YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

黄瀬川

● 伊豆国~駿河国・5

江尻宿~府中宿

 週末特に用事がないと金曜日はついつい飲み過ぎてしまう。そして東海道に出かけるのも特に用事のない週末と決まっている。結果として2001年8月25日土曜日も前回に引き続き二日酔い気味のまま東海道に出かけてしまった。

江尻 三保遠望
「江尻 三保遠望」

 天気予報では曇りのはずだったが意外といい天気になり、東海道線の鈍行列車からは富士山がよく見えた。14時40分ごろ清水駅に着いて江尻宿へと向かう。この清水駅も1934(昭和9)年までは江尻駅と呼ばれていた。清水と江尻は本来別の町なのだが、次郎長で有名な清水が江尻を飲みこんでしまったという格好だろうか。広重の「江尻 三保遠望」でも清水湊に浮かぶ舟の群れが真ん中を占めて、江尻宿の街並みは左下にわずかに描かれるのみである。

工事中の稚児橋
「工事中の稚児橋」

 交差点を右に折れると「清水銀座」商店街に入る。このあたりがかつて宿三町(しゅくさんちょう)と呼ばれた江尻宿の中心部で、現在も比較的活気のある街並みとなっている。正面は武田信玄が築き関ヶ原以降に廃城となった江尻城の跡で、当初、東海道はまっすぐこの城跡の北側を通っていたが、1607(慶長12)年に城跡の手前を左折したところへ巴川をまたぐ稚児橋が完成し、東海道もこの橋を通るように付けかえられた。この橋には当初「江尻橋」という名前がつけられることとなっていたが、渡り初めの際に川の中からカッパ頭の稚児が現れて先に渡ってしまったため「稚児橋」という名がついたのだそうである。橋はちょうど架け替え工事中で、親柱の上に青いビニールシートでぐるぐる巻きにされた銅像らしきものが立っている。もしかするとカッパの像だろうかと思いながら橋を渡って果物屋の角を右に折れると商店街はおしまいになる。木戸跡の表示があり江尻宿もここで終わりとなってしまった。太陽に向かってまっすぐ西に歩いていくとやがて道路の左側に「是より志ミつ道」と書かれた道標が現れる。清水道の追分である。その道標の隣には「追分羊かん」という赤いのれんをかけた店がある。三代将軍家光のころ箱根山中で旅に病める明国の僧を助けた砂糖商人がその僧からお礼に小豆のあつものの作り方を教わったのが、この追分羊羹の始まりと伝わる。店の中に入ると昔の商家を思わせる造りで帳場の横に羊羹が並べられている。帳場の向こうは座敷になっており、緋毛氈の敷かれた縁側の向こうには淡い緑の美しい庭園がのぞいている。江戸時代から時間が止まっているかのような静けさ。奥座敷から温厚そうなご主人が現れた。「ウォーキング中ですか。今日はどちらまで。」「とりあえず府中(静岡)までは行こうと思っています。」「10キロ、2時間ほどです。6時までには着きますな。」

追分の道標(左端)と追分羊羹の店
追分の道標(左端)と追分羊羹の店

 のれん同様に赤い包みに入った羊羹を買い求めて店を出る。包みには「創業元禄八年」と誇らしげに記されている。ここ清水市が舞台となっている「ちびまるこちゃん」にも追分羊羹が登場したことがある。すぐ先に都田一家の供養塔。案内板には

「春まだ浅き文久元年(一八六一)正月十五日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。」

とある。さすがは次郎長の地元、「その是非は論ずべくも無い」というあたりがすごい。清水で次郎長の悪口でも言おうものなら、この「都鳥」と同じ運命をたどってしまいそうである。金谷橋で大沢川を渡る。この橋はかつて土橋(表面を土で覆った橋)で、荷物を積んだ牛馬は、橋を壊さないようにという配慮からか橋を通らずに川をそのままじゃぶじゃぶと渡っていたらしい。東海道線と静岡鉄道静岡清水線の踏切があり、4両編成の東海道線が通り過ぎていく。目の前に巨大なジャスコが見えてきた。「久能寺観音道」の道標あり。この久能寺は明治時代にいったん廃寺になり、山岡鉄舟が再興したため今は鉄舟寺というらしい。貯水池のようなものがあり、道端の住居表示図を見るとその貯水池に「上原堤」という名前が記されている。池のことをなんで「堤」というのか謎である。

 しばらく微妙に上り坂になっていたようで、東海道は巴川の河岸段丘上へと上ってきた。上原という地名も地形に由来するものだろう。十七夜宮という神社があり由来を書いた看板が立っているが、この由来がなかなか面白い。上原村に信心深い青年がおり、その夢枕に浅畑という村のお不動様が立って、お前のような青年がいる上原村はさぞいいところであろうから、上原へ連れていってくれという。そこで青年は浅畑のお不動様に行ってご神体を持ち出そうとしたのだが、浅畑村の人々が追いかけてきたので、やむなくご神体を浅畑村の人に返した。ところが浅畑の人がご神体を元の場所に戻そうとしてもどうしても動かせない。そこでこのご神体はやはり上原村に譲られることになったというのである。この浅畑という村は今のどこにあたるのか分からないが、2つの村の間になにか複雑な事情があったことが推測される。

静岡県総合運動場
静岡県総合運動場

 幹線道路に合流し、旧街道らしくなく郊外型の店舗が多くなってきた。草薙一里塚の石碑が建つ。「草薙一里山」という地名も残る。草薙の地名のもととなったと思われる草薙神社の巨大な鳥居がある。ヤマトタケルノミコトが、今の焼津市で敵のつけた野火に囲まれピンチに陥ったときに、草薙剣で草をなぎ払い向かい火をつけて敵を焼き払ったという伝説に関わる神社らしい。草薙駅前から静かな裏道に入る。下り坂になり正面に東名高速道路の高架橋が見えてきた。この坂を閻魔坂といい、馬に乗ったままこの坂を通ると落馬して怪我をするので、大名行列も馬から下りて坂を通行したという。この坂の前にはかつて閻王寺という閻魔大王をご本尊とする寺院があり、乗馬のまま門前を通行すると閻魔大王の怒りをかうためだそうだ。無事に坂を下り静岡市に入って東名高速をくぐると、やがて道は突き当たりになる。左手に静岡県総合運動場がある。軟式野球の国体予選かなにかが行われている。しばし休憩。時刻は既に16時30分。

JR線路際の旧東海道記念碑。緑色の橋は静岡鉄道線
JR線路際の旧東海道記念碑
緑色の橋は静岡鉄道線

 幹線道路を横断し、静岡鉄道「県総合運動場」駅前の道を行くと、行く手にはJRの線路が現れる。東海道はこの先まっすぐ続くのだが、線路に阻まれて先へ進むことはできない。その突き当たりの場所に「旧東海道記念碑」があり、1962(昭和37)年の国鉄操車場の建設とその後の土地区画整理で消えてしまった旧東海道を記念するために碑を建てたことが記されている。まっすぐは進めないが、すぐ右に「北村地下道」という地下通路があり、JR線の北側には容易に行くことができる。街道に沿って敷かれている静岡鉄道の線路も高架橋でJRの線路を跨ぎ、やはりJRの北側へと移っている。

 国道1号を横断し旧街道らしい道を進む。長沼一里塚跡を過ぎる。また国道1号を渡りJRの線路を地下道でくぐって線路の南側に戻る。この近くに東静岡駅という新駅ができ、その周辺を整備しようという計画があるそうだ。静岡・清水両市は合併が検討されており、両市の中間に近いこのあたりに市役所を持ってこようという構想もある。しばらく線路の南側を歩いていたが、また地下道で北側へ移る。明治時代の鉄道は江戸時代の街道などおかまいなしに敷かれていったようだ。もう一度、国道1号を渡り伝馬町通りに入る。既に19番目の宿場である府中宿の中にいる。久能山へ向かう久能街道が分岐し、宿場だったころは駅馬の継立てでにぎわったであろう伝馬町に至る。通りが華やかになってきた。駅前通りと北街道とぶつかる五叉路を地下道で横断し左に曲がる。北街道は江尻宿の稚児橋がかけられる以前の東海道の道筋であるらしい。左に曲がったと思ったらまた右に曲がる。このあたりが静岡市内でいちばんの繁華街であるようだ。東海道を歩いていてこれほど若者が多い道を歩いたことは今までなかったように思う。

 静岡はかつて駿河国の国府が置かれた場所であり、府中または駿府と呼ばれていた。守護大名の今川氏が駿府城を築き、今川氏の人質としてこの地で幼少時代を過ごした徳川家康がやがて駿府城を大改築して自らの隠居所とした。江戸時代の大半は幕府直轄の城下町であり、大政奉還後に江戸を追われた徳川家が府中藩主として駿府に入ったが、「府中」は「不忠」に通ずるため、版籍奉還のときに町の北にある賎機山(しずはたやま)の名をとって府中を「静岡」に改めている。

札の辻跡。突き当たりは静岡県庁
札の辻跡
突き当たりは静岡県庁

 青葉通りという並木道を横断するときに右を向くとまっすぐ突き当たりに静岡市役所の高層庁舎が見える。その次の交差点がかつて高札場のあった「札の辻」であり、ここからまた右を見ると今度は静岡県庁の古風な庁舎と対峙することになる。このように市役所や県庁が真っ正面に見えるようになっているのは、静岡のもととなった駿府の城下町がタテヨコ碁盤目にきっちりと区画されているからである。同じく城下町である名古屋を少し小規模にしたような感じかな、と思う。県庁の後ろには駿府城の跡である駿府公園があるが、以前に訪れたことがあるので今回は寄り道せず、札の辻を県庁と反対の方向に曲がる。七間町通りというやはり賑やかな通りをしばらく歩き、右折して左折。住宅と商店の混じる少し静かな道に入った。道がまっすぐ続いている。ところで弥次・北はどうしたか。実は「東海道中膝栗毛」の作者である十返舎一九の出身地はここ府中であり、弥次さんもまた府中の出身という設定になっている。そこで2人は伝馬町に宿を借りたあと、弥次さんの知人のところへ行って路銀を用立ててもらい、お金が入って気が大きくなったのか、そのまま宿屋から二丁町と言われる遊郭へ遊びにいってしまっているのである。

双街の碑
双街の碑

 弥次・北の遊んだ二丁町の跡地へと行ってみたが、1958(昭和33)年まで遊郭があったというこの町も今はただの住宅街で、お稲荷さんの狭い境内に「双街の碑」(双街とは二丁町のこと。)が立っているのが唯一の名残であるようだ。二丁町はもともと家康が伏見や京都の遊郭の一部を移して整備した遊郭で、元和年間にさらにその一部を移してできたのが江戸の吉原であるという。「膝栗毛」には

「馬をおり廓に入て見るに、両側に軒をならべて、ひきたつるすがゞき(清掻。唄なしで三味線を引くこと。)の音賑しく、見せつきのおもむきは、東都の吉原町におほよそ似たり。」

とあるが、吉原がこの二丁町から移されたものだとすれば、似ているのも当然のことと言えよう。

 二丁町は安倍川の近くにあり、安倍川町とも呼ばれていたようだ。今日は、次の丸子宿まで行こうと思っていたので、その安倍川の橋を一度は渡ったが、既に時刻は19時を過ぎ、あたりはかなり暗くなってきてしまった。ふと振り返れば都合のいいことにいま渡ってきた安倍川の手前にビジネスホテルが1軒建っている。この続きは明日に回すことにして再び安倍川を逆戻りし、そのホテルに宿泊。今日は12kmほど歩いただろうか。

追分羊羹。竹包みごと切って食べる。
追分羊羹
竹包みごと切って食べる。

(追分羊羹について・・・おみやげに買って帰った追分羊羹を後日食す。羊羹は竹の皮に包まれたまま真空パックされている。竹の香りがして甘さはごく控えめ。「甘いものは嫌いだけど追分羊羹は好き」という人がいるというのにもうなずける。)

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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