YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

黄瀬川

● 伊豆国~駿河国・4

富士川~江尻宿

 2001年7月15日。富士駅前のビジネスホテルを出発したのは朝7時30分のことだった。東海道線に1駅乗って富士川駅に着く。朝から日差しは強く、今日も暑くなりそうだ。駅の水道でタオルを濡らし首にかけておく。

東名高速道路を越える。
東名高速道路を越える。

 駅前の道を少し上り郵便局の先を左折して東海道に入ると、まもなく東名高速道路をくぐる。東名高速と東海道がぶつかるのはここが最初となる。くぐった先に野田山不動への道を示す道標があり、「野田山」の「ノタ」という地名は湿地帯を示すという説明がある。小池川という小さな川を渡り、山に沿った道を歩いていく。1車線半程度しかない道だが、これでも富士川町道1号線であるらしい。かつては国道1号だった時代もあるのかもしれない。東海道新幹線とぶつかる手前にこの先行き止まりという案内があり、ちょっとうろたえたが、よく見ると人ひとりやっと通れるくらいの地下道があった。難なく先へ進み、庵原郡蒲原町に入ると今度は東名高速道路を跨道橋で渡る。急な坂道を下っていくと真っ正面に日本軽金属の工場の煙突と駿河湾が見えた。この坂を新坂といい、1843(天保14)年に富士川の氾濫以後に付け替えられた道であるためにこの名があるようだ。もとは七難坂という坂で富士見峠という峠を越えていたといい、それが今のどの場所にあたるのかはよくわからないが、後の道よりは富士川寄りだったのだろう。

 さて突き当たりを右に曲がれば蒲原宿なのだが、まずは左に曲がってすぐのところにある「義経硯水の碑」を見に行く。奥州へ向かう途中の源義経が涌き水を硯水に使い、蒲原神社への奉納文と、恋人・浄瑠璃姫への手紙を書いた場所という。三河国の長者の娘だった浄瑠璃姫はこの手紙を見て義経を追いかけたが、蒲原までたどり着いたところで病に倒れてしまった。案内によれば浄瑠璃姫は「館ノ主ニ救ハレ館地内ニ一室ヲ与エラレ住居ス。幸セノ暮シノ中デ重キ病デ没ス」とあり、不幸なんだか幸せなんだかよくわからない話だが、ともかくこの物語を語ったものが浄瑠璃の始まりだという。もう少し行けば浄瑠璃姫の墓もあるそうだが、東海道に戻って先を急ぐ。

 赤い鳥居がついて祠のようになった一里塚の跡を過ぎると、街道の見通しがきかないように道路がクランク状に曲がっているところがある。ここが蒲原宿の東木戸の跡である。このようにクランク状になった通路を枡形とか曲尺手(かねんて)といい、このようにわざと道を曲げるのは軍事上の目的の他に、大名行列同士が鉢合わせになるのを防ぐ目的があったらしい。右側の山は江戸初期に御殿があったことから御殿山という。山の上からは日本軽金属の発電用の太い送水管4本が下りている。送水管の上にかかった橋を渡り宿場の中に入りこんでいくと3階建ての土蔵や、なまこ壁の町屋、江戸時代の旅篭など古い建物が多く残っている。旧型のポストが似合う街並みだ。大正時代の手作りの窓ガラスがあるという家もあり、なるほど2階の窓ガラスが完全な平面でなくほんのわずかの波打ちが見られ、どことなく味のある窓となっている。敷地の形が昔の宿場のままと見えて、間口が狭くて奥行きのある家が多いようにも思う。

蒲原 夜の雪
「蒲原 夜の雪」
「夜の雪」碑
「夜の雪」碑

 ちょっと脇道にそれたところに蒲原宿「夜の雪」の碑。広重「東海道五十三次」のうちでも傑作といわれる「蒲原 夜之雪」の記念碑である。温暖な静岡県の蒲原で雪景色を描いたというのも変だが、もともと「東海道五十三次」のシリーズはさまざまな時刻、いろいろな季節の風景をとりまぜたものとなっており、後半の三重県亀山宿に昼間の雪景色があることから、前半の適当な場所として蒲原に夜の雪景色をもってきただけのことだろう。そもそもこの絵の場所が蒲原のどの場所なのかもよくわからないが、先述のとおり、この東海道の絵が描かれたのちに蒲原宿に至る道筋が七難坂から新坂に付け替えられていることから、今は消えてしまったかつての東海道の風景が描かれているのかもしれないなどと思う。

 ところですきっ腹の弥次・北はどうしているか。

此宿の御本陣に、お大名のお着と見へ、勝手は今、膳の出る最中。北八(略)弥二郎につゝみをわたし、御本陣へずつとはいり、かつてのどさくさの中へあがり、かたすみのほうへすはると、本ぢんの女だんだんぜんをもちはこび、大ぜいへすへると
北八「ヲイこゝへも一ぜん」
女「ハイハイ」
トすへる。かゝるこんざつの中ゆへ、人もきがつかず、きた八おもふさま、くつてしまい、すきまを見て、手ぬぐひをひろげ、わんにもりたるめしを、一ぜんちやつと打あけ、てぬぐひに引つゝみ、やがてこそこそとにげ出(略)
北八「本陣でどさくさまぎれに、五六ぱいやらかしてきた」
弥二「ソリヤアいゝことをした。しかし手めへも実のねへ(親切心がない)もんだ。なぜおいらもつれていかねへヱ」
北八「イヤおめへにやアみやげをもつてきた。」
ト手ぬぐひにつゝみしめしをいだす。
弥二「なんだめしか、有がてへ。イヤなかなか、手めへきがきいてゐるはへ。アヽうめへうめへ」
トのこさずくつてしまい、かの手ぬぐひをうちふるつて
「ヤアこれは、手ぬぐひにつゝんできたな。ヱヽきたねへ」
蒲原宿本陣前
蒲原宿本陣前

 弥次・北がどさくさ紛れにただ飯を食ってきた本陣跡の前で静岡県知事選の選挙カーとすれ違った。本陣は大名などの貴人だけが宿泊する高級な宿だったが、金のない弥次・北は安宿の木賃宿に泊まったようだ。

 蒲原宿西木戸跡を過ぎたところで、一度海岸へ出てちょっと休憩する。「地震だ!津波だ!!すぐ浜から避難!」と堤防に大書してある。蒲原宿も1699(元禄12)年の大津波で壊滅して海側から山側に移転している。再び東海道に戻って旧国道1号、現在の県道396号線を歩いていく。しばらく特に何もなし。清水銀行の支店がちょっと宿場風になっているのが目を引いたのと、「桜えび」という看板が目につくようになったくらいか。「藤枝市消防署」と書かれた救急車がサイレンを鳴らして走り去っていったが、7つ先の宿場である藤枝からわざわざやってきたのだろうか。

由比宿入り口の枡形
由比宿入り口の枡形

 蒲原駅前を過ぎ、東名高速道路をくぐったところで少し細い道に入る。庵原郡由比町。木が1本と看板が1枚だけ立っている39番目の一里塚跡を過ぎると、蒲原宿の入り口同様に道路が枡形状に曲がっているところがあり、ここから16番目の宿場である由比宿に入る。「御七里役所之趾」の表示あり。「江戸時代、西国の大名には江戸屋敷と領国との途路に七里飛脚という直属の通信機関を持つ者があった。此処は紀州徳川家の七里飛脚の屋敷跡である。同家では江戸、和歌山間-五八四キロ-に約七里-二八キロ-毎の宿場に中継ぎ役所を置き、五人一組の飛脚を配置した。主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。これには剣道、弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。普通便は毎月三回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発、道中八日を要した。特急便は四日足らずで到着した。」という説明が附されている。584kmを8日間ということは、1日70km余り。1日12時間として平均時速は6kmほどということになる。特急便だとその倍ほどの早さになるが、ものすごく早いというわけではないなと思う。

由比本陣公園
由比本陣公園

 やがて右側に屋根つきの門構えが現れる。入り口に「由比本陣公園 東海道廣重美術館」とある。ここへは5年前の夏、まだ学生だった時分にも一度来たことがあるが、改めて再度見学する。由比宿の模型や本陣の様子を示す展示がある。小宿だった由比は人足や駄馬の調達に苦労したらしい。東海道廣重美術館の名のとおり、歌川広重の「東海道五十三次」のシリーズが一そろい展示されている。通常、広重の「東海道五十三次」といえば、1833(天保4)年~1834(天保5)年に描かれた「保永堂版」のシリーズを指す場合が多い。広重の出世作となったこのシリーズは、幕府から朝廷に御料馬2頭を献上する「八朔御馬献進」の式典の様子を記録するため、1832(天保3)年に広重が初めて東海道を旅した際のスケッチをもとにして描かれたものだが、広重の「東海道五十三次」はこれ一作ではなく、このあとにも広重は15種類以上の東海道を描いている。この文章でも今まで「東海道五十三次」といった場合は「保永堂版」のものを指していたが、このとき美術館に展示されていたのはそれよりも15年以上あとに描かれた「蔦屋版」であった。「蔦屋版」は「保永堂版」と同じ題材の絵も多いうえ、中版という少し小さめの版型のせいもあってか、今ひとつインパクトを欠くようにも思ったが、中には画面いっぱいに帆掛け舟が描かれた新井宿のように印象の強い絵もある。なお、東海道廣重美術館では毎月展示替えをして各種の浮世絵を展示しているようである。

由比宿
由比宿

 当時の建築様式をそのまま復元したという「由比本陣記念館御幸亭」で抹茶とお菓子をいただいてから本陣公園を出る。向かい側は1651(慶安4)年に幕府転覆を企てた軍学者・由比正雪の生家と伝えられる「正雪紺屋」。並びには桜えびや生しらすなどを食べさせる店や由比宿に関する記念館などもあり、どうも弥次・北をイメージしたらしいマヌケ面をした旅人の人形が立っていたりして、ちょっとした観光地風になっている。重厚な石造りの建物が建つ清水銀行の支店の前あたりから緩い下り坂になり由比川橋に至るが、ただいま橋の架替え工事のためそのまままっすぐ進むことができず、まわり道と仮橋を通って対岸に渡る。由比宿はこの橋までで終わりのはずだが、低い建物が両側に隙間なく並ぶ同じような街並みがまだ続いていく。海辺まで迫る山塊が、行く手を遮るように大きく見え出した。

 由比駅を過ぎ、歩道橋で県道を横断して、山側の細い道に入る。建物が少しまばらになり、落ち着いた雰囲気になる。上り坂を上ると駿河湾が見渡せ、山と海に挟まれた狭い場所を東海道線と国道1号と東名高速道路がひしめき合うように通っているのが眼下に見える。旧東海道も、下道と言われる道がこの先で山と海の狭間を通っていたが、海沿いの道は「親知らず子知らず」と言われる危険な道であったため、薩埵峠を越える山越えの中道・上道が整備された。薩埵峠付近はハイキングコースになっているため、次第に東海道を歩く人が多くなってくる。山か湧き水が湧いている個所がある。倉沢という集落に入り、鞍佐里神社という神社がある。「『日本武尊が東征の途中、賊の焼き打ちの野火に逢い、自ら鞍下に居して神明に念ず、其鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。』と伝えられ、鞍去が後に倉沢と転訛した」という由来があるそうだ。かつて倉沢は海人が取りたてのアワビやサザエの壷焼きを売る立場だったらしい。左側に江戸時代から続く望嶽亭という茶店が現存するそうだがうっかり見落としてしまったようだ。

薩埵峠から駿河湾を見る。遠くに伊豆半島
薩埵峠から駿河湾を見る。遠くに伊豆半島

 40番目の一里塚跡の碑があり、すぐに急な坂道が分岐する。まっすぐ進めば海沿いの下道、坂を上れば薩埵峠を越える中道・上道である。海沿いの道は安政の大地震で土地が隆起して、その上を国道1号が通っているため「親知らず子知らず」ではなくなったが、国道に歩道のない場所があるらしく、別の意味で危険なので山越えの道を行く。坂道の両側はすべてみかん畑で、夏みかんが濃い緑の葉の中に黄色い実をつけ、みかん集荷用のモノレールの線路が畑の中を走りまわっている。坂を上るにつれて真っ青な海と空とが視界を埋めていく。車の音が絶え間無く響いているのが、この景色には似つかわしくないが、直下を東名高速道路と国道1号が通っているのでやむをえない。遠くに伊豆半島が横たわっているのが見える。駿河湾を行く船の航跡が青海原に一条の白線を引いていく。ただひとつ残念なことに、富士山の方角だけがどんよりとした曇り空である。広重の「由井 薩埵嶺」では、海に浮かぶ帆掛け舟と見事な富士山を旅人が眺める様が描かれている。広重の「東海道五十三次」で富士山が描かれている絵は7枚あるが、駿河湾と富士山がともに描かれているのはこの由比宿のみである。画中の旅人をうらやましく思いながら、峠でしばし休憩する。

由井 薩埵嶺
「由井 薩埵嶺」
薩埵峠から富士山方面を見る。
薩埵峠から富士山方面を見る。
奥津 興津川
「奥津 興津川」

 正午を過ぎた。薩埵峠から先は清水市になっている。坂を下っていくとなぜかお墓の中に出た。途中から上道と中道が分岐するが、上道は遠回りになるので、中道を進む。東海道線の踏切を渡ると広い通りに出た。広重「奥津 興津川」に描かれた興津川では、水遊びをしている子供連れが大勢いる。

「女体の森」入り口
「女体の森」入り口

 線路沿いの細い旧道へ回ってから国道1号に出る。「女体の森 宗像神社」といういかがわしげな標柱が立っているが、鳥居をくぐって境内に入ると中はまったくの由緒正しい神社である。福岡県の沖の島にある宗像神社の奥津宮を勧請した神社で、この「奥津」が「興津」の地名の由来だそうだ。奥津宮の神は、アマテラスオオミカミとスサノオノミコトが「うけい(神意を占うこと。)」をしたときに生まれたタキリビメノミコトという女神であることから、この神社の森に「女体の森」という名前がついてしまったらしい。

清見寺
清見寺

 山梨県の身延山へ向かう身延道が北へ分かれ、小さな石柱を立てただけの一里塚跡を過ぎる。41里。その先の興津駅を今回の終点とするつもりだったが、まだ13時過ぎである。少し疲れたが、がんばって興津宿のもうひとつ先の江尻宿まで歩くことにする。興津駅前を越えたあたりが興津宿の中心部のはずだが、片側1車線の国道沿いに何の変哲もない街並みが続いている。白鳳時代から戦国時代の永禄年間までこのあたりに清見関(きよみがせき)という関所があったらしい。右手の高台には天武天皇が関の鎮護のために創建したという清見寺(せいけんじ)という名刹が建つ。境内から山門を通して遠く興津埠頭のクレーン群が見える。今は港湾施設の並ぶ殺風景なこのあたりもかつては駿河湾の波打ち寄せる風光明媚の地で、元老の井上馨や西園寺公望が別荘を構えていたりもした。特に西園寺公望は、昭和初期、最後の元老として首相候補者を天皇に推薦する重責を担っていたために軍部から命を狙われ、二・二六事件のときには興津の別荘「坐漁荘」が襲われかけている。なお、坐漁荘の建物は愛知県の明治村に移築されて現存している。

 国道1号静清バイパスをくぐり波多打川を渡っていったん裏道に入ってからまた国道をとぼとぼと歩いていく。疲れた。庵原川を渡る。いつも国土地理院の25,000分の1地形図を持って歩いているのだが、ここで持ってきた地形図の範囲からはみ出てしまった。バス停の路線図を見てあとどれくらい歩くのか見当をつける。国道から分かれて商店街に入っていくところに観音様がある。もともとこのあたりは細井の松原という松並木だったのだが、戦争中に松根脂を採るために松の樹はすべて伐採されてしまったという。その際、松の根元から行き倒れの人々を埋めたらしい人骨がたくさん出てきたため、観音像を置いて無縁仏を弔ったというのである。そういえば箱根山中の杉並木も戦争中に伐採されそうになったと書かれていた。東海道の松並木や杉並木を伐ることが、どれほど戦況に影響を与えるというのだろうか。

 このあたりから18番目の宿場である江尻宿に入ったらしい。あまり人通りのない商店街を歩いていくと、とある民家の前に42番目の一里塚跡の表示があった。写真を撮ろうと思いカメラを構えたが、ちょうど民家から女性が出てきたので、慌ててカメラをしまい、その方が通り過ぎるのを待つ。再度、カメラを構えると、背後から「お撮りしましょうか?」と女性の声。やはり露骨に挙動不審だったようだ。峠越えをして汚い格好だったし、写真を撮ってもらうのは遠慮したが、東海道を歩いている旨を告げたら、その女性は代わりにその場所にあったという一里塚の話をしてくださった。

「私のおばあさんのころまでは、ええとなんといったらいいのかしらね、小さな山みたいのがあったそうよ。それでうちもヤマネの家と言われていたらしいの。」
「ははあ。山の根元ということでヤマネなわけですね。そういえば一里塚のある場所を『一里山』と呼ぶところもありますし。」
「あら。いま私が住んでいるのは横浜なんですけどね、やっぱり近くに一里山っていうところがあるのよ。」

 お盆でたまたま清水に帰られていたとのことで今のお住まいは横浜だそうだ。戸塚宿と藤沢宿の間にある原宿の一里塚付近に一里山という地名があったのを思い出す。東海道を歩いていることを「とても素晴らしいことね。」と言ってくれたその女性と分かれ、清水駅に向かう。東京に戻るため14時43分発の三島行きに乗り込んだ。

(清水市・・・2003年4月1日、静岡市と合併し、「静岡市」となった。)

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

前へ ↑ ホームへ  次へ
   4