YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

黄瀬川

● 伊豆国~駿河国・1

箱根宿~三島宿

 2001年5月5日こどもの日。小田原駅前のバス案内所で箱根町までのバスの切符を買おうとしたら、道が混んでいるので箱根湯本まで電車で行った方がよいと言われる。湯本駅前のバス乗り場も人であふれかえっていて、ようやく乗り込んだ宮ノ下経由の箱根町行きバスもまた混雑している。ゴールデンウィークも残り今日明日の2日だからとたかをくくっていたが、今から箱根に向かう人も案外多いようだ。

箱根峠付近より芦ノ湖を望む。
箱根峠付近より芦ノ湖を望む。

 箱根町に着いたのは10時35分ごろだった。バスで登ってくる途中、芦之湯のあたりはひどい霧だったが、箱根町まで着いたらそれほどでもない。しかし、雨が降っていないだけ前回よりまし、といった程度の天気で、富士山はまた見えない。国道をしばらく歩き右の旧道に入る。少し行くと左側に石仏があり石畳道が始まる。今年は東海道ができてから400年ということで何かイベントをやっているらしく団体さんが集合している。その団体さんを追いぬくよう、なるべく早足で石畳の坂を登っていくが、石が濡れていて足元は危ない。向坂、挟石坂と登ると国道に出た。ここから国道を左に折れなくてはならないのだが、箱根新道の箱根峠インターチェンジがあり交通量も多いので、やむなく右に歩いていくと道の駅があった。眼下に芦ノ湖が広がる。晴れていれば富士山も見えるのだろう。道の駅の前の横断歩道を渡って、道路の反対側を左へ歩いていく。車やバイクがひっきりなしに通る上に歩道もついていない場所をなんとか通りぬけると箱根峠についた。標高846m、相模国と伊豆国の国境である。神奈川県足柄下郡箱根町から静岡県田方郡函南町に入る。現代版峠の茶屋ともいうべきコンビニがあり、ちょうど小腹も減ってきたのでホットチキンとアメリカンドッグを買いこむ。前回もファミリーマートで買い物したが、このコンビニもファミリーマートである。そういえば箱根山中のコンビニはファミリーマートが多い。ファミリーマートはもと西武系だったから、ファミリーマートが西武グループの箱根開発の一環をになっていたのかもしれないなどと思う。

箱根竹のトンネルと石畳の道
箱根竹のトンネルと石畳の道

 国道からゴルフ場のほうへ行く道に入ると、すぐ左手に石畳の道への案内板が出ている。このあたり茨(ばら)ヶ平というらしい。井上靖による「北斗闌干」という碑がある。甲石坂という坂を下っていくと、道の両側には非常に細い竹が隙間なく植わっており、道の上にまで竹が覆い被さってトンネルのようになっている。この竹を箱根竹といい、東海道が石畳になる前にはこの箱根竹を束にして道に敷いていたということである。天気が少し回復して薄曇りといった様子になった。小田原から箱根に至る箱根東坂は須雲川の谷を通っていて薄暗い印象だが、箱根から三島へ抜ける箱根西坂は尾根に近いところを通っているので比較的明るい感じであり、ところどころ眺望も開ける。国道に出て、旅人に無料で粥などを出していたという接待茶屋跡。そういえば東坂でも割石坂の先に接待茶屋跡の案内板が出ていた。再び旧道に入ると右側に小田原攻めの際に秀吉がかぶとを置いたという甲石があるが、これは先ほどの甲石坂にあったものを移設したらしい。甲石自体もかぶとの形をしており、弥次さんはこれを見て「たがこゝに脱捨おきしかぶといしかゝる難所に降参やして」などと詠んでいる。道はひどいぬかるみになっており、このぬかるみを見ると石畳を敷いた理由が少し分かる気がする。確かにわらじ履きでこのぬかるみは歩きたくない。その石畳になり石原坂、大枯木坂。坂の途中に行き倒れの旅人を弔ったという念仏石がある。箱根山中と言っても少し歩けば茶屋のある立場があり、万一のときには助けを得られたのではないかとも思うのだが、やはり旅の途中で命を落す人も絶えなかったということか。

 また国道に戻ると三島市に入ったという看板がある。もっとも箱根峠からこのあたりまでは旧街道が函南町と三島市の境界にあたっているようなので、今までも函南町と三島市を行ったり来たりしていたのである。ここからは完全に三島市に入り、左に分かれる石畳道も1972(昭和47)年と1993(平成5)年に三島市が整備したものと案内板に書かれている。箱根町の資料館では、石畳の構造はこぶし大の石を敷き詰めた上に大きな石を並べるような形になっていたと説明されていたが、発掘調査によれば、この付近の石畳は土の上に直接石を並べてあったという。案内板には市が石畳を復原したとき、足りない石は根府川町産の安山岩を用いたと書かれているが、江戸時代に石畳を整備したときはどこから石を持ってきたのだろう。やがて杉林に包まれた石畳の小枯木坂は国道にぶつかり、歩道橋で国道を横断するようになっている。その先に山中城の跡がある。

山中城の障子堀
山中城の障子堀

 山中城は箱根峠を、そしてその向こうの小田原城を守るために北条氏が築いた城である。城の全域が公園として整備されており、階段を上がっていくと広い草原に出る。やはり旧東海道を歩いたり観光したりしているらしい人たちが弁当を食べたり休憩したりとのんびりした風景が広がっているが、ここがかつての本丸の跡だそうだ。本丸から二の丸や北の丸、西の丸へ行くには空堀を渡る必要がある。空堀は今は草に覆われているが、かつては滑りやすい赤土が露出しており、そこからは容易に這い上がれないようになっていた。さらにその空堀の中も高さ1~2mほどの盛り土で梯子状や格子状に細かく区切られているため(格子状になっているところは「障子堀」と呼ばれる。)空堀の中を移動することもできず、空堀に落ちた者はまさに袋のネズミになってしまったことだろう。しかしこれだけの堀を持つ山中城も、約17倍の人数とも言われる豊臣秀吉の大軍の前にはひとたまりもなく、わずか半日で落城したという。山中城の西の丸付近からは富士の裾野に広がる伊豆国、駿河国が一望のもとに見渡せるが、だんだん近づいてくる秀吉の軍勢を、山中城の兵たちはいったいどんな心持で見たことだろうか。

 攻撃側、守備側双方の墓が並ぶ宗閑寺を見てから山中城址を離れ、またしばらく石畳を下っていく。富士見平という場所があるが富士山の手前には分厚い雲のスクリーンがかかっていてわずかに富士の裾野のはじっこが見えるのみである。芭蕉の句碑があり「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」とある。芭蕉も富士は見えなかったらしい。国道を2度横断して上長坂を下る。

山中城から富士方面を望む。
山中城から富士方面を望む。

 27番目の一里塚跡を過ぎると笹原新田という集落に出る。小田原宿から箱根峠までの間に7つの「間の村」があったのと同様に箱根峠から三島宿までの間にも山中新田、笹原新田、三ッ谷新田、市山新田、塚原新田の5箇所の集落があった。この笹原からは舗装道路になり歩きやすくはなったが、急な下り坂が続いている。この坂を下長坂またはこわめし坂といい、「こわめし坂」とはあまりの急坂に背負っていた米が汗と熱でこわめしになってしまったことに由来するという。坂下の三ッ谷新田は元和年間に3軒の茶屋があったことから三ッ谷(「三ッ屋」の意か。)と名づけられたらしい。西国大名が休息したという松雲寺で甘茶をいただく。燕がたくさん飛び交っている。細い裏道に入り、小時雨坂、大時雨坂、題目坂を下る。坂公民館や坂小学校など、このあたりでは公共施設にも「坂」の名がついている。「膝栗毛」では、長坂からこの大時雨坂のあたりで、弥次・北は十吉という旅人と意気投合し、三島まで同道するのだが、実はこの十吉はとんでもない人物だったということが後で分かるのである。

箱根路の碑。左の道が旧東海道
箱根路の碑。左の道が旧東海道

 道端に13体のお地蔵さんが並ぶ市山新田を過ぎると、久しぶりに石畳の道が現れ「臼転坂」の案内板がある。臼転びの名は、臼を転がしたからとも、牛が転がったからともいう。こんなところで臼を転がす人もそうはいないと思うので、牛転びがなまって臼転びになったと考える方が自然だろう。さらに塚原新田を通過し、旧道が国道と合流するところに「箱根路」の碑が立っていた。箱根湯本の手前にあった「箱根路」の碑からはおおよそ6里といったところだろうか。箱根八里といっても小田原からの1里と、ここから三島までの1里は山道とは言えないので、実質的には箱根越えは約6里といえそうだ。国道には「東駿河湾環状道路」と書かれた大きな看板が立っており、この付近に建設予定のインターチェンジの完成予想図が描かれている。この先は国道の歩道部分に整備された石畳の道に沿って松並木が残り、28番目の錦田一里塚も街道の両側とも残っている、はずだったが、歩道と車道の間にあるひとつしか見当たらない。あたりを見まわすと、車道の向こう側にもうひとつの一里塚があった。つまり車道から見れば両側に一里塚があるわけで、いま車道が通っているところがかつての旧街道ということになる。ということはなんだ、いま歩いている石畳の歩道はあとからそれらしく造った道ということになるではないか。

大場川と鯉のぼり
大場川と鯉のぼり

 と、しばらく国道を歩いた後、旧道は右側に分かれ、愛宕坂、今井坂を下って河原ヶ谷という集落に至る。途中、東海道線の踏切を渡る。小田原までの東海道線は15両くらいつないだ長い列車だったが、ここでは3両編成の電車が一瞬のうちに走り去って行った。広い道に出て大場川にかかる新町橋の周辺では鯉のぼりがたくさんひるがえっている。新町橋の手前にある宝鏡院というお寺は足利幕府二代将軍・足利義詮の創建したもので、境内には足利義詮のほか、堀越公方・足利政知の墓などもある。ちなみにこの新町橋のたもとは江戸時代には罪人をさらし首にする場所だったようである。

 このあと三島在住の友人に会っていたので、再び歩き始めたのは夕方17時ごろになってからのことだった。新町橋の付近からは三島市の市街地を歩く。三島といえば伊豆国一の宮である三島大社の門前町である。広重の浮世絵「三島 朝霧」にも三島大社の鳥居が登場し、その前を駕篭に乗ったり馬に乗ったりした旅人が行き過ぎている。

三島 朝霧
「三島 朝霧」
三島大社鳥居前にて
三島大社鳥居前にて

 三島大社は創建が古く、その起源はよくわかっていないようだが、伊豆に流された源頼朝が源氏再興の祈願をして実際にその祈願がかなえられたため、源氏の信仰が厚かったそうである。さすがに境内は広く、流れ造りの立派な社殿があり、風の強い日は沼津まで香るという天然記念物のキンモクセイの木がある。このあたりが三島宿の中心部であり、大社の前はかつて高札場になっていた。南伊豆の下田に向かう下田街道と、裾野市方面に向かう佐野街道(甲州道)も大社付近で東海道から分かれている。

 古風な静岡銀行の支店の先にある蕎麦屋のところが本陣の跡であり、その門は近くのお寺に移築されて残っている。今は営業していないらしいヤオハンの前を通り、三石神社の境内にある時の鐘を見て、伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅前の踏切を渡る。1962(昭和37)年まで、ここから沼津の間の東海道を路面電車が通っていたらしい。東海地方に多いスーパー「ユニー」の前を過ぎると、やがて道の両側は商店から住宅に変わる。三島市から駿東郡清水町に入る。「駿東郡」の名の通り、ここからは駿河国になる。国ざかいには境川という小さな川が流れ、その川に「千貫樋」と書かれたコンクリート製の桁がかかっている。

境川をまたぐ千貫樋
境川をまたぐ千貫樋

 この千貫樋は、三島の小浜池から駿河国に水を引き込むための樋で、1469年ごろに造られたのち、伊豆の北条氏と駿河の今川氏の対立の中で使われなくなったり、1555年の和睦で再度水を通すようになったり、関東大震災で壊れて木製からコンクリート製に改められたり、といった変遷を経て今も駿河の田畑を潤しているものという。三島は溶岩を通って流れてきた富士の雪解け水が湧き出すために水が豊富な町であり、道路沿いでもあちこちに水の湧き出している場所がある。また、富士の雪解け水を化粧に使うから三島には美人が多いとか、富士の雪解け水で泥をはかすから三島のウナギはうまいとか、若干まゆつばな俗説もある。駿河国に入り、29番目の一里塚。左側のものは宝池寺、右側のものは玉井寺の前にある。左側は改修して復原したものだが、右側は江戸時代から残るものという。また、教育委員会の立てた案内板によれば、この一里塚は28番目の錦田一里塚(塚原一里塚)との距離は正確だが、30番目の沼津一里塚との距離は実測すると少し短いらしい。やはり当時の測量技術では多少の狂いはやむをえないというところなのだろうか。

 その先、国道1号の下をくぐり、源頼朝と源義経の兄弟が初めて対面した場所にあるという長沢八幡神社まで歩いたところで日が暮れた。東海道にある長沢バス停から伊豆箱根バスに乗り込み、終点の三島駅の近くにあるホテルに宿泊。夕飯には三島名物のウナギを食べた。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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