YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

黄瀬川

● 伊豆国~駿河国・6

府中宿~藤枝宿

 安倍川沿いのビジネスホテルに泊まった翌2001年8月26日。今日はあまり早く出発するとまずい事情があるため、ロビーでコーヒーを飲んでから午前9時過ぎにホテルを出る。まだ少し早いため、東海道を少し戻って昨日見た「双街の碑」の向かいにある静岡県地震防災センターを見学。静岡県周辺では1633年の寛永地震、1703年の元禄地震、1782年の天明地震、1853年の嘉永地震、1923年の関東大震災と、相模湾を震源とする地震が約70年おきに発生しており、そろそろ大地震が起きる可能性が高いとされている。ここはその「東海地震」に備えて防災意識を高めようという施設であり、地震に耐えられる建物とはどういう建物か、とか、津波が起きるとどうなるか、といったような内容の展示がされている。

 10時を回ったころ再び安倍川べりの弥勒町まで戻ってきた。安倍川名物・安倍川餅の店が開く時間だ。かつて安倍川の上流では金がとれたため、「金な粉」としゃれたきな粉餅を徳川家康に献上したのが始まりという説、弥勒町の名の由来となった「弥勒院」という名の山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになったのが始まりという説。どちらにせよ江戸時代の初期からの名物であるらしい。弥次・北も二丁町の遊郭で食べており、「コノ重箱はなんだ。ハヽアあべ川の五文どりか。」という台詞があるところを見ると1つ5文だったようだ。現在は、きな粉餅と餡子餅が5つずつ、これにお茶がついて500円。別にわさび醤油で食べる「からみ餅」もある。きな粉には砂糖が入っておらず、別に砂糖がかかっている。ひとくちサイズの餅はやわらかく、お茶もおいしい。しかし、店の人にはあまり愛想が感じられなかった。

府中 安倍川
「府中 安倍川」
安倍川の鉄橋
安倍川の鉄橋

 遅めの朝ご飯?が済み、安倍川の鉄橋へ。江戸時代は橋がなく、川越人足の手を借りて渡っていた。川の手前にある弥勒交番は川役人が詰めて川越を統轄していた川会所の跡という。渡し賃が高いといって勝手に川を渡った挙げ句に大金の入った財布を落としていった旅人をずっと先まで追いかけていき、お礼も受け取ろうとしなかった川越人足を称えた「安倍川義夫」の碑や、安倍川の河原にさらし首された由比正雪の墓址碑も近くにある。ちなみに安倍川の渡し賃は水位によって違い、ひざ下16文、股下18文、股まで28文、臍下46文、臍上55文、脇下から乳通りまで64文だった。弥次・北は「きんによう(昨日)の雨で水が高いから、ひとりまへ六十四文」と川越人足に言われ、64文払って肩車してもらうとなるほど川は深く流れも速い。ところが渡り終えるとこの川越人足、帰りは川上の浅いところを渡っていく。北さん「アレ弥次さん見ねへ。おいらをばふかい所をわたして、六十四文ヅヽふんだくりやアがつた。」。さっきの安倍川餅の価格で換算すれば64文は640円くらいにあたるだろうか。広重の「府中 安倍川」にもこの川渡しの風景が描かれており、4人の旅人が肩車や蓮台で渡っている。水は臍上くらいまで来ており、ひとりまえ55文といったところか。絵の中に見える山が現代の安倍川橋の向こう岸に見える山と似ていてなんだか嬉しい。

 安倍川を渡ったところは手越の里といい、鎌倉時代からの宿駅だったところという。古い家が多くなり、松並木も見られるようになる。「東海道中膝栗毛」では、この手越を過ぎたところで「俄雨ふり出して、たちまち車軸をながしければ、半合羽とり出し打かづき、足をはやめて」先を急いでいるが、今日は青空の広がるいい天気で、まだまだ残暑も厳しい。国道1号に合流し、しばらく国道を歩いてから再び左側の旧道に入る。このあたりから20番目の丸子宿になり、住宅や商店の混在するありふれた都市近郊の風情になる。並木の名残の松の大樹や、大正時代に立てられた一里塚跡の小さな石柱がなんとか旧街道の標をとどめている。新静岡駅から丸子まではかなり頻繁に静岡鉄道のバスが走っているが、バスの折返し場所となっている車庫を過ぎてしばらく行くと、道幅が狭くなってやっと旧街道らしい風景になる。「明治天皇御小休所跡」の碑が少し離れたところに2箇所立つ。本陣跡を過ぎる。

鞠子 名物茶店
「鞠子 名物茶店」
元祖丁子屋
元祖丁子屋

 丸子宿の名物は「とろろ汁」である。芭蕉は旅立つ弟子・乙州(おとくに)へのはなむけに「梅わかな丸子の宿のとろゝ汁」と詠んだ。初春の道中、梅香り若菜は青々しく、そして丸子の宿にはとろろ汁もある、といったような意味合いだろう。弥次・北ももちろん「飯をくをふか。爰はとろゝ汁のめいぶつだの」「そふよ。モシ御ていしゆ、とろゝ汁はありやすか」と茶屋に入ったが、そのうち茶屋の亭主が夫婦げんかを始めてしまう。「ていしゆ『イヤこのあまア。』トすりこ木でひとつくらはせると、女ぼうやつきとなりて『コノやらうめは。』トすりばちをとつてなげると、そこらあたりへとろゝがこぼれる。てい主『ヒヤアうぬ。』トすりこ木をふりまはして、立かゝりしが、とろゝ汁にすべつて、どつさりところぶ。女房『こんたにまけているもんか。』トつかみかゝりしが、これもとろゝにすべりこける。」。そのうち、止めに入った向かいのおかみさんまで巻き込まれて3人とも体じゅうとろろだらけに、あっちへすべり、こっちへ転げて大騒ぎになり、弥次・北はとろろ汁を食べ損ねてしまうのである。広重の「鞠子 名物茶店」では2人の旅人が、とろろ汁にありついている様子が描かれているが、この2人、ひょっとして弥次・北だろうか。話の中では大喧嘩をしていたおかみさんも何事もなかったかのようにおとなしくとろろ汁を運んでいるのが面白い。店の左に白い花を咲かせているのは芭蕉の句にある梅の花だろうか。

とろろ汁
とろろ汁

 この絵にあるようなわらぶき屋根のとろろ汁屋が現代の東海道沿いにもある。創業慶長元年という元祖丁子屋。かたわらには芭蕉と一九の句碑が立つ。今日出発を遅らせたのは、安倍川餅の開店時刻(10時)とこの丁子屋の開店時刻(11時)に合わせたためだった。すりばちに入ったとろろ汁とおひつに入った麦飯、たたみいわしの味噌汁がセットになって1,380円。とろろは自然薯を白味噌で溶いているそうで、思ったよりコクのある味である。おひつのご飯はたっぷり3杯分はあって腹いっぱいになる。だいたいそもそもが1時間前に安倍川餅を食べたばかりなのである。店を出ると東海道は左に曲がり丸子川の橋を渡る。ひなびた風情に似つかわしくなくラブホテルが異様に多くなる。この付近から丸子川の谷が細くなって山がちになるため都市計画関係の規制が緩くなるのかもしれない。丁子屋のパンフレットには「自然薯に含まれているディオスゲニンは、ヒトの体内で男性や女性の性ホルモンに変わる基本的化学物質」「ごぼう五時間にんじん二時間たまごたちまち山芋やたら」などと書かれているが、まさかとろろで元気になってしまうからラブホテルが多くなるわけでもないだろう。

宇津之谷トンネル付近。左側は道の駅
宇津之谷トンネル付近
左側は道の駅

 ちょっと寄り道して片桐且元夫妻の墓がある誓願寺へ向かう。片桐且元は方広寺の鐘の銘の弁明のため、豊臣秀頼の特使として駿府城の徳川家康のもとへ赴いたが、家康の許しが得られず、しばらくこの誓願寺に滞在していた。且元はその後に家康と会談することができたが弁明は聞き入れられず、責任を感じた且元はこの丸子で自害したという。数々の寺宝とともに展示されていた肖像の且元公は穏やかな人徳者といった風貌で、豊臣と徳川の板ばさみになり自害するまでに思い悩んだその心中は推し量るに余りある。もっとも後日、インターネットで調べていたら、片桐且元は家康への弁明に失敗した後、豊臣方を離れて大坂夏の陣では徳川方として参戦、4万石に加増された直後に病死したというのが事実のようだが、まあ、丸子の且元は責任にかられて自害した人徳者だったということでよしとしようか。境内は静かで庭園には天然記念物のモリアオガエルも棲むという。墓参りをして東海道に戻る。このあたりで静清バイパスが合流して国道1号は片側3車線くらいある幅の広い道になる。東海道は旧道に入ったり国道の歩道になったり国道を横断して反対側に移ったりして、宇津ノ谷峠へと向かっていく。左側採石場。「日本の紅茶発祥の地」と書かれた看板がある。国道を歩いていくと道の駅があり、その先は昭和34年に1本目、平成になって2本目が掘られた宇津之谷トンネルになっている。トンネルの手前を右に折れて、このトンネルができる前の旧国道を歩いていく。13時。4時間ほど歩いて疲れてきたこともあり「かまぶろ」という看板につられて行ってみる。中で火を焚いているかまの中に入るという和製サウナのようなものだが、10分ほど入っていただけで大量に汗をかいて疲れはとれたような気がした。

宇津ノ谷付近の集落
宇津ノ谷付近の集落

 このまままっすぐ行けばやはりトンネルに入るのだが、このトンネルも昭和のはじめごろにつくられたものなので、少し戻って左側の細い旧道に入る。慶龍寺というお寺が右にある。昔、宇津ノ谷峠に旅人を食べてしまう鬼が現れるため、旅の僧に姿を変えた地蔵菩薩が鬼を挑発して小さな玉の姿にしてしまい、その玉を10粒に割って飲み込んで退治したという伝説にちなみ、このお寺では小さな団子を10粒連ねたお守りの「十団子」が8月の縁日の際に売られている。慶龍寺の周辺は江戸の昔の面影を残す小さな集落となっており、この集落では家ごとに「イセ屋」「丸子屋」「寿々家」などの屋号が掲げられている。その中で有名なのが「御羽織屋」で、かつて豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めにいったときにこの家で馬のわらじを替えようとしたところ、馬の脚は4本あるのに家の主人は3個のわらじしか寄越さない。「(4は「死」につながり縁起が悪いので)残りの1つは戦勝祈願のため我が家でお預かりします。」という主人の言葉に喜んだ秀吉は北条氏を滅ぼした帰り道にこの家を再度訪れ、紙子の羽織を褒美にとらせたという話からこの屋号がついたという。今も200円払うとこの羽織を見学することができ、家のおばあさんの説明を聞くことができる。紙子(紙衣)は風を通さず保温性に優れるため戦国時代には陣羽織としてよく用いられたものだが、いかんせん和紙でつくられたものであり、参勤交代の際に東海道を通る大名がこの羽織を見学してなでさすったり、あまつさえ破りとって持ち去ったりしたため、既にぼろぼろの状態である。しかし、その代わりに諸大名からお礼としてもらった品々もいっしょに展示されている。

 「秀吉さんが通ったので『出世街道』ともいうのよ。」とおばあさんが言う東海道をさらに進むと、集落を抜けて道は登り坂になり、やがて宇津ノ谷峠を越える山道にさしかかる。東海道の難所のひとつであった宇津ノ谷峠には明治の初めからトンネルが掘られ、今も明治34年につくられたトンネルと旧国道のトンネルと現在の国道のトンネルが2本の、合わせて4本のトンネルがある。早くからトンネルがつくられていたため、江戸時代の旧道は一度廃道になったらしく、現在の山道も林に囲まれてなんとなく心細げな感じである。しかし、峠の標高は160mほどしかないため意外にあっさりと最高点に到達してしまい、反対側の道は国道トンネルの点検用通路を兼ねて舗装されているところもあって、難なく峠越えは完了してしまった。この峠道は軍勢が通ることができるように源頼朝がつけかえたもので、それまでは「蔦の細道」と呼ばれる道を通っていた。伊勢物語の「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」の歌は、この蔦の細道を歌ったものといわれる。峠を下りたところでその蔦の細道と合流する。蔦の細道を通る人がなくなり、道が消えてしまうのを惜しんで立てられたという「蘿径記の碑」を過ぎ、トンネルを抜けてきた国道をしばらく進む。

岡部 宇津之山
「岡部 宇津之山」
宇津ノ谷峠頂上付近
宇津ノ谷峠頂上付近

 峠からは志太郡岡部町に入っている。広重の「岡部 宇津之山」は岡部側から見た宇津ノ谷峠のようすが描かれたものである。広重の東海道五十三次は基本的に江戸から京方面を見た構図になっているのだが、この絵は反対に京から江戸方面を眺めている。道の駅を過ぎて右側の旧道に入る。やはり東海道を歩いているらしいおじさんに「東海道はこの道で合っていますか」と尋ねられる。特に順番にこだわらずに部分部分で東海道を歩いておられるようで、大井川の先にある「小夜の中山」のあたりが良かったという話を聞く。おじさんと別れて県道藤枝静岡線と合流。岡部宿に入る。

柏屋
柏屋

 「東海道中膝栗毛」では、雨のため大井川が増水して川止めになり、弥次・北はやむなくこの岡部宿の旅篭に泊まっている。大井川まではまだこの先に藤枝宿と島田宿があるが、川止めが長く続くと先の宿場がいっぱいになってしまい、この岡部宿に泊まらざるをえなくなることもあったようである。今もこの岡部には柏屋(かしばや)という旅篭の建物が残されており、昨年からは資料館として公開されている。1836(天保7)年に建てられた建物で、1994(平成6)年まで93歳のおばあさんがひとりで住まわれていたのだそうだ。岡部に3軒あった武士向けの大旅篭のうちの1軒であり、弥次・北の宿泊した旅篭よりは高級な旅篭だったと思われるが、それでも江戸時代の旅篭の雰囲気はよくわかる。今の旅館の感覚だと各部屋は完全に仕切られているのが当然だが、この柏屋では隣の部屋との仕切りは障子1枚。相部屋になることもあっただろうし、ずいぶんとプライバシーのない宿だったようだ。

従是西田中領
従是西田中領

 岡部はお茶の産地であり、この柏屋で冷たいお茶を飲んで少し元気になる。いったん裏道に折れ県道に戻ると、モミジバフウの並木の中に一部松並木が残っている。国道1号のバイパスをくぐってまた細い道に入りこむとここからは藤枝市になる。江戸時代は横内村という村で、1735(享保20)年から幕末まで美濃岩村藩の代官がこの村を支配していた。代官というと悪代官しかいないようだが、この村では年貢の率も周辺の村より低く、村民に薬を配布したり、生活困窮者を援助したり、と温情あふれる治世を行っていたことが「横内歴史案内」というパンフレットに書かれている。この横内では各家に屋号が表示されているなどかつての横内村の歴史に対する思い入れがなんとなく感じられる。

 国道1号を横断すると岩村藩領の横内村は終わりになり、田中藩領に入ったことを示す「従是西田中領」と書かれた新しい榜示杭が松の樹と並んで立っている。弘化年間(1846年ごろ)に幕府から諸侯に対し、榜示杭はすべて石材にすべしという命令が出たため、そのときに立てられたものだそうだが、オリジナルは田中城跡に移されているためここに立つものはそのレプリカである。

田中城ニ之堀跡
田中城ニ之堀跡

 葉梨川にかかる八幡橋という橋を渡って大きな楠のある神社を過ぎ、再び国道1号を横断すると藤枝宿になる。この宿場の1kmほど南には酒井氏や本多氏などの居城であった田中城がある。別名を「亀城」と言い、4重の堀が円形に本丸を取り囲む珍しい形の城だが、今は二の堀の一部が残るばかりであり本丸跡は小学校になっている。また、この城は家康が鯛の天ぷらを食べて食中毒を起こした場所としても知られる。田中城から浜小路という街道を1里半ほど行くと焼津湊がある。魚が傷むほど海から離れた場所ではないが、ともかく家康はその食中毒がもとになって命を落としたと言われている。時刻は16時20分。堀の前で少し休憩して東海道に戻る。静岡鉄道大手駅の跡につくられたバスの車庫が途中にある。東海道線は岡部宿や藤枝宿から離れた場所に敷かれたため、東海道線の藤枝駅に近い新藤枝駅から分かれて藤枝宿の中心に近い大手駅を経由し、さらにその先の駿河岡部駅に至る藤相鉄道が別につくられていた。藤相鉄道はやがて合併して静岡鉄道となるが、1964(昭和39)年までにこの路線は廃線になってしまった。

藤枝 人馬継立
「藤枝 人馬継立」
藤枝宿上伝馬商店街
藤枝宿上伝馬商店街

 広重の「藤枝 人馬継立」では藤枝宿の問屋場の様子が描かれ、画面の右上から左下にかけて、帳簿片手の商人や役人、鉢巻きを締め直す人足や、荷物を降ろして一服する人足の姿が並び、画面中央の荷物につけられた札には小さく「保永堂」と版元の名が記されている。その問屋場のあった上伝馬商店街、樹齢750年の「久遠の松」のある大慶寺、出家して蓮生坊と名乗った熊谷直実が借金の質草として念仏を唱えると蓮が生えたという蓮華寺池。やがて瀬戸川に至り2kmほども続いた藤枝宿は終わりになる。この長い宿場がそのまま長い商店街となり、現代の12万都市・藤枝市の礎となった。瀬戸川は江戸時代には徒渡しだったという。今はちょうど橋の架替えの最中である。

瀬戸の染飯
瀬戸の染飯

 国道1号にぶつかったところで東海道を離れ、藤枝駅に向かう。時刻は17時30分。電車に乗る前に駅前で名物の「瀬戸の染飯」を購入する。染飯はくちなしの実で黄色く染めた米を握ったおむすびで、肝臓にいいとか疲れを癒すとか腹持ちがいいとかご飯のコシが強くなるとか言われて食されたものだという。帰途はこの旅で初めて新幹線利用となり、車中でさっそく染飯を取出す。もち米のおむすびで塩味もきいていてとりあえず美味しくいただいたが、ほんとうに肝臓に効いたかどうかは不明である。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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