YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

箱根関所

● 武蔵国~相模国・5

大磯宿~箱根湯元

 前回までの4回で関東平野のはずれまで歩いてきてしまった。出発点が遠くなるとそれだけ早起きしなくてはならない。立て続けに歩いてしまったので文章を書くほうがなかなか追いつかない。1999年のうちに箱根を越えたいと思っていたのだが、そんなこんなで出かけるのを渋っているうちになんと1年半近くもの時が経過してしまった。その間に職場の異動が1回あり部署が変わった。それどころか世紀まで変わってしまい、5回目を歩く決心がついたのはなんと21世紀に入って2001年の3月10日土曜日である。このあまりの気まぐれさには自分でも呆れるばかりである。

鴫立庵
鴫立庵

 今日は、三寒四温といわれるこの季節の気候としては「寒」のほうに分類される日だと思うが、その方が花粉が飛ばないのでありがたい。天気は上々。10時40分ごろ大磯駅から歩き始め、やがて前回は中に入れなかった鴫立庵の前に着く。100円払って入場し、西行の歌碑、芭蕉の句碑を初めとする多数の句碑・歌碑を見て回る。西行の坐像のある円位堂、曽我の仇討ゆかりの虎御前の像のある法虎堂、湘南の地名のもととなったという「著盡湘南 清絶地」の句の刻まれた鴫立庵の碑などがあったはずだが、あまりよく見ずに通りすぎてしまった。さして広くない場所に碑や堂のたぐいがひしめいているのがよくないと言い訳する。町役場の先あたりからまた松並木が始まる。立派な松に見とれていて島崎藤村の旧家は見過ごしてしまった。大磯は宿場としての役割を終えた明治時代には海水浴場、別荘地、邸宅地として脚光を浴びるようになっており、新島襄なども病気療養のためやってきて大磯で没している。また政府の要人が多く邸宅を構えており、初代総理大臣の伊藤博文も大磯に別荘「滄浪閣」を構え、のちには大磯町民になっているという。バス停に「統監道」という名前が残っていたが、これも伊藤博文が韓国統監を務めていたことに由来するものと思われる。滄浪閣の建物は現在も残っているが、比較的シンプルな洋館で、明治末の建物にしてはそれほどの風格が感じられない。洋館なのに中華料理店として使われているのもミスマッチである。

吉田茂像と相模湾
吉田茂像と相模湾

 松並木が終わると正面に箱根が見え、沿道にも昔の農家風の家が多くなり、なんとなく旅に出ているという気分になる。血洗川というおどろおどろしい名の川(「皿洗川」ならそんなことはないのだが…。)を渡ると旧東海道は右へ折れて国道から外れるのだが、まっすぐ国道を進むと左側に広大な邸宅がある。海側へ回りこむとその邸宅のかつての持ち主の巨大な像がある。吉田茂こそその人である。伊藤博文と吉田茂。明治時代の内閣制度の草創期と、新憲法以降の戦後政治の草創期の内閣総理大臣がともに大磯に住んでいたというのは興味深い。ワンマン宰相といわれた吉田茂は国道1号をパトカー先導でぶっ飛ばして東京とこの自邸との間を行き来したという。なお、現在、この邸宅は伊藤博文の滄浪閣ともども大磯プリンスホテルの所有となっているようである。

 東海道に戻ると右側は県立大磯城山公園。こちらは三井総本家の別荘「城山荘」の跡だそうだ。城山荘の建物は今は残っていないが、城山荘を模した大磯町郷土資料館が公園内に建っている。大磯町ゆかりの人々ということで松本順、伊藤博文、島崎藤村、吉田茂といった人々の写真が並ぶ。松本順という人は徳川家茂や徳川慶喜の侍医を務め、明治時代には陸軍軍医総監となった人だそうだ。彼が病気治療や健康増進のために海水浴を勧め(病気の人が海水浴をしてもよいものだろうか…。)、そして大磯を海水浴場として推薦したことにより、鉄道の開通で宿場町としての活気を失いつつあった大磯はリゾート地として復活することとなった。そのため、松本順は大磯の恩人とされているのである。しかし、明治24年に描かれた「大磯海水浴浜辺景」という絵を引き伸ばしたパネルが資料館にかかっていたが、その様子を見ると裸にほっかむりで泳いでいる人がいたり、洋服を着て泳いでいる人がいたり、なんだか酔っ払いが海辺でたわむれているような感じである。そのほか大磯にあった相模国府関連の展示や、特別展の雛人形の展示などを見て資料館を出る。

袖ヶ浦
袖ヶ浦

 しばらく旧道を進むと、やがて国道と旧道が松並木を挟んで並行する。国道に戻っても小さな道祖神が道端に鎮座していたり、古い家があったりと旧街道らしさがところどころに残る。かと思うと反対側には広大な駐車場のある新しいコンビニが建っていたりする。中郡二宮町に入る。海そのものは見えないが海が近いのは海岸の松が見えるのでわかる。魚屋が目に付くようになったような気もする。そういえば2時間近く歩いて腹が減ってきた。昼食はもう少し先で、と思っていたが、魚屋を兼ねた定食屋を見つけたので思わず中に入る。少し奮発して1,200円の地ぶり刺身定食を注文する。ほのかな甘みさえ感じられるぶり刺を平らげ、デザートのミカンまで食べ終わって満腹になる。ミカンもどうも地のものらしい。昼間から御馳走になってしまった。定食屋を出てから、オトタチバナヒメの袖が流れ着いたという袖ヶ浦に寄り道する。ヤマトタケルノミコトの后であるオトタチバナヒメは、ヤマトタケルの東方遠征中、浦賀水道を渡っているときに荒れた海をおさめるために入水したと伝えられる。近くに吾妻神社という神社があるのも、オトタチバナヒメにちなむものかもしれない。

右が押切坂。左は国道の切通し
右が押切坂。左は国道の切通し

 旧道に入り、また国道に戻り、再び国道が旧道と分かれるところに「江戸より十八里」と書かれた新しい石碑が立っている。一里塚ももう18番目になってしまった。この先、国道の方は切通しを緩やかに下っていくが、旧道はしばらくまっすぐ進み、押切坂という急坂を一気に駆け下りる格好になる。坂を下り、中村川の橋を渡ると小田原市に入り、二宮町にちょっと戻ってから、また小田原市に入る。江戸時代にも押切坂からは小田原藩の領地だったというから、当時の藩の境界と現代の行政界がほぼ一致していることになる。坂を下りてしまったので、また坂を上がらなくてはならない。坂を上り切ると視界いっぱいに相模湾と伊豆半島が広がった。東海道から外れて海を見にいったことはあるが、東海道を歩いていて海が見えたのは初めてである。江戸時代であれば、日本橋を出てほんの2~3kmも歩けば海が見えたはずなのに、現代では日本橋から70km以上も歩かなければ海が見えないというのはどうしたことか。

 さて、坂を上ったと思ったらまた下り坂になる。この坂を車坂といい、このあたりを前川の里といったらしい。太田道灌が詠んだといわれる「鳴神の声もしきりに車坂とどろかしふるゆふ立の空」、源実朝の詠んだ「浜辺なる前川瀬を逝く水の早くも今日も暮れにけるかも」、阿仏尼の「浦路行くこころぼそさを浪間より出でて知らする有明の月」。この3首の歌を記した看板が立っている。3首並べてみると、なんとなくこのあたり、難所だったのかな、という感じがする。丘陵地が海に向かってせり出しており、海と丘の間の狭いところを道が通っているせいかもしれない。「従是大山道」と書かれた不動明王の像がある。上り坂の下に道祖神あり。上り下りの繰り返しで海からの風も吹き付けてきて足取りも重くなる。このあたりで弥次・北は

春の日の長欠(あく)びに、頤(あご)の掛金もはづるゝ斗(ばか)り、目をすりながら、
北「アヽ退屈した。ナント弥次さん、道々謎を懸よふ。おめへ解か」
弥「よかろふ。かけやれ」」

と呑気になぞなぞなんかかけあっている。

建物の向こうに見える樹木に覆われた崖が神縄断層
建物の向こうに見える
樹木に覆われた崖が神縄断層

 国府津の駅前を過ぎて、再び下り坂になる。東海道の坂道は緩やかだが、右側の丘は急な崖でばっさりと切られ、ここから平野が始まる。この丘と平野の境目を神縄断層といい、なんとここは伊豆半島が本州東北部にぶつかって、その下に潜り込んでいく場所にあたっているのである。プレートテクトニクス的に言うと、フィリピン海プレートと北米プレートの境界線だ。そんな場所であるから、このあたり地震の多発地帯であるという。関東大震災の震源地もこの断層の続きにあたる相模湾北部の相模トラフ(トラフとは溝のような海底地形を指す。)と言われる。断層に沿って流れる森戸川を渡り、また少し上ると一里塚というバス停がある。小八幡の一里塚という19番目の一里塚があったらしい。塚はなくなってしまったようだが、松並木がところどころに残り、旧東海道の面影はある。西日が照りつけるので、松並木のありがたさを感ずる。海が近いので風が強い。ハードコンタクトのユーザーには厳しい環境になってきた。目にごみが入り、日光も目を射抜く。涙をぼろぼろ流しながら、薄目を開けてひたすら歩く。分かる人にしか分からない辛さ。今日は眼鏡をかけてくるんだった、と後悔しつつ、日蓮が宿泊したという法船寺の前を通りすぎてようやく酒匂川のたもとにたどり着く。

小田原 酒匂川
「小田原 酒匂川」
酒匂橋。箱根遠望
酒匂橋。箱根遠望

 広重の「小田原 酒匂川」の絵を見ると、酒匂川には橋がなく、旅人は歩いたり、蓮台に乗ったりして渡っている。弥次・北も川越人足の助けを借りて(たぶん肩車だろう。)この川を渡り、「われわれはふたり川越ふたりにて酒匂のかはに〆てよふたり」などと詠んでいる。弥次・北の2人に川越人足が2人で合わせてよふたり(4人)。「酒」匂の川によふたり(酔ふたり)という洒落である。広重の絵には川の向こうに小田原の宿場町、小田原城と、険しい箱根の山が見えている。酒匂川は今は橋で渡れるが、やはり川向こうには、箱根の山が迫っている。橋のかかっている場所と、かつて渡し場があった場所が微妙に違うため、橋を渡りきってから念のため渡し場の跡へも行っておく。1818(文政元)年、小田原藩主が老中に着任するため江戸に向かう途中、この付近の河原で領内の働き者や親孝行者を表彰したとあり、その中にかの二宮金次郎もいたという。

新田義貞首塚
新田義貞首塚

 その河原で少々休憩してから先へ進む。近くに新田義貞の首塚がある。本には「分かりにくい場所なので要注意」とあるが、案内板が出ていて迷わずに済んだ。「建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延久3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、主君義貞の首級を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。(首塚入口の説明板より)」。公園の片隅にあるその首塚には小さな石塔が置かれているだけだが、新田義貞と宇都宮泰藤、ともに目的を達することができずに命を落した主従の怨念がこもっていそうである。しかし新田氏の子孫を自称する徳川氏が後に天下をとり、徳川氏の家臣で、宇都宮泰藤の子孫である大久保氏がこの地の領主となるのであるから、これもまた何かの因縁というべきか。

 西湘バイパスの小田原インターチェンジを過ぎたあたりから道幅が広がり、小田原市の中心部に入ったことを感じさせる。小田原城江戸口見附跡の看板があり、かつての小田原城下町もこの付近から始まっていたようだ。新宿交差点を左折、さらにその先を右折して裏通りに入る。国道1号はまっすぐに進むが、旧東海道は城下町に入ると軍事上の観点から「かぎの手」に曲がっていた。「新宿町」「鍋町」「万町」「高梨町」「中宿町」「本町」「宮前町」「安斎町」「安斎小路」「欄干橋町」「山角町」といった旧町名と、その由来を書いた石柱があちらこちらに立っているのも城下町らしさを演出している。裏通りに入るとかまぼこ屋が多い。「イタリア料理&かまぼこパスタ」などという看板もある。干物を干している光景などを目にして、小田原は海沿いの町だったということに気づく。すぐ横丁を折れて、堤防の役目を兼ねているらしい西湘バイパスのコンクリートの築堤の下をくぐると海に出られるのである。小田原がこんなに海に近い町だったとは新幹線で行き来していたときには気づかなかった。

ういろうの店
ういろうの店

 小さな公園になった本陣の跡を過ぎると再び国道1号に戻る。大磯宿からこの小田原宿までは4里あり、さすがに疲れたので近くの喫茶店で休憩。チーズケーキとコーヒーで少し元気になってまた歩き出す。右側に小田原城、のような建物があるが、これはお城ではなく小田原名物「ういろう(外郎)」の店。本物の小田原城はその後ろにそびえている。ういろうとは名古屋名物のういろう(ういろう餅)のことではなく丸薬の名前である。このういろうは膝栗毛にも登場しており

弥二「これが名物のういろうだ」
北「ひとつ買てみよふ。味(うめ)へかの」
弥二「うめへだんか。頤がおちらあ」
北「ヲヤ餅かとおもつたら、くすりみせだな」
弥二「ハヽヽヽヽ、こうもあろふか。
ういろうを餅かとうまくだまされて こは薬じやと苦いかほする」

と、北さんも案の定、勘違いしている。この薬は、中国の元が滅びたとき礼部員外郎という職にあった陳宗敬という人物が亡命先の博多で広めたことから「ういろう(外郎)」の名があり、陳宗敬の子孫が北条氏綱に献上したことから小田原名物となったものだそうである。名古屋のういろうも、薬のういろうに似ていることからういろうの名がついたらしいが、何がどう似ているのかはよくわからない。

石垣山
石垣山

 ういろうの向かい側に「メガネスーパー」の本社がある。付近に人車鉄道小田原駅跡の石柱が立つ。かつて小田原と熱海方面を結ぶ「豆相人車鉄道」という、人間が列車をひく鉄道があり、その起点がここにあったらしい。この人車鉄道が開業したのは明治29年のことで、明治41年には軽便鉄道にかわり、国鉄熱海線の開業により廃止になったという。その熱海線(現在の東海道本線)のガードをくぐったところで小田原の宿場町・城下町は終わりになる。ちなみに弥次・北は戸塚に次ぐ2泊目を小田原で泊まっており、五右衛門風呂の入り方が分からずに便所の下駄をはいて風呂に入り、風呂の底を踏み抜くという有名なエピソードを残している。ガードをくぐった左側には小田原城主(前期)大久保氏の廟所がある大久寺があり、右側からは旧道が分かれている。「忘れずに大窪シールとツーロック」。たぶん地元に人には分かるのであろう意味不明の標語を書いた立て看板がある。新幹線をくぐってしばらく落ち着いた雰囲気の旧道を進み、板橋地蔵尊の先でまた国道に戻る。国道は渋滞している。風が強く歩きにくい。左側の山の上を「箱根ターンパイク」が通っている。この道路は国や地方自治体のつくる道路法上の道路ではなく、「道路運送法」により民間企業の東急電鉄が建設した有料道路で、東急の当初の構想では、東京から江ノ島までの東急ターンパイク、藤沢から小田原までの湘南ターンパイク、そしてこの箱根ターンパイクをつなげて、東京から箱根に至る自動車道路を整備する計画だったという。箱根ターンパイクが通っている山は石垣山といい、小田原攻めの際に豊臣秀吉が一夜のうちに城を築いたことで知られる山である。

逃げる猿
逃げる猿

 小田原厚木道路をくぐって右へ折れ、箱根登山鉄道の踏切を渡って旧道に入る。国道が渋滞しているせいか旧道も交通量が多い。左側、みかん畑になっている。誰かがそこでみかんを食べている。………えっ!? その誰かと見つめ合ったまま固まってしまったのは、30秒間くらいだっただろうか。それが野生のニホンザルだと気がついてカメラを取出そうとしたときには、相手はあっという間に逃げ去ってしまった。道の右側は山になっており、そちらから人里へとやってくるのだろう。予想しなかったできごとに思わず呆然としてしまったが、ここから先は山道になるということが実感できて嬉しくもある。右側、小田原藩主稲葉家の墓所がある紹太寺の前を通過すると足柄下郡箱根町に入り、町が設置した「駒ノ爪橋跡」の看板がある。源頼朝がこの地に来たときに馬が暴れ、その爪の跡が橋についてしまった故事にちなみ駒ノ爪橋の名がついたそうだ。前に頼朝が相模川の橋の落成式のときに落馬した話を紹介したが、頼朝は乗馬が下手だったのか、それとも頼朝の馬は橋が苦手だったのか。そのすぐ先には「日本初の有料道路」の看板があり「明治8年(1875)9月、小田原の板橋から湯元まで全長4.1km幅員平均5メートルの我が国初の有料道路が開通しました。江戸時代の東海道を拡げ、2か所の急坂を人力車が通れる勾配の緩い道に付け替えました。碑が建っている道は、その時に付け替えた道です。開通した日から5年間、道銭(通行料)を取りました。人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘でした。」とある。江戸時代にも料金をとった橋などは存在したので、日本初の有料道路という表現は若干おおげさのような気もするが、明治初期の有料道路の事例としては興味を引く。

 国道に戻ると、こちらは現代の有料道路である「箱根新道」の山崎インターチェンジがある。その分かれ道に「←国土交通省横浜国道工事事務所小田原出張所/神奈川県小田原土木事務所→」という看板があり、ここからは国道1号といえども国土交通省の直轄管理ではなくなる。早川が近づいてきて川べりを歩いていくと三枚橋に出る。付近には「箱根路の碑」もあり、この橋を渡ると本格的に箱根路に入っていくことになるが、もう日も暮れ始めてきたので三枚橋からは次回に回そう。三枚橋からすぐの箱根湯本駅前の露天風呂で疲れを癒し、蕎麦を食べてから帰途に着く。蕎麦屋には「箱根八里の半次郎」の氷川きよしの色紙がかかっていた。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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