YAGOPIN雑録 東海道徒歩の旅 大阪ビジネスパーク
 
 ● 伏見・大坂街道・1
髭茶屋追分〜伏見宿
 
髭茶屋追分

 「柳緑花紅 みぎハ京ミち ひたりハふしミみち」。2003年8月10日、僕は京阪追分駅に近い、髭茶屋追分の道標の前に立っていた。つい1ヶ月半ほど前、僕はここを右に進み、京都三条大橋にたどり着いて、江戸日本橋から始まった東海道五十三次の旅を終結させた。

 が、実は東海道は五十三次では終わらず、さらに伏見・淀・枚方・守口の4宿を加え、大坂高麗橋に至る五十七次であるというのが近年の定説である。1758(宝暦8)年に江戸伝馬役の馬込勘解由が道中奉行所御勘定・谷金十郎に尋ねた結果を「東海道 品川より守口迄(中略)右五口五海道と申、道中御奉行御支配に御座候」と記していること(御伝馬方旧記)、1789(寛政元)年、土佐藩の質問に対して、幕府大目付勘定奉行が、「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、枚方、守口迄外はこれ無き」と文書で返答していること(民間省要)、「五駅便覧」という道中奉行所が使用した資料に東海道は「江戸より大坂迄、馬継五十六ケ宿、外人足役一ケ宿[最後の守口宿では馬継をしなかったため。]道法合百三十七里四町一間、船路共。江戸より京都迄、馬継五十三ケ宿、道法合百二十六里六町一間」と記載されていること、などがその根拠とされている。東海道は五十三次であるという固定観念は、おそらく歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」から生まれているのではなかろうか。

 54番目の伏見宿へは京都からも街道が通じているが、大坂に向かう東海道の正規のルートは、大津宿と京都の間にある髭茶屋追分(山科追分)から京都を迂回して直接伏見・大坂に向かうものであり、これには西国大名が参勤交代の際に京都に立ち寄って皇室や公家と接近することを避ける目的があったと言われている。つまり東海道には、髭茶屋追分を分岐点に江戸〜京都と江戸〜大坂の2つのルートがあったことになる。「ひたりハふしミみち」と道標にもあるように、大津宿から伏見宿に向かう東海道は「伏見街道」とも呼ばれている。さらに伏見宿から大坂までは「大坂街道」の別名も持つ。前にも書いたとおり、街道の名前の大部分は目的地の名前を取ったものであるから、逆に大坂から伏見(を経て京都)に向かう場合は「京街道」の名が用いられ、伏見から大津へは「大津街道」とも呼ばれる。

 髭茶屋追分から大坂高麗橋までの距離はおよそ55km。12時過ぎ、追分近くのお地蔵さんに道中の安全を祈って歩き始めた。この追分が滋賀県大津市と京都府京都市の境界線になっている。立秋を過ぎたとは言え、残暑は厳しく、道が緩やかな下り坂になっているのがせめてもの救いである。自転車の一団が苦しげに坂を上ってくる。民家の軒先では犬が地面に腹這いになり、とろんとした目でこちらを見上げている。名神高速道路京都東ICのランプの下をくぐる。この京都東ICは本来「大津IC」となる予定だったのだが、大津市側にランプを設けると交通の流れに無理が生ずるため、やむなく京都市側にランプを造ることになり名称も京都東ICに変わったのだそうである。その代わり大津市内に計画されていたSAに出入り口を併設して新たに大津ICを設置することになった。この区間は日本で最初に造られた高速道路であるだけにいろいろと試行錯誤があったのだろう。

随心院 地下道で国道1号をくぐり、旧道を進む。山科音羽川を渡る。京都市内というのにこのあたりには田んぼがあったり、野菜の無人直売所があったりして、少しばかりひなびた風情がある。しかしそれもつかの間、再び国道1号をくぐり、新幹線のガードをくぐると信号待ちの車が狭い旧道にずらりと並んでおり、道端に立っていた大きな石碑の文字を確認することすらできなかった。先を急ぎ、名神高速道路をくぐる手前に日本橋起点119里目にあたるはずの大宅一里塚が片方だけ残っている。しばらく行って右に折れ、そのまままっすぐ進むと奈良街道、途中を再び右に折れて地下鉄小野駅の方に降りていくのが東海道のはずである。曲がらずに少しだけ奈良街道を歩いたところに隨心院というお寺がある。弘法大師8代目の弟子・仁海僧正開基のお寺で、本堂は桃山期の建築、杉苔の広がる庭の緑が美しい。書院の縁側に腰掛けてしばし休憩する。蝉時雨の中に時折、ぽちゃりと池の鯉の跳ねる音がする。

 このあたりの地名・小野は、古代の名族・小野氏に由来するという。小野氏は遣隋使として中国に渡った小野妹子につながる家系で、「あをによし奈良の都は咲く花の〜」の歌で知られる小野老、藤原佐理・藤原行成と並ぶ書の三蹟の一人である小野道風、この世とあの世を行き来し、天皇と閻魔大王の2人に仕えたと伝えられる小野篁など、有名だけれどどんなことをした人なのかいまひとつよく分からない人物が多く連なっている。その中でもとりわけ謎めいているのが小野小町であろう。古今和歌集・小倉百人一首所載の和歌「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」の作者であり、クレオパトラ・楊貴妃と並ぶ「世界三大美女」のひとりに数えられている小野小町だが、どこでいつ生まれ死んだかも分かっておらず、その事蹟も伝説の域を出ない。多数伝わる彼女の歌も古今集所載以外のものは本当に小町の作かどうか怪しいと言われる。『古今和歌集目録』に「出羽国郡司女」とあるため、小野篁の息子で出羽郡司を務めた小野良実の娘が小町とされているが、この説についても疑問視されているようだ。

小町化粧井戸 隨心院のある場所は、その小町が晩年を過ごした場所とされ、老婆になった小町像や小町宛の恋文などを張って作ったといわれる地蔵尊などが保存されている。境内には小野小町が化粧に用いたといわれる井戸が残っているが、先日の台風で倒れた竹が折り重なり、笹や木の葉が多数浮かんでいた。隨心院を出て東海道に戻る。外環状道路を渡り、山科川を渡ると今度は勧修寺という名刹がある。醍醐天皇が亡母を弔うために創建したと伝えられ、境内の大きな池では蓮の花が咲いている。時刻は14時。門前に「南 右大津 左京道 北 すくふしみ道」と書かれた文化年間の道標があり、正しい道筋を歩いていることを確認する。道標に沿って南に向かい、すぐ西に折れる。この道は豊臣秀吉が伏見の城下町を開いたときに勧修寺の土地を削って造ったそうだ。緩い坂を上っていくとやがて東海道は名神高速道路と並行する。もともとこの名神高速道路が通っている場所には鉄道の東海道線が通っていたのだが、前回述べた東山トンネル、新逢坂山トンネルの建設によって東海道線のルートが変更になったため廃線になったのである。しばらく高速道路に沿って歩き山科と伏見の間の低い峠を越える。道路は交通量の多い主要地方道となっており、周囲には観光農園、自動車の修理工場、産業廃棄物の中間処理場などがあるばかりで、特に見どころもなく、ひたすら暑い。1kmほど歩いて高速道路と離れ、旧道に戻る。小野小町が仕えたとも言われる仁明天皇の陵墓が近くにあるので参拝していく。このあたりは深草という地名であるため、仁明天皇はまたの名を深草帝ともいう。近くには深草北陵という陵墓もあって、こちらには後深草天皇を初めとする12人の天皇が葬られている。

 土蔵や商家風の建物が並ぶ坂道を上り、クランク状の曲がり角を過ぎ、JR奈良線を越える。1997(平成9)年に開業した「JR藤森」駅前を右に折れる。「西武新宿」「近鉄奈良」など私鉄には駅名に会社名が冠される駅は多いが、たくさんあるJRの駅の中で「JR」が頭につく駅は今のところJR西日本の4駅しかない。この駅ができたのはおそらく近くの京都教育大学の通学客をあて込んでのことと思われる。京都教育大学の敷地は、かつて伏見に置かれていた陸軍第16師団の軍用地の一部を利用したものである。京都教育大学の隣には神功皇后が軍旗や武器を埋めた場所とされる藤森神社があり、境内に御旗塚と呼ばれる塚が残っている。その先で東海道は京都から来る伏見街道と合流して左に曲がる。このあたりからかつての伏見の城下町に入る。さらに右に曲がると京阪墨染駅。墨染の地名は、上野岑雄(かみつけのみねお)という人が、亡くなった太政大臣・藤原基経を悼んで詠んだ歌「深草の野べの桜し心あらば今年ばかりは墨染にさけ」に由来する。

琵琶湖疎水を利用した墨染発電所 墨染駅前には琵琶湖疎水が流れている。琵琶湖疎水は京都の蹴上発電所からさらに南下して伏見に至り宇治川に注いでいるが、ここ墨染でも高低差を利用して水力発電が行われており、かつては蹴上同様、舟運のためのインクラインも設置されていた。左に折れて京町通に入る。やがて右手に「撞木町廓入口」と書かれた門柱が立つ交差点がある。撞木町は、かつて大石内蔵助が吉良方の目をあざむくために遊興したことで有名な遊廓で、町が丁字型をしており、鐘をつく撞木の形に似ていることから、この名があるという。今は碑が立っているくらいで往時の遊廓の面影は見当たらない。国道24号を渡って右・左と曲がって新町通に入る。伏見の城下町を南北に貫く通りとしては、先ほどの京町通がまず造られ、その後、1本西側に両替町通が造られ、さらに1本西にこの新町通が造られている。まっすぐに長く並行して続く3本の通りにはかつて商家が建ち並んでいたのだろうが、今はどれも静かな住宅街になってしまっている。賑やかなアーケードつき商店街となっている大手筋通を横断し、次の角を西に曲がって大坂町通を進むと、すぐに道はクランク状に折れ曲がり、今度は油掛通に入る。この曲がり角は「四ツ辻の四ツ当たり」と言い、西から大坂町通を来ても東から油掛通を来ても、北からの道を来ても南からの道を来ても突き当たりを曲がらないといけない構造になっている。城下町としての防備を重視したためであるが、今は車がこの交差点でつかえてしまい交通上のボトルネックとなってしまっている。もっとも伏見の街中の通りはあまり広くないので、こうしたボトルネックがスピードの出し過ぎを抑える結果になっているのかもしれない。

 油掛通はかつての伏見でもっとも賑わった通りであり、日本で初めての電気鉄道も1895(明治28)年、京都駅に近い塩小路東洞院通と伏見町下油掛を結ぶ6.4kmの区間で運転されている(後の京都市電伏見線。1970(昭和45)年廃止)。16時20分、その「電気鉄道事業発祥の地」の碑の前で今回の東海道の旅はおしまいにすることにする。江戸時代には、ここからすぐ南の濠川にかかる京橋から三十石船に乗れば翌朝には大坂に着くことができた。

黄桜カッパカントリー 東海道の旅は中断したが、ようやく少し日が落ちて歩きやすくなってきたことでもあるし、まだ伏見の見どころは見足りないので、もう少しあちこち見て回ることにする。伏見は「伏水」とも書かれたほど地下水の豊富な土地で、その地下水を利用した酒造業の盛んな土地である。黄桜や月桂冠などの大手メーカーが酒造りを紹介する施設を造っているが、月桂冠大倉記念館は既に閉まっていたので、黄桜カッパカントリーを見学し、ついでに地ビールをいただいていく(この先歩くのに千鳥足になっても困るので日本酒はちょっと遠慮した。)。伏見で造られた酒はかつて濠川の舟運によって運ばれていたため、現在も濠川に沿って酒蔵が建ち並んでいる。また、南浜と呼ばれたこのあたりは荷揚げ浜でもあり、本陣・脇本陣などの並ぶ宿場町としての機能も有していた。

 北に折れて御香宮という神社に至る。862(貞観4)年に芳しい香りのする御香水が湧いたため「御香宮」の名を清和天皇から賜ったのだそうだ。今も御香水は湧いており、環境省選定の「名水百選」にも選ばれているのだが、水を汲みにきている人が行列しているので、飲むのは諦めてお参りだけしていく。この神社は、幕末の鳥羽伏見の戦いでは官軍の陣地になり、南側の伏見奉行所に立て篭もる幕府軍と対峙したという。御香宮前をまっすぐ歩きJRの踏切を越えると、玉砂利の道が鬱蒼と茂る森の中に入っていく。途中で左に曲がり木立ちの中の道をまっすぐ行くと桓武天皇陵がある。桓武天皇は平安京への遷都を行った天皇であり、もう少し平安京に近い場所に陵墓があってもよいように思うが、伏見桃山城もともと平安京の西に陵墓を造ろうとしたところ、祟りがあったため伏見方面に変更になったのだという。その桓武天皇陵のすぐ右手には丹塗りの柱、金色の装飾もきらびやかな五層の天守閣がそびえているのが見える。伏見桃山城である。

 伏見城は、豊臣秀吉が政務を執る拠点として築いた城であり、そして秀吉が亡くなった城でもある。しかし、伏見城は、大坂夏の陣後の1623(元和9)年に取り壊されてしまい、天守閣は京都二条城に、大手門は先ほどの御香宮に、といったように各地の城や寺社に移築されている(大手門は現存しているが、天守閣は既に焼失。)。この「伏見桃山城」は近鉄グループが「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地の施設として1963(昭和38)年に建設したものであり、内部には秀吉の金の茶室などが再現されていたそうだ。「そうだ」と書いたのは、この遊園地は今年(2003年)の1月31日をもって閉園しており、今は中に入れないからであるが、遊園地閉園後もこの天守閣だけは保存してほしいという地元の要望が大きく、京都市が無償で譲り受けることになっている。なお「桃山」は伏見城廃城後、跡地に桃が多く植えられたために名づけられた地名で、いわゆる「安土桃山時代」には桃山という地名はまだなかった。

伏見桃山陵 伏見城は、地震により倒壊するなどして2度移転している。最終的に本丸が置かれたのは、先ほどの桓武天皇陵・伏見桃山城から500mほど離れた丘の上であるが、ここは後に「伏見桃山陵」と呼ばれる明治天皇の陵墓となった。桓武天皇と明治天皇。平安京へ遷都した天皇と平安京から東京へと遷都した天皇の陵墓がすぐ近くにあるのはどのような因縁によるものか。他の天皇陵同様、伏見桃山陵の中には立ち入ることができないため、かつての伏見城四の丸跡にあたる遥拝所から、小山のように盛り上がった円墳を遠望する。高台に位置しているため、反対側からは宇治川の向こう、はるかに奈良方面を眺めることができる。少し下ったところには昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の伏見桃山東陵がある。

 かなり歩いてくたびれたので、18時30分、京阪桃山南口駅から帰宅する。宇治で花火大会があるらしく、駅には和服姿の人が大勢ごった返していた。

(「東海道五十三次」について・・・「東海道中膝栗毛」のせいで東海道は五十三次であるという固定観念が定着したと書いてあるホームページがいくつかあったが、弥次・北が東海道を歩いたのは43番目の四日市宿まででその先は伊勢街道に入ってしまうので、いくらなんでも「膝栗毛」のせいにするのは無理があろう。)

(今回歩いたルートについて・・・髭茶屋追分〜伏見宿についてははっきりとルートの分かる手ごろな資料が見つからなかったため、細部については正確なルートを歩いたかどうかちょっと自信がない。名神高速道路沿いの道は南側の主要地方道を歩いているが、古地図を見ると道路が旧東海道線の線路より北側を通っているので、旧東海道線=名神高速道路と考えると、北側の側道を歩くべきだったかもしれない。また、長州藩の参勤交代の道のりを描いた「中国行程記」によると伏見の市街地は新町通を通ることになっているようなので、それに従ったが、他の方のホームページを見ると京町通を通るのが正しいようにも思える。)

(天皇陵について・・・明治天皇陵はともかく、仁明天皇陵や桓武天皇陵は時代が古いため、宮内庁指定の陵墓が正しいかどうか決め手となる史料はないそうだ。)

 
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