YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

箱根関所

● 武蔵国~相模国・2

品川宿~保土ヶ谷宿

 さてはじめのうちは先を急ぎたいもので2回目は5日後の1999年9月23日秋分の日である。時刻は11時を回ったころ。前回の終点・大井町駅から旧東海道へと戻る。その途中の海晏寺には松平春嶽などの墓がある。彼岸のお中日ゆえに墓場は供花で埋め尽くされている。暑さ寒さも彼岸までというが、今日の日和は秋晴れと言うよりは残暑と言うにふさわしい。

 「鮫洲商店街」のアーチをくぐり、旧東海道に入る。鮫洲と言えば東京の人には運転免許試験場のある場所としておなじみだが、「東海道中膝栗毛」では、弥次さんの「海辺をば、など『しな川』といふやらん」という問いかけに対して、北さんが「されば『さみづ』のあるにまかせて」と下の句をつなげている。「真水(さみず)」と「鮫洲」をかけたわけだが、前回の東海寺の問答河岸に引き続き、なぜか品川は駄洒落の宝庫である。

鈴が森処刑場。左が磔台、右が火炙台
鈴が森処刑場。左が磔台、右が火炙台

 前回同様に住宅街の中の商店街をてくてくと歩いて行くと、立会川に架かる浜川橋。別名を「涙橋」。江戸の昔、大罪人とされた人々が家族や縁者と涙の別れをしたためにこの別名がある。彼らが引かれていったのはこの先にある鈴が森の処刑場。今はねずみ色ともみどり色ともつかぬ濁った水が流れる立会川だが、かつては浜川橋の名の通り浜辺にあって澄んだ水を魚が泳いでいたことであろう。単調に押し寄せる波の音、カモメの鳴き声、海に浮かぶ白い帆船。こんな穏やかな風景の中で別れを済ませるとそのわずか600mほど先で彼らを待ち受けているのは地獄絵図。鈴が森での処刑方法には火あぶりと磔の二通りがあるが、特に火あぶりは残酷にも顔を海のほうに向けて行われる。これがなぜ残酷かというと、火事で死ぬときには煙でまかれて窒息死するのがふつうであるが、海から風が吹いて煙を飛ばすために、ここで処刑された人々は火炎に焼き尽くされるまで死ぬことができないのである。…という話を僕は以前に、この処刑場の跡地にある大経寺というお寺で聞いた。大経寺の前には四角い穴のあいた石と丸い穴のあいた石がおかれており、前者には角材を立てて丸橋忠弥などを磔に処し、後者には鉄柱を立てて八百屋お七などを火あぶりにしたという。なるほど磔には角柱を使わなければ柱が回ってしまうし、火あぶりには鉄柱を使わなければ柱が燃えてしまう。なお、処刑場として名高いのはここのほかに荒川区の小塚原があるが、東海道に面した鈴が森に対し小塚原のほうは日光街道に面している。見せしめの意味がこめられているのはどちらも同じである。

 旧道は鈴が森で終わり、ここからは再び幅の広い第一京浜国道を歩くことになる。左へ曲がるとしながわ水族館に行ける。同じく左側に平和島競艇場のスタンドが見える。大井競馬場も近い。すべてもとは海だったところを埋め立てて造られた施設である。大田区に入る。やがて第一京浜は少し右へそれ、東海道はまっすぐに美原通りという細い旧道に突っ込んで行く。江戸時代の東海道がどのくらいの幅の道だったのか手元に資料がないが、品川宿の辺りもこの美原通りも目測で5間、約10m弱といったところだろうか。内川という川を渡る。潮が満ちているらしく、海から陸へと逆流している。内川を渡ったところで「するが屋道」という羽田のほうに向かう道が分岐する。分岐点にかつて駿河屋という旅篭があったことに由来する名だそうだ。

梅屋敷
梅屋敷

 産業道路との交差点で再び第一京浜に合流する。その先で第一京浜は少しばかり狭くなるが(といっても片側2車線はあるのだが)、道幅を広げるつもりらしく右側は背の低い建物と空き地が入り混じっている。大森から蒲田に入り、梅屋敷公園という公園がある。「和中散」という胃腸薬を売る店が、梅の木をたくさん植え、旅人に休憩所を提供するとともに薬も買ってもらおうという魂胆で開いたものとされる。この蒲田梅屋敷はかつて亀戸の梅屋敷と並んで江戸郊外の名所のひとつであり、明治天皇もここが気に入っていたというが、いまではおそらく面積も小さくなったのであろう、あまり風情の感じられるところではない。梅の木はなるほどたくさん植わっていて、梅の季節に訪れればまた違うのかもしれないが。

京急蒲田駅前を流れる呑川を渡り、京急空港線の踏切も渡る。空港線は、昨年だったかに羽田空港の直下まで乗り入れて便利になり、今はこの踏切を立体交差にする工事も進められている。以下、太陽の光を真正面から浴びながらずっと第一京浜を歩いていく。何もない道をまっすぐに2kmほど歩いて、いい加減いやになったころ六郷大橋に着く。この橋で多摩川を渡れば第2宿の川崎宿である。江戸時代の半ば以降は多摩川には橋はなく、東海道の旅人は渡し舟で川を渡っていた。その渡し賃が川崎宿を潤し、今の百万都市・川崎の礎を築いたという。広重の「川崎 六郷渡舟」も渡し舟の上で旅人が煙管など吸っている絵になっている。橋を渡り終えるころに「神奈川県 川崎市」の看板があり、東京都から神奈川県に入ったことを示している。13時を過ぎ、お昼どきになった。「東海道中膝栗毛」でも弥次北が昼食をとったのは川崎宿。ここでふたりは川崎名物・万年屋の奈良茶飯を食べているが、今の川崎には奈良茶飯を食べさせるような店はない。それどころか奈良茶飯がどんなものだったのかいまいちよくわかっていないようである(大豆や小豆の入った茶飯という)。せめて万年屋の跡だけでも探そうと思ったが、どうも見当たらない。見当たらないはずで、万年屋の跡地はいまは第一京浜国道の橋の下である。

川崎 六郷渡舟
「川崎 六郷渡舟」
多摩川を渡る六郷大橋
多摩川を渡る六郷大橋

 東海道は第一京浜から右へ折れて2車線ほどの道路に入る。問屋場の跡などと表示された看板を眺めながら川崎の中心街を歩く。かつては旅篭62軒のほか八百屋、下駄屋、駕篭屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋、と合計368軒の建物が立並び、東海道でも有数のにぎやかな宿場であったと言う。腹は減らないが少々くたびれたので休憩しようかと思う。しかし、しばらく歩いて行くと宿はずれにあった土居の跡、という表示板があり、気づけば川崎宿は通りすぎてしまった。ここから先は八丁畷という八丁(約800m)続く一本道であったと書かれている。江戸時代は田んぼの中をまっすぐ進む道だったのだろうが、いまはまっすぐ進むと京浜急行の八丁畷の駅に突き当たるのでその手前の踏切を渡る。踏切の直前に芭蕉の句碑があり「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」と刻まれている。1694年の5月、故郷の伊賀へ帰る芭蕉を弟子たちがここまで見送ったという。芭蕉はこの句を詠んだその年の10月に大坂で亡くなったので、これが江戸の弟子たちとの最期の別れとなってしまった。その句碑の脇を京浜急行の快速特急が時速120kmで通過して行く。

生麦事件之跡
生麦事件之跡

八丁畷を過ぎるといつのまにか横浜市に入り、市場というところに一里塚の跡の立て看板とお稲荷さんがある。日本橋から5里目の一里塚というが、1番目から4番目には何の表示も出ていなかった。やがて真新しい鶴見川橋を渡りしばらく行くと鶴見駅。川崎で休み損ねたので、ここのベローチェに入る。ケーキとコーヒーで疲れを癒す。「膝栗毛」などでも旅の途中、何度も茶店に入ったり餅を食ったりしているが、徒歩旅には確かに甘いものが効く。少し元気になって再び歩き出す。駅前を過ぎるとまた静かな旧道が続いている。旧道が第一京浜国道と交差するところにJR鶴見線の国道駅。うす暗い無人駅の高架下が寂びた商店街になっていて釣り船の店や赤提灯などが入っている。「国道下」という名前の赤提灯がある。駅名もそのまんまだが、店の名前もまたそのまんまである。しかし国道下ではなく国道「駅」下というのが正確であるような気もする。だらだらと歩いて行くとそのうちなんとなくビールのにおいが漂ってくる。においのもとは左側にあるキリンビールの工場。ここは以前に見学したことがあるが、見学するとビールの試飲もさせてくれる。工場の先で第一京浜に合流し、その合流地点に生麦事件の碑。幕末の1862年、島津久光の行列を横切ったとして3人のイギリス人が殺傷され(1人の女性だけは無事だったらしい)、その後の薩英戦争のきっかけをつくった事件である。この事件後、幕府は外国人警備のため、神奈川から川崎に至る19箇所に関門を設けたといい、ここまでの間にも川崎の土居のところと、鶴見川橋を渡ったところに関門跡の表示板が立っていた。

 生麦からは、かなり長いこと第一京浜を歩く。片側3車線ほどの国道沿いはなんとも殺伐とした感じだが、道路右側は緑の多い台地になっており、浅野財閥の浅野総一郎がつくった浅野学園などがある。左側は首都高速や工場などがあるが、もとは海だったところであり、江戸時代にはなかなかの景勝地であったらしい。江戸の人々をうらやみながら長い道のりをうらみつつ歩いていくと第3宿の神奈川宿。神奈川県の名前のもととなった宿場である。宿場には入ったもののあいかわらずの第一京浜国道が続き、あまつさえ上には首都高速道路がおおいかぶさっている。滝の橋という橋のところに本陣があったらしい。浦島太郎に由来の浦島寺というのも近くにあるようである。まったく宿場町らしさの感じられない場所だが、滝の橋の少し先で東海道は国道から右の細い道に入り、ようやく少し宿場らしくなる。国道15号(第一京浜)とはこれでお別れで、再び国道に戻ったときには国道1号になっている。

本覚寺
本覚寺

 京浜急行線とJR線を陸橋で越えると正面の丘の上に本覚寺。幕末の開国後にはアメリカ領事館となっていた寺である。神奈川の宿場町と江戸湾・横浜港を見渡すこの場所を選んだのはハリスだと言うが、いまは海は見えず、代わりにみなとみらい地区のランドマークタワーが見える。神奈川宿にある寺院の多くは欧米諸国の領事館に充てられたが、中には良泉寺のようにわざと屋根をとりはずし、修理中だからと言って拒んだところもあったという。本覚寺の山門は江戸時代から残っているものだそうだが、アメリカ領事館となっていたころには白ペンキで塗られていたと言い、ペンキがどこかに残っていないか目を凝らしてみたが、どうやったのかきれいに落とされて跡は見当たらなかった。

 また国道を外れて細い旧道に入る。東急東横線の鉄橋をくぐり、上り坂になる。右側に一里塚跡。左側に田中屋という料亭。このあたりの風景が広重の「神奈川 台之景」のもととなっているようで、この田中屋も絵の中に出てくる(当時は「さくらや」と言った)。いちばん違うのは左側のマンションなどの建っているあたりが、絵では見渡す限りの海になっていることである。いまの横浜駅の辺りも関内の辺りももともとは海だったところを埋め立ててつくった町である。幕末の日米修好通商条約(神奈川条約)では開港地は神奈川と定められていたのを幕府が勝手に寒村の横浜を開港地にしたところから今の横浜の発展は始まっている。ハリスは横浜ではなく神奈川だったはずだと怒ったが、幕府は横浜も神奈川のうちである、といかにも日本的な対応でごまかしたという。しかし今では逆に神奈川のほうが横浜に呑み込まれてしまっている。

神奈川 台之景
「神奈川 台之景」
神奈川宿付近。右に田中屋
神奈川宿付近。右に田中屋

 さて、今日の目標は神奈川宿であったのでそろそろ帰ろうかと思う。しかし、国道を歩いているときには帰りたいと思ったが、細い旧道になったら、もう少し歩こうかという気分になってきた。時刻は16時で、日が落ちるのにはまだ間がある。いくぶん迷ったが、次の保土ヶ谷宿まで歩くことにした。今までは宿場の間が2里(8km)以上離れていたが、神奈川と保土ヶ谷の間は1里9丁(5km)で少し短い。坂を下り、首都高速をくぐって、軽井沢という名前の住宅地を歩いていく。浅間神社という江戸時代には有名だった神社があるはずだが、いっこうに見当たらない。それもそのはずで途中からまったく違う道に入っていたのである。このあたりは丘と谷の入り混じった起伏の多い地形になっており、谷筋が枝分かれするところで違う谷に入りこんでしまっていた。1km近くも後戻りして正しい道に入るとすぐ右の高台に浅間神社はあった。この神社には富士山まで続いていると言われる「富士の人穴」と呼ばれる洞窟があるが、これは実際は横穴式の古墳の穴だそうである。

 浅間神社から降りてきて、緩くカーブしながら続く、いかにも旧街道らしい道を歩いていくと、いつのまにか夕食の買い物でにぎわう商店街に突入している。帷子川にかかる帷子橋を渡ると相模鉄道天王町駅。帷子橋は広重の「保土ヶ谷 新町橋」に描かれている新町橋にあたるが、今の帷子橋は広重の絵にある小さな木橋とは似ても似つかぬコンクリートの素っ気無い橋で、そもそも今の帷子川は昭和30年代につけかえられているので場所も当時とは違っている。そうしたことを意識してか、当時、橋がかかっていた場所に近い天王町の駅前広場にも帷子橋を模した場所がある。広場の一部が木張りのようになっていて、木の欄干のようなものがつくられているのだが、それでもなお広重の絵にある橋とはまるで違うものである。

保土ヶ谷 新町橋
「保土ヶ谷 新町橋」
帷子橋(新町橋)。遠くにランドマークタワー
帷子橋(新町橋)
遠くにランドマークタワー

 東の空から月が昇ってきたので、この先、保土ヶ谷の宿場を歩くのは次回に回し、家路につく。今日は品川から20km以上も歩いてしまった。正面から日差しを浴びながら歩いたのが災いして、駅のトイレで鏡を見たら、顔中真っ赤に日焼けしていた。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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