YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

黄瀬川

● 伊豆国~駿河国・3

吉原宿~富士川

この方角に左富士が見えるはずだったのだが。。。
この方角に左富士が
見えるはずだったのだが。。。

 吉原駅からの富士急三島バスで「左富士」バス停に着いたのは、2001年7月14日16時のことだった。昨晩、メキシコ料理屋で飲んだテキーラが効き過ぎ、目が覚めたときには既に昼時となっていたが、あまりに天気がよいので思わず寮を出て東海道へと向かってしまった。しかし、残念ながら左を見ても富士は見えない。天気は悪くないが、薄ぼんやりとかかった雲が富士山を完全に隠していた。雲の動きは速く、しばらく待てばちょっとくらいは見えるかとも思ったが15分待っても何も見えない。あきらめて2ヶ月前にたどった道を再び歩き出す。平家越の碑、吉原宿東木戸跡。前回、終点とした吉原本町駅に着いた。駅近くの身代わり地蔵尊にお参りする。吉原宿に眼病がはやったときにこのお地蔵さんにお願いすると眼病が治り、代わりにお地蔵さんの目には目やにがたまっていたという。ここからは初めて歩く道になる。

吉原中心部。奥のビルがヤオハン跡
吉原中心部
奥のビルがヤオハン跡

 吉原本町の駅前にはヤオハンが入っていたらしい空きビルが建つ。かつての宿場町の中心部は商店街になっている。かつてはこの吉原宿を中心とする吉原市という市があったが、1966(昭和41)年にこの吉原市と(旧)富士市、富士郡鷹岡町の2市1町が合併して現在の富士市となった。今晩、ナイトバザールが開かれるらしく、その準備が行われている。静岡銀行吉原支店の角を左に折れてさらに右へ折れる。寺院の大屋根があちこちに見えるのが古くからの町であることを示している。宿場の西の端にあたる四間橋で小潤井川を渡るが、富士からの水を集めているせいか橋の下を流れる水はかなり水位が高く、ちょっと危なげでさえある。この橋の先で東海道は国道139号と富士市役所前の大通りに遮られる。大通りに「旧東海道跡の碑」があり、市の合併に伴ないこの近辺が区画整理により中心市街地として整備され、その際に旧東海道が分断されたため碑を置いたこと、碑の前に敷かれている細長い石は出土した旧東海道の石橋であることが案内板に記されている。東海道は100mほど途切れたのちに復活し、広い通りにぶつかったり細い道に入ったりしながら、今は夏祭りの準備に忙しいかつての間の宿、本市場に至る。普通の民家の傍らに1820(文政3)年に立てられたという鶴芝の碑が立っている。ここから富士を見ると中腹に一羽の鶴が舞っているように見えるそうなのだが、やはり今日は富士山は見えない。富士市を歩いていて一度も富士山が見えないというのもなんだか情けない。

王子製紙の工場と一里塚跡
王子製紙の工場と一里塚跡

 今は県道となっている旧国道1号を横断し、王子製紙の工場の横を進んでいく。鉄道の線路跡らしい富士緑道という遊歩道がある。一里塚跡の碑が立つ。富士駅前の通りを横断し、うねうねとした道を進んでいく。平垣村札の辻跡の案内あり。全体に富士市内は旧東海道に関する史跡の案内が丁寧であるようだ。旧国道に合流して高架駅のJR身延線柚木駅。歩き始めたのが遅かったので今日はここまでで終えるつもりだったのだが、日暮れまでもう1時間程度は歩けそうだと思い続行する。「左東海道」と書かれた古い道標がある場所から細い道に入る。目の前に「雁堤(かりがねづつみ)」と呼ばれる富士川の堤防が見えてくる。富士川の流れはもとは今の富士市中心部にあたる加島平野を何本にも分かれて流れていたのだが、元和年間から延宝年間にかけて、古群重高・重政・重年の3代の親子が広い遊水地をもつ雁堤を築くことで富士川の流れを変え、加島平野の開発を促したのだという。また、雁堤の建設の際に、富士川を渡ってくる1000人目の旅人を人柱とすることになり、ちょうど1000人目になった旅の僧を人柱として埋めたという場所に護所神社という神社がある。この神社のところから堤の上に上がることができる。上から眺めると遊水地では「かりがね祭り」というお祭りをやっているところだった。

 再び旧国道に戻り、富士川橋のたもとに至る。水の安全を祈願する水神社が設けられており、その境内はうっそうと茂る森になっている。富士川を渡るには以前は渡し舟しかなく、川瀬の状況に応じて、上船居、中船居、下船居の3箇所の渡し場を使い分けていた。橋がかかったのは1924(大正13)年になってからであり、現在かかっている重厚な鉄橋がそのときにかかった橋と思われる。少し上流を東名高速道路の橋がかかり、その橋を渡ったところには富士川サービスエリアがある。さらに上流には第二東名高速道路とおぼしき橋を建設しているのが見える。

岩渕一里塚
岩渕一里塚

 富士川を渡ると庵原郡富士川町に入る。渡し場の周辺は岩渕という間の宿で、富士川に沿って山梨県の身延山に至る街道もこの岩渕へとやってきていたという。そのなごりかどうかは知らないが、山梨交通のバスもこのあたりでは見かける。東海道は渡し場から急な坂道を登って河岸段丘の上に上がるが、これは富士川の洪水に巻き込まれないための知恵と思われる。お祭りをやっているらしく浴衣姿の人を多く見かけ、道路は大混雑している。今日はやたらにあちこちでお祭りを見かけるなと思ったら、もうお盆であったことにようやく気づく。神社への入り口を過ぎて少し静かになったころ突然道路が右に曲がる。その曲がり角のところに37番目の岩渕一里塚。きちんと塚の形が残っており、向かって右側の塚には榎の大木が植わっている。左の榎はやや小ぶりなものだが、これは1967(昭和42)年にもとの榎が虫害で枯死してしまったため、1970(昭和45)年に新たに植えたものという。この一里塚のある地がかつての岩渕村と中之郷村の境にあたり、名産の栗ノ粉餅を売る茶店が並んでいたそうだが、いまはただ住宅が並ぶばかりの場所である。角を折れると富士川町役場がある。いましばらく歩いたところで東海道から外れJR富士川駅に向かう。今回は出発時刻が遅かったため、いつもの半分の10km程度しか歩いていない。東海道線を1駅戻って富士駅前で宿泊。路銀をごまの灰に盗られたため、このあたりではほとんど飲まず食わずで歩いていた弥次・北には申し訳ないが、この晩は桜えびのかき揚げや生しらすなど駿河湾の名産品に舌鼓を打った。

(「ヤオハンが入っていたらしい空きビル」・・・2003年3月、このビルの解体中にコンクリートの一部が道路に落下し、6人が死傷するという痛ましい事故が発生している。)

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