YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

OBP

● 伏見・大坂街道・2

伏見宿~枚方宿

寺田屋
寺田屋

 2003年9月22日10時前、京阪中書島駅を降りて、かつて遊廓があったという中書島の町を通り抜け、まっすぐに寺田屋へとやってきた。寺田屋といえば、1862(文久2)年、急進派の薩摩藩士と島津久光の差し向けた鎮撫使が乱闘になった寺田屋事件や、1866(慶応2)年、幕府による坂本龍馬襲撃事件が発生した船宿として知られる。現在も当時の建物のまま旅館として営業しており、見学もできるが、あいにく今日は休業日だった。ここを訪れるのは前回も含めて3度目なのだが、毎回、休業日や見学時間終了後で未だに見学できていないのが残念である。しかたなく、そのまま歩を進め、京橋へと向かう。

東の都、神田の八丁堀辺にすむ、弥次郎兵衛北八といへる二人連のなまけもの、神風や伊勢参宮より足曳のやまと路をまはり、青丹よし奈良街道を経て、山城の宇治にかゝり、こゝより都におもむかんと急ぎけるほどに、やがて伏見の京ばしにいたりけるに、日も西にかたぶき、徃来の人足はやく、下り船の人を集むる船頭の声々やかましく、
「サアサア今出るふねじや。のらんせんか。大坂の八軒家舟じや。のていかんせんかい」
弥次「ハヽアこれがかの淀川の夜ぶねだな。ナントきた八、京からさきへ見物するつもりで来たが、いつそのこと、此舟にのつて大坂からさきへやらかそふか」
北八「それもよかろう」
濠川に架かる京橋
濠川に架かる京橋

 四日市の先、日永追分から伊勢神宮に向かった『東海道中膝栗毛』の主人公・弥次・北は、伊勢から奈良・宇治を経てここ伏見京橋へとやってきていたのだ。今は、柳の生い茂る濠川べりまで降りてみても、客を集める船頭の声は聞こえてはこないが、かつて京橋付近は大坂・八軒家(天満橋と天神橋の間の大川左岸を指す。)行きの「三十石船」の発着場所であった。「三十石船」の名は、5斗(0.5石)入りの俵60俵分の積載能力があるために名づけられたものだが、多くは貨物ではなく30人ほどの旅客を乗せて淀川を行き来していた。船は、長さ56尺(約17m)、幅8尺5寸(2.5m)。伏見から大坂までは半日または半夜で下り、大坂から伏見までは流れに逆らうため岸から綱で曳いて一日または一晩がかりで上っていた。運賃も享保のころで下りは72文(1文=30円換算で2,000円ほど)、上りは倍以上の172文(同様に5,000円ほど)だったという。

 京橋から前回の終点に向かい、街道歩きを再開する。濠川を渡ってすぐの交差点を左に折れ、旧高瀬川に沿って歩いていく。高瀬川は水深の浅い川でも通れる「高瀬舟」を通す川のことで、京都から丹波方面に向かう「西高瀬川」という川もあるが、普通、高瀬川というと、京都二条付近で鴨川から分かれ、九条の南で鴨川と平面交差し、さらに南下して伏見の濠川に注ぐ運河を指す。京都と伏見を結ぶこの高瀬川が開削されたのは、1614(慶長19)年のこと。事業を行ったのは、ヴェトナムへの朱印船派遣などで財をなした角倉了以で、濠川と旧高瀬川の合流地点に顕彰碑が立っている。もっとも、昭和初期に付け替えが行われたため、この街道の隣を流れている旧高瀬川は、途中で分断されていて今は京都までつながっていない。

 さらに濠川に沿って南下していくと伏見港公園がある。伏見港は豊臣秀吉の伏見築城の際に設けられ、秀吉は近隣の他の港を使用禁止にして、淀川を上下する船は伏見港を使わなければならないようにした。その後、江戸時代には高瀬川の開削、明治に入ってからは琵琶湖疎水の開削により、伏見は近代に至るまで港湾都市として発達し、1929(昭和4)年には京都府で2番目に市制を施行している(伏見市。2年後に京都市編入)。しかし、昭和30年代になると陸上交通の発達により伏見の港としての役割は失われ、1963(昭和38)年に停泊地を埋立てて造られたのが、この伏見港公園である。公園内には三十石船を模した休憩所のようなものも造られている。

三栖閘門(閘室・前扉室)と十石船
三栖閘門(閘室・前扉室)
と十石船

 伏見港公園のすぐ南で濠川は宇治川に合流するが、大正から昭和初期にかけての河川改修により宇治川の水位が低下したため、伏見港が面する濠川と宇治川との間には水位差が生じてしまっている。水位差のある二つの河川を船で行き来できるように、濠川と宇治川が合わさる三栖の地には閘門が設けられた。1929(昭和4)年に建設された三栖閘門は前扉室・閘室・後扉室から成っていて、前扉室と後扉室は高さ16.6mの二つの塔の間に大きな鉄製の上下扉を入れた水門、閘室は二つの扉室に挟まれた幅11m長さ73mの水路である。伏見港から宇治川に出ようとする船は、まず前扉室を通って閘室に入る。すると前扉室が閉まり、閘室の水位が宇治川の水位まで下げられるので、後扉室が開くと宇治川へ出ることができるのである。宇治川から伏見港へ入ろうとする船はその逆の手順となる。1962(昭和37)年に淀川舟運がなくなったため、三栖閘門はその役割を終えたが、2000(平成12)年度以降、保全工事が行われて、後扉室は展望施設になり、閘門操作室は三栖閘門資料館に生まれ変わった。また、閘室部分は春秋に伏見を運航する観光船「十石船」の発着場所ともなっている。

 三栖閘門から草深い堤防上を進み、新高瀬川を渡ってからは舗装された堤防上の道路を行く。宇治川の向こうには広々とした巨椋池干拓地が見えている。巨椋池は木津川・宇治川・桂川の山城三川が流れ込む遊水地であり、干拓前は約8k㎡の面積があった池であったが、河川から切り離されたことによる水質の悪化と、戦時中の米増産の要求から昭和初期に干拓されてしまった。京阪間の新しい幹線道路となる洛南道路の橋をくぐり、国道1号の宇治川大橋の下を強引にくぐって堤防上をさらに行くと、隣には京阪電車の線路が並行するようになる。かつて、この堤防上には松が生い茂り、千両松原とたたえられていたというが、今は松もなく強い日差しが直にアスファルトを照りつける。天気もよく眺めもよいが、近くに清掃工場や下水処理場があるためか、ときどき異臭が鼻につく。この先に産業廃棄物の中間処理場や倉庫会社などがあり、トラックが多く通り過ぎることもあって、宇治川大橋を過ぎてからの堤防上はあまり歩きやすいとは言えない。

三栖閘門より巨椋池干拓地を眺める。右手を流れる川は宇治川
三栖閘門より巨椋池干拓地を眺める。右手を流れる川は宇治川

 京阪電車の踏切を渡り、左手に京都競馬場の建物を見ながら歩く。踏切のところから堤防沿いを離れるが、江戸時代の街道はそのまま堤の上を通っていた。宇治川の付け替えによって川のほうが街道から遠ざかったのである。住宅地の中に「淀小橋旧跡」の新しい石柱が立っている。まるで地形が変わってしまったので想像しにくいが、左側を流れる宇治川に淀小橋がかかっており、橋を渡ると淀の城下町だった。今は橋も川も何もなく、橋がかかっていたところは、民家の裏手の細道になっている。ここを通り抜けると、春日局の子孫・稲葉家10万2000石の城下町でもあり、東海道55番目の宿場町でもある淀に着く。

 淀から京都に向かうのには、今通ってきた道を伏見まで戻り、伏見から伏見街道を北上するルートと、伏見を通らず京都市南区の鳥羽を経由する鳥羽街道を行くルートがあった。1868(慶応4)年元旦、大坂城にいた最後の将軍・徳川慶喜は大目付・滝川播磨守具知に「討薩の表」を持たせて京都に向かわせた。滝川播磨守に率いられた幕府軍15,000は、この淀から鳥羽街道・伏見街道の二手に分かれて進軍したが、鳥羽街道では桂川にかかる小枝橋付近で行く手を阻む新政府軍との戦闘になり、伏見街道でも御香宮神社に布陣する新政府軍と伏見奉行所に駐屯する新撰組隊士らとの間で戦闘が起こる。これが戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いである。激戦の結果は、新政府軍が「錦の御旗」を立てて戦ったこともあって、数の上では勝っていた旧幕府軍側が多数の死傷者を出し、淀まで敗退することとなる。その際、先ほどの千両松原付近で追撃する新政府軍とそれを押しとどめようとする旧幕府軍との間でも戦闘が起こった。その跡地には現在、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と書かれた墓標が立っている。また淀小橋に近い妙教寺の本堂には、戦いの際に銃弾が貫通した柱が残っているという。

 妙教寺のあるあたりは納所(のうそ)といい、中世には淀川を行き来する船の港として物産を納める倉庫が連なっていたことからこの地名がある。もともと淀城は、江戸時代の淀城とは宇治川を隔てたここ納所に築かれていた(淀古城という。)。この城は1589(天正17)年、豊臣秀吉により改修され、懐妊した側室・茶々の居館となった。茶々がこの城で産んだ子・鶴松は、3歳で病死し、淀古城も伏見築城に伴って廃城となるが、その後、茶々がこの城にちなんで「淀殿(淀君は蔑称とも)」と呼ばれることになるのは周知のとおりである。

淀城址
淀城址

 引き続いて江戸時代の淀城に向かう。現在の淀は桂川と宇治川に挟まれた町だが、河川改修の以前は宇治川と木津川に挟まれており、城の北側に取り付けられた二つの大水車によって川の水を堀に引き込んで、淀城はさながら水の上に浮かぶ城のようになっていた。今は堀の大部分が埋立てられて、当時の面影は薄れているが、本丸部分の石垣が公園の中に残されている。城跡の隣には応和年間(10世紀)に肥前一ノ宮である与止日女神社(佐賀県大和町)を勧請した与杼神社が建っている。祭神の与止日女大神(よどひめおおかみ)は海神の娘である豊玉姫と同一神とされており、水上交通の安全を護る神社として崇敬されていたそうだ。「淀」の地名もこの与杼神社から来ているものと思われる。イートインコーナーのついているコンビニ・ミニストップで昼食兼休憩。正午。

 高架化工事の行われている京阪電鉄淀駅前の踏切を渡り、淀の町を歩く。道は鉤の手に曲がっており、古い町屋も残っていて城下町・宿場町であった往時をしのばせる。かつては堀の一部をなしていたであろう小川を渡り、坂を下って幹線道路を渡るとき、一時的に久世郡久御山町に入る。江戸時代には、街道はこのあたりで木津川にぶつかり、淀大橋で対岸へと渡っていた。再び京都市に戻り、田んぼの中を進む。京阪電車の高架橋をくぐったあたりで、今度は八幡市に入る。今年(2003年)の8月10日に開通したばかりの京滋バイパスの橋をくぐり御幸橋(ごこうばし)のたもとに出る。京滋バイパス(自動車専用部)は、瀬田東JCTで名神高速道路から分かれ、この先の大山崎JCTで再び名神高速道路と合流する有料道路である。名古屋方面と大阪方面を行き来する場合、名神経由でも京滋経由でも通行料金は同じで、距離もほとんど変わらないため、この道路の開通により、京都付近の名神高速道路の渋滞緩和が期待されている。

御幸橋から男山を見る。
御幸橋から男山を見る。

 江戸時代の東海道(大坂街道)は、この地点では既に淀小橋で宇治川を、淀大橋で木津川を渡っていたが、明治時代にまず木津川、続いて宇治川が付け替えられて、木津川・宇治川・桂川の山城三川がすべて八幡付近で合流する形に改められたため、現代ではこの御幸橋で一気に宇治川と木津川を渡らなければならない。対岸には石清水八幡宮の鎮座する男山がそびえている。石清水八幡への参道を昔、御幸道と呼んだため、1930(昭和5)年に京阪国道の一部をなすこの橋を架けた際に御幸橋という名をつけたという。現在、御幸橋のうち、宇治川に架かる部分は、混雑緩和のため、架け替え工事が行われている。

 石清水八幡宮は以前に参詣しているため、橋のたもとを右折してそのまま堤防上を歩いていく。樹齢千年近いという大きな楠が堤防沿いに生えている箇所から堤防を下りて再び江戸時代の街道に戻る。街道沿いに続く橋本の町は戦前には遊廓のあったところらしい。今は静かな旧街道の両側に建つ古びた建物がなかなか趣深い。橋本の名は、行基が淀川に架けたという山崎橋に由来する。橋は文禄のころ(16世紀)を最後に架けられなくなったが、その後もここには渡し場があり、渡しがなくなった今でも「山さき あたご わたし場」と書かれた明治時代の道標が残る。堤防上に上ってみると対岸には豊臣秀吉と明智光秀が雌雄を決した天王山、そしてその麓にはサントリーウイスキーの山崎蒸溜所が見える。山崎蒸溜所は1923(大正12)年に建設された日本初のウイスキー工場であり、当時寿屋といったサントリーの鳥井社長に頼まれて山崎蒸溜所の建設地を選定したのは、のちにニッカウヰスキーを創業する竹鶴政孝であった。

樟葉駅前。くずはモールの向こうにくずはタワーがそびえる。
樟葉駅前。くずはモールの向こうに
くずはタワーがそびえる。

 大阪府枚方市に入り、京阪電車に沿って堤防上の道をしばらく進む。木津川・宇治川・桂川はこの付近で一本の流れになり、淀川と名を変える(河川法上は、上流部の瀬田川・宇治川を含めて淀川と呼ぶ。)。中西準子著『東海道 水の旅(岩波ジュニア新書)』によれば、三川の中では京都の排水を受ける桂川が最も汚れているそうで、そのため合流後もしばらくは桂川の流入する右岸側の水のほうが汚いのだそうである。再び堤防を下りて楠葉の町に入る。楠葉一帯は京阪電鉄などにより開発されたニュータウンになっているが、街道沿いは古い建物も残る緑の多い住宅街となっている。楠葉の地名は古く記紀にさかのぼり、『古事記』には崇神天皇の時代に建波邇安(たてはこやすの)王が反乱を起こし、敗れた建波邇安王の軍勢が「久須婆の度に到りし時、皆迫め窘(たしな)めらえて[苦しめられて]、屎出でて褌に懸りき。故、其地を号(なづ)けて屎褌(くそばかま)と謂ふ。今は久須婆と謂ふ。」とある。現在は町名は楠葉と書き、駅名は樟葉と書く。駅前には「くずはモール」というショッピングモールが形成されており、その向こうには「くずはタワー」という最高41階建ての高層マンション群が建ち並んでいる。

 駅裏の堤防上に上がり、河川敷の樟葉ゴルフ場と京阪電車に挟まれた旧京阪国道を行く。旧京阪国道から京阪電車に沿った旧道に入り込み、牧野駅を過ぎる。少し寄り道して、重要文化財の片埜神社本殿を見に行く。この神社は大坂城から見て丑寅(北東)の鬼門の方角に当たるため、豊臣秀頼が片桐且元を総奉行として造営させたものだという。「かたの」と言うと現在では通常、枚方市の南にある交野市を指すが、本来はこのあたりも含む広い範囲を指す地名だったようだ。この交野について『枕草子』の169段には、「野は、嵯峨野さらなり。印南野。交野。駒野。飛火野。しめし野。春日野。そうけ野こそすずろにをかしけれ。などてさつけけむ。宮城野。粟津野。小野。紫野。」とある。古代には楠葉牧と呼ばれる官営の牧場もあり、牧野という駅名も楠葉牧に由来している。

天野川に架かるかささぎ橋
天野川に架かるかささぎ橋

 京阪電車に沿って旧道を進んだり、旧京阪国道を歩いたりしていると、やがて道路は天野川という川に突き当たる。天野川は、まさにそのまま天上の銀河になぞらえた命名だといい、この川を渡る橋の名前も天の川に橋を架けると伝えられる鳥の名をとって「かささぎ橋」と名づけられている。今はコンクリートで両岸を固められ、天の川にはほど遠い都市河川となっているが、この9月から天野川に沿って走る京阪交野線直通列車の愛称が公募により「おりひめ」「ひこぼし」に決定したところを見ると、沿線住民の間では天野川=天の川であってほしいという願いが依然として生き続けているようにも思われる。

 さて、この天野川を渡ると枚方宿である。枚方市駅前を過ぎると町は急に賑やかになり、かつて遊女が客を見送った宗左の辻では、ちょうど何かの宣伝のポケットティッシュが配られているところ。枚方市は大阪府内では大阪・堺・東大阪に次ぐ人口を有する都市である。今までのんびりと淀川を眺めながら歩いていたこちらが面食らっているうちに、街道はビオルネ枚方という再開発ビルの歩道になってしまい、かつての道路中心線が示されている歩道のタイルに辛うじて街道の名残を見出せるのみとなってしまう。が、その賑わいも長くは続かず、街道は再び宿場の雰囲気を残す静かな道となる。大阪のベッドタウンにしては意外なほど古い商家がよく残っており、道路も街道風に茶色っぽい舗装(路側帯部分は石畳)にしてある。意賀美神社のある高台に上ったりしているうちに17時を過ぎたので、公園になった本陣跡まで歩いて今日の旅は終えることにした。

(参考文献・・・伏見宿から先の東海道(大坂街道)の道筋については、上方史蹟散策の会編『京街道』(向陽書房)によった。)

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