YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

黄瀬川

● 伊豆国~駿河国・2

三島宿~吉原宿

水のない小浜池
水のない小浜池

 2001年5月6日。三島駅前のホテルをチェックアウトして外へ出ると、今日は非常にいい天気である。「膝栗毛」の弥次・北も同じ三島で宿泊しているのだが、箱根で意気投合して同宿した旅人十吉は実は旅人の路銀を狙うごまの灰であり、弥次さんは財布を盗まれて一文無しになった挙句に宿屋の亭主に「おゑどでも、神田の八丁堀で、とちめんやの弥次郎兵衛さまといつちやア、おそらくおれが近付の人に、誰しらぬものはねへハ。悪くふざきやアがると、やてへぼに((宿屋の)屋台骨)よヲたゝきこはして、合羽干場の地請にたつ(更地にして合羽屋の合羽干し場として貸し出す)のだ。足元のあかるいうち、 サアごまの灰めを爰(ここ)へ出せ。サアだせだせだせ」と悪態をついて北さんにとりなされている。ちなみに弥次さんの知り合い(近付の人)が弥次さんのことを誰ひとり知らぬものはないのは当然のことである。

 とりあえず朝食を、と思ったが、日曜の朝から開いているような店がなく、結局、伊豆箱根鉄道三島広小路駅の近くまで歩き、ようやくマクドナルドが開いているのを見つけた。しかもこのマックも明日からはモーニングの営業をとりやめる、という案内が出ていてちょうど危ないところであった。朝食を食べたらまた三島駅の方向へ逆戻りし、「楽寿園」へ向かう。ここは1890(明治23)年に小松宮の別邸として造営された屋敷及び庭園であり、庭園には小浜池という大きな池がある。この池は駿河に水を引くための「千貫樋」の水源となっている池なのだが、、、どういうわけか今日は水が一滴もなく、ごつごつした底の溶岩が姿をあらわしていた。

対面石
対面石

 楽寿園の敷地内にある三島市郷土館を見てから三島駅に戻り、三島駅前から八幡というバス停まで東海バスに乗る。昨日の終点である長沢八幡神社はこのバス停からすぐである。社殿の脇に「対面石」と呼ばれる石が2つ置かれていて、これは源頼朝・義経兄弟が対面したときに向かい合わせに腰掛け、平家打倒を誓い合った石だという。ちょっと腰を掛けるには小さいような気もするが、800年の間に削れてしまったものか。さてお参りして先へ進もうとすると、中から巫女さんの格好をしたおばさんが出てきて、ここの社殿の扉が自動ドアになっててね、この位置に立つとがーっって開くのよ、あれっ、スイッチが入っていなかったわね、ほらね、開いたでしょ、どこからきたの、まあ東京、これお神酒、せっかくお参りしてもらったからね、というようなことでいろいろ説明してもらった上にお神酒までもらってしまった。ちょうど今日はお祭りの日だったらしく、その準備の最中だったようだ。以前に来たことがあるので今回はパスしたが、この神社の東南には柿田川湧水があり、その湧水の泉も神社の神域に属するという。

黄瀬川と富士山
黄瀬川と富士山

 その先、緑の多い道を歩いていくと黄瀬川に出る。橋の上からようやく富士山とご対面。橋を渡ると沼津市に入り、しばらく行ったところには「従是西 沼津領」と書かれた沼津藩領を示す榜示杭もある。沼津は水野氏5万石の城下町であるが、沼津藩は10代将軍徳川家治の1777(安永6)年に成立した藩なのでその歴史はやや短い。いったん「旧国一通り(旧国道1号という意味だろう。)」という大通りに出たあと斜め左に入る狩野川堤防沿いの細い道に入る。堤防に上がって狩野川を眺めると川は緩く左に曲がっており、広重の「沼津 黄昏図」のとおりとなっている。

沼津 黄昏図
「沼津 黄昏図」

 右に小さな公園があり30里目の一里塚の標識が出ている。江戸からちょうど30里は宿場内の本町にあたるため、宿場を避けてやや東方のこの位置に置いたという説明書きがある。29番目と30番目の一里塚の距離が1里に満たないのは測量技術が未熟だったせいではないようだ。その向かいには「有名な浄瑠璃『伊賀越道中双六』に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊」と案内板にある平作地蔵がある。

 また大通りに戻り、再度細い通りに入る。この通りは狩野川と沼津城の城廓に挟まれているため、「川廓通り」という。通りの右側にある中央公園がかつての沼津城本丸跡にあたるらしいが、碑がひとつ建っているだけでまったく城跡らしさが感じられない。沼津城は武田勝頼の築いた三枚橋城をもとにしており、その先、沼津駅前の大通りには三枚橋城跡の碑も出ている。スルガ銀行本店の角を折れ、すぐに左に折れると本町で、このあたりが沼津宿の中心地であろうが特に表示は出ていない。再度右に折れる。ここからは10km以上にわたってまっすぐな道が続くことになる。

左に千本松原。遠く製紙工場の煙突
左に千本松原
遠く製紙工場の煙突

 いま歩いている道は県道163号線なので、道端にも「県道163」と書かれた標識が立っているのだが、その標識の一番下には「沼津市市道」とも書かれている。この「市道」は、「イチミチ」というこの付近の地名なのだが、なんとも紛らわしい。このあたり海岸沿いは千本松原という広大な松林になっており、平維盛の子、六代がここで処刑されそうになったところを文覚上人に助けられる、という話が平家物語にあるそうだ。ちょっと道を外れて六代松の碑を見に行ってから東海道に戻り、比較的交通量の少ない片側1車線の道を歩いていく。また榜示杭があり、ここまでがかつての沼津藩領であることを示しているが、残念ながらこちらは半分に折れていて「従是東」としか読めない。この榜示杭の前で縦列駐車をしようとした車が駐車中の車にぶつかったらしく、おじさんとおばさんが大声で言い争いをしていた。

 12時を過ぎ、海岸に出てちょっと休憩する。砂浜ではなく砂利を敷いたような海岸になっている。千本松原がずっと遠くまで続き、その向こう、はるか遠くに富士市の製紙工場の煙突が見えている。しかし暑い。短パンで来れば良かったと思う。セブンイレブンに入ってアイスを買う。沼津から2つ先の吉原宿まで旧東海道を走る富士急三島バスがあるようだ。片浜駅前。左側に新しいスーパーがある。踏切で長いこと待たされる。やっと来た電車はまた3両編成だった。その先、原宿に入る。三島で路銀を盗まれて一文無しの弥次・北は「まだめしもくはず沼津をうちすぎて ひもじき原のしゆくにつきたり」などと情けない歌を詠んでいる。「食わず飲まず」に「沼津」をかけ、「ひもじき腹」に「原の宿」がかかっているのである。この原は江戸中期の名僧、臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師の生まれ故郷であり、白隠は晩年、原の松蔭寺の住職となっている。あるとき岡山藩主が参勤交代の折にこの松蔭寺に立ち寄り、白隠に頼まれていた備前焼のすり鉢を贈った。白隠は、このすり鉢を台風で折れた松の木の、傷口の雨よけにしたのだが、この松はすり鉢を乗せたまま大きくなり、今もその鉢が乗った松の木が松蔭寺の境内にある。もっとも今の鉢は1985(昭和60)年に交換された新しい鉢であり、本物は別に保管されているそうなのだが。松蔭寺の先、興国寺城通りとの交差点付近に白隠産湯の井戸。興国寺城通りとは、北条早雲が城主を務めた興国寺城に由来する名前だろうか。雲が出てきて残念ながら富士山は見えなくなってきたが、高嶋酒造という酒屋さんの前に「富士山の霊水」と書かれた蛇口が出ている。「大腸菌一般細菌無シ」とあるのでありがたくいただき、ついでに顔も洗っていく。この高嶋酒造では「白隠正宗」というお酒をつくっているらしいが、きっとこのお酒にも「富士山の霊水」が使われているのだろう。

すり鉢松
すり鉢松

 原宿を過ぎ、右側にはいくつか工場の建物が見えるようになってくる。再び海岸に出て休憩する。富士の煙突がだいぶ近くに見えるようになってきた。海岸近くにある要石神社には富士山の溶岩が露出しているというが薄暗くてよくわからない。東海道に戻り浅間神社。神社の前に「改称紀念碑」という碑がある。この付近は浮島ヶ原という湿地帯だったのだが、鈴木助兵衛という人が開墾して助兵衛新田という新田になった。しかし「助兵衛名習俗冒子婬猥人綽号郷人嫌忌此称不用」であったため、知事に願いを出して1908(明治41)年に「助兵衛新田」を「桃里」と変える許可を得たという、その改称の記念碑である。浮島ヶ原はかつて浮島沼という沼地であったところが土砂の堆積で埋まっていって湿地帯になった場所である。広重の「原 朝之富士」でも浮島ヶ原の向こうに愛鷹山と、枠外にはみ出る巨大な富士山が描かれている。弥次・北も持ち合わせた革の巾着を通り掛かりの侍に100文で売り、その金で蕎麦を平らげて浮島ヶ原では次のように詠んでいる。

今くひしそばはふじほど山もりに
すこしこゝろもうきしまがはら
原 朝之富士
「原 朝之富士」
浮島ヶ原
浮島ヶ原

 今の浮島ヶ原は多くが田んぼとして使われているが、一部はやはり芦の茂る荒れ地となっているようであり、富士山が見えれば今も広重の絵と同じ景色が見られるのだろう。しかし、今日は東海道を北に外れて浮島ヶ原のほうへ行ってみても、富士山は雲に隠れて、その裾野の方に愛鷹山らしき山塊が見えるばかりであった。

 踏切を渡ると富士市に入った。海岸沿いを通る幹線道路と合流して交通量が非常に多くなる。駅舎に富士山のタイル画のある東田子の浦駅を通り過ぎる。この駅前付近は柏原という間の宿だったという。昭和放水路という水路を渡るところに33番目の一里塚跡と増田平四郎の像。増田平四郎は1869(明治2)年に排水路を建設し、浮島ヶ原の干拓を行おうとした人物である。彼の建設した排水路は完成直後に高波によって壊れてしまうのだが、昭和になって改めて排水路が建設された。それがこの昭和放水路だという。ちょっと田子の浦に出てみる。山部赤人の歌で有名な田子の浦だが、現代の田子の浦はテトラポッドの並ぶ殺風景な海岸である。少し先には掘込み式の田子の浦港もある。

吉原 左富士
「吉原 左富士」

 交通量の多い道を外れて、静かな道に入る。大きな毘沙門天がありちょっとお参りする。この付近、元吉原といい、当初吉原宿が置かれていた場所だったが、寛永年間に高潮の被害に遭ってやや北の中吉原に移転し、さらに1682(天和2)年にはもっと北の新吉原に移転している。やがて東海道は東海道線の線路にぶつかるので、その手前の踏切を渡ると、大昭和製紙の本社工場があり、大きな煙突がそびえている。この近辺には大昭和製紙のほか日産自動車の工場もあり、吉原駅前を過ぎると工場地帯といった雰囲気になる。国道139号を横断して、しばらく進むと左富士の碑。江戸から京都へ向かう東海道で左側に富士山が見える2箇所のうちのひとつ(もう1箇所は神奈川県茅ヶ崎市にあった。)だが、残念ながら今日はまったく富士山が見えない。広重の「吉原 左富士」の絵では、松林の間から富士山が見えているが、松もわずか1本が残っているだけになってしまった。その先には平家越の碑。富士川の戦いのときに、平家が水鳥の飛び立つ音を聞いて源氏が攻めてきたと勘違いし逃げてしまったというその場所である。富士川は江戸時代の河川改修で流れを変えてしまったため、いまここには富士川がなく、和田川という小さな川が流れているだけなので、当時の雰囲気はあまり味わえない。吉原宿東木戸跡の案内があり、吉原宿に入った。岳南鉄道の吉原本町駅から帰ることにする。2日間の間に10番目の箱根宿から三島宿、沼津宿、原宿を経て14番目の吉原宿まで40km弱を歩いたことになる。ようやく全行程の4分の1くらいは来ただろうか。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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