の道を進み、県道を横断してこんどは県道より左側の石畳の道を下っていく。当時の街道の道幅は約2間(3.6m)、そのうち石畳が敷いてあるのが中央の約1間(1.8m)であり、片側に排水用の溝があった。幕府は箱根が石畳になることにより歩きやすくなって関東の防備が弱くなることを懸念したというが、実際はといえば石畳があることにより滑りやすくなって余計に歩きにくい。なるべく石畳のない場所を歩きながら坂を下りきると、小さな滝があり深山幽谷といった趣になる。県道を歩いているときにはなにも不安はないが、こうして県道から少し離れた石畳の道をひとり歩いていると少し心細ささえ感ずる。杉林に囲まれた石畳の大沢坂を上りながら、かつての箱根路の雰囲気を存分に味わい、坂を上りきると畑宿の集落に出た。
箱根には昔から木を挽く技術をもつ木地師が住み、また神代杉などの材料にもめぐまれたため、盆や椀といった挽物細工が箱根土産として有名であったという。弥次さんも湯本の宿で、店の美人につられて300文の挽物細工をうっかり400文出して買ってしまっている。弥次さんのころ(文化年間)にはただの挽物細工であったものが、1844(弘化4)年に、ここ畑宿の石川仁兵衛が「寄木細工」を創作し、今ではもっぱらこの寄木細工が箱根土産として有名である。寄木細工は、色合いの違う木材を組合せて種木をつくり、その種木を金太郎飴のように削ってつくった幾何学模様の「づく」を挽物細工の化粧材として用いるものであり、畑宿の寄木会館で製法が紹介されている。この畑宿も「間の村」であり、その本陣を務めた茗荷屋の日本庭園が残っている。小さな庭園だが、かつてアメリカ公使ハリスの箱根越えの際に、箱根関所でのいざこざ(ハリスが断固として関所での検査を拒否したため、やむなく駕篭だけを検査して関所を通したという。)で気分を害したハリスが、この庭園を見て機嫌を直したというエピソードがある。
畑宿を過ぎるとまた石畳の西海子(さいかち)坂となる。両側に畑宿の一里塚が残る。23番目。今まで見てきた中で最も形のよくわかる一里塚だが、塚の上に植わった榎の木はさいきん植えられたばかりのものらしい。天気予報より早く雨が降り出した。県道に出て七曲がりのヘアピンカーブを登っていく。途中から階段になり、橿の木坂と書かれた看板がある。そこには「橿の木のさかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼる」と『東海道名所日記』所載の歌が記されている。どんぐりほどの涙は大げさだが苦しいのは間違いない。さらに猿もすべるという猿滑り坂が続く。初老のカップルが石畳の道端に座って汗を拭いている。ヘアピンカーブの入口から一気に200m登り、再び県道に戻ってきたときの標高は約650m。箱根湯本からでは既に550m登ったことになる。ゆるい追込坂になり、親鸞上人が弟子と別れたという笈の平を過ぎると甘酒茶屋に着く。最大の難所は越えた。
かつて甘酒茶屋は4軒あったそうだが、今は1軒しか残っていない。ゴールデンウィークだけあって大変な混雑だが、雨に打たれて汗も冷えているところ、熱い甘酒と、きなこをまぶした力餅にありついて、ほっと一息つく。隣の旧街道資料館も見ていく。赤穂浪士の神崎与五郎が馬子に言いがかりをつけられ、大事の前の小事と、やむなく詫び証文を書く場面が展示されている。この先しばらく道が悪い。於玉坂、白水坂と上り、天ヶ石坂、権現坂、と滑る石畳の道を下ると芦ノ湖が見える。箱根に着いた。
国道1号と合流し人通りも車通りも多くなる。ホテルや土産物屋が並ぶ観光地・箱根のまっただなかに突入した。賽ノ河原や葭原久保の一里塚跡を見ながら、国道に沿った杉並木の旧街道を歩いていく。東海道の並木道といえばほとんどは松だが、箱根は山地で松が育ちにくかったため杉を植えたようである。これらは戦時中に伐採されそうになったこともあるそうだが、その危機を乗り越えて現在でも当時からの杉が約420本残っている。賽ノ河原のあたりでは、芦ノ湖に映る逆さ富士が見えるはずだが、この天気では富士山はまったく見えない。そういえば今のところ、富士山が見えたのは茅ヶ崎市内の左富士ただ1箇所である。
杉並木が途切れたところで国道を横断すると正面に箱根の関所が見えてきた。道の左側に関所の建物が復元されており、見学することができる。箱根関所を担当していたのは小田原藩であり、番士の多くは小田原から20日交代で登ってきていたそうだ。関所を通りすぎて国道に戻ると箱根の宿に入る。箱根宿は、東海道の開設に後れた1617(元和4)年に、西国大名の参勤交代の便を図るため、小田原と三島の宿から50軒ずつ取り立ててつくられた宿場である。弥次・北は関所を無事越えたことを祝して宿場で悦びの酒をくみかわしているが、雨もふりやまず寒くなってきたので、さっさと箱根町のバス停から帰ることにする。バス停から今とおってきた道を振り返ると、左に芦ノ湖、右に険しい箱根の山容が目に映る。これで富士山が見えていれば、広重の「箱根 湖水図」の構図に近くなるのだろうかと思いながらバスに乗り込む。箱根新道経由の小田原行きバスは、今まで登ってきた坂道をノンストップで下っていった。
※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。