YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

瀬田橋

● 近江国~山城国・2

石部宿~大津宿

三上山とJR草津線
三上山とJR草津線

 2003年4月19日。天気予報は曇りのち雨だったが、窓を開けてみるとけっこういい天気になりそうだったので出かけることにした。石部駅に着いたのは8時56分。満開の八重桜が駅前で出迎えてくれた。菜の花やタンポポなど春の花が東海道沿いにもたくさん咲いているが、近くには採石場やコンクリート工場があり、山が大きく崩されていて殺伐とした風景である。名神高速道路をくぐると、2001(平成13)年に市制施行した栗東市。滋賀県に入ってからよく見かける紅殻格子や虫篭窓の民家が並ぶ町並みになり、右手には「近江富士」の別名を持つ三上山が見えてきた。三上山の標高は432mしかないから、縮尺約9分の1の富士山である。

 薬師堂の傍らに「従是東膳所(ぜぜ)領」の領界石があった。膳所はここより西にある城下町なので、どこか別の領地が膳所とこの場所の間に挟まっていることになる。道が左に曲がっていく先にひときわ目立つ大きな商家が現れた。江戸時代には「和中散」という胃腸薬を製造・販売していた「ぜさいや(是斎屋と書くらしい。)」という店である。この「和中散」という名には聞き覚えがある。江戸近郊の蒲田で「和中散」を販売する店が客寄せに梅をたくさん植えた梅屋敷を造ったという話がこの旅の第二回目に出てきている。当時の薬の流通経路がどうなっていたのか分からないが、近江で造った薬を江戸でも販売していたということなのだろうか。調べてみると大坂・天下茶屋にも是斎屋という店があり、やはり和中散を販売していたらしい。

ぜさいや
ぜさいや

 この「ぜさいや」の庭園は小堀遠州が作庭したといわれ、予約すれば見学もできるようである。ツバメが軒から軒へと低く飛びまわっており、雨が近いことを知らせてくれる。名神高速道路の栗東インターチェンジと国道1号、8号を結ぶ連絡道路の高架橋をくぐる。日本で初めての高速道路は1963(昭和38)年、この栗東インターチェンジと兵庫県の尼崎インターチェンジの間に開通した。栗東は高速道路と国道の結節点にあって発展し、近い将来には新幹線の「びわこ栗東(仮称)」駅も開設されることになっている。地図を見ると栗東市内には溜池が多い。天井川が多いことと何か関係があるのだろうか。ある溜池の土手に「九代将軍足利義尚(よしひさ)公 鈎(まがり)の陣所ゆかりの地」という碑が立っていた。

 京都に銀閣を建てた8代将軍足利義政と正室・日野富子の間には子がなく、9代将軍には義政の弟・義視(よしみ)が就くこととなっていた。ところが、その後、富子が義尚(のち義熙(よしひろ)と改名)を産んだために後継者争いが起こり、諸大名が義視側・義尚側に分かれて全面戦争に突入した。この戦争が1467(応仁元)年から1478(文明9)年まで11年続き、都を焦土と化した応仁の乱(応仁・文明の乱)である。結局、9代将軍には義尚がなったが、乱後、将軍の権威は地に落ち、義尚は命令に従わない近江国守護職佐々木高頼を討つために出陣した。義尚が布陣していたのがここ鈎の陣であり、そして出陣から2年後、義尚はこの陣で病没する(享年25歳)。ちなみに義尚が亡くなった後、跡を継いで10代将軍となったのは、その仇敵だったはずの義視の子・義植(よしたね)であった。

石部 目川ノ里
石部 目川ノ里

 天井川となっている金勝(こんぜ)川の堤防に突き当たって右に曲がると、113里目の一里塚跡に小さな石標が立っていた。目川と呼ばれるこの付近は江戸時代、田楽や菜飯を供する立場茶屋のあったところで、その様子は「石部 目川ノ里」にも描かれている。東海道新幹線をくぐり、やはり天井川となっている草津川に沿って歩いて草津市に入ると、「わが町のシンボル いろはモミジ」と書かれた石柱と、枯れ木が1本、若いモミジの木が1本立っている場所がある。石柱は新しいもので、どうやら石柱を立てたとたんに「わが町のシンボル」は枯死してしまい、代わりに2代目の木を植えたものらしい。

草津追分を京都側から見る。トンネルをくぐるのが中山道。右折するのが東海道
草津追分を京都側から見る。
トンネルをくぐるのが中山道
右折するのが東海道

 ここから東海道は草津川の堤防を上がっていき、ほとんど水の流れていない草津川を横断する。対岸には「左 東海道いせ道 右 金勝・志がらき道」と書かれた道標が立っており、堤防を下りると丁字路になっている。東海道と中山道の合流点、草津追分である。分岐点には先ほどの信楽道の道標と同じ形の道標が立っており「左 中仙道美のぢ 右 東海道いせみち」と記されている。右手からやって来る中山道はトンネルで草津川の下をくぐっているが、もとは東海道同様に堤防を上り下りして草津川を渡っていた。このトンネルは通行を容易にするため1886(明治19)年に造られたものである。

草津宿本陣
草津宿本陣

 中山道と合流してすぐのところには田中七左衛門本陣が残っている。この本陣は1989(平成元)年から1996(平成8)年まで「半解体修理工事」という骨組みだけ残して解体する大規模な修理を行い、史料館として公開されている。街道に面した部分から駕篭や荷物を搬入できるようになっており、左側に立派な玄関を持つ構造は、二川宿(愛知県豊橋市)で見た馬場本陣と同様だが、大きく異なるのは、馬場本陣が平入り(建物の平側から入る。)なのに対し、この田中本陣は妻入り(建物の妻側から入る。)となっていることである。内部には宿札がたくさん展示されている。宿札は、大名などが本陣に宿泊する前に宿割役人が本陣に預けておき、宿泊中、宿場の出入口と本陣入り口に掲げておく札で、この本陣の入り口にも「松平出羽守宿」と書かれたダミーの宿札が掲げてある。展示されているのは、この本陣に残された木製465枚、紙製2,928枚の宿札のごく一部で、それぞれの宿札にまつわるエピソードが脇に記されている。たとえば佐土原藩主島津淡路守はこの本陣で急逝したが、幕府への跡継ぎの届出がまだだったため、届出が済むまで70日間も遺体を本陣に隠したとか、松平石見守が上野国館林から石見国浜田に転封になり、東海道を参勤交代で利用することになったため、申し出てこの本陣を定宿にしてもらった、などというもの。建物の奥には大名用の風呂桶や漆塗りの便器まで再現されており、便器は毎日内容物をチェックできるよう引出し式になっていたという。草津宿の歴史を知る史料館は、もうひとつこの先に草津宿街道交流館があり、ここでは宿場の食事を再現したり(関東は一汁二菜、関西は一汁三菜が多かったらしい。)、半合羽や笠など江戸時代の旅姿を体験できたりする。

 かつて宿場町だった商店街はそこそこ賑わっているが、宿外れに近年建設された草津川放水路まで来ると人通りもだいぶ少なくなってきた。正午。少し疲れて腹も減ったので、放水路の建設に合わせて造られたらしいポケットパークのベンチに腰掛けて、「うばがもち」の包みを開く。草津名産の「うばがもち」は先述の足利義尚と戦った佐々木(六角)高頼の孫・義賢が織田信長に滅ぼされた後、乳母の 福井との が義賢の曾孫を養うため餅をつくって売った故事による。佐々木(六角)家は源氏の血を引き、代々近江国の守護を務めた名家で、先祖(ただし直系ではない。)には源義経と木曽義仲が戦った宇治川の戦いで先陣争いを制した佐々木高綱の名もある。うばがもちは餡餅の上に小さな白餡を乗せた菓子で、その「風雅で独特の姿は往時、乳母が幼君に奉じた乳房を表したもの」とパンフレットにある。9粒入り450円。6粒分をお椀に入れてお湯に溶かすとお汁粉ができるそうだが、腹が減っていてすべて食べてしまったので、家に持ち帰ってお汁粉を試す分は残らなかった。

草津 名物立場
「草津 名物立場」
うばがもち
うばがもち

 もちろん広重も「草津 名物立場」にこのうばがもちを売る店を描いている。現在、うばがもちの本店は国道1号沿いにあり、僕は先ほど草津宿に入る前に少し寄り道して買ってきたのだが、江戸時代にはこの少し先の東海道沿いに店があった。絵の中には店の右端に道標らしい柱が立っているが、これは矢橋(やばせ)道との分岐点を示す道標である。この道標は現在も残っていて「右やはせ道 これより廿五丁大津船わたし」という文字が見える。東海道は草津・大津間で琵琶湖を回り込まなくてはならないので、荷物を運ぶときなどは、草津から琵琶湖岸の矢橋へ出て大津まで一直線に船で渡るのが楽だった。矢橋湊に帆船が停泊する様子は、「矢橋帰帆」として近江八景のひとつにも数えられている。国道1号を横断した先には日本六玉川(むたまがわ)のひとつに数えられる「野路萩の玉川」という場所がある。かつては美しい泉がわき、萩の花が一面に咲いていたそうだが、今は道路沿いに小さな池と四阿があるばかりである。ちなみに近江八景は「比良晩雪」「堅田落雁」「唐崎夜雨」「三井晩鐘」「粟津青嵐」「瀬田夕照」「石山秋月」「矢橋帰帆」の8箇所、日本六玉川は「井出の玉川(山城)」、「高野の玉川(紀伊)」、「野路の玉川」、「三嶋の玉川(摂津)」、「前田の玉川(陸奥)」「調布の玉川(武蔵)」の6箇所である。

近江国庁跡
近江国庁跡

 小雨が降り出したので多少の起伏がある街道を足早に進んでいく。弁天島のある溜池、大津市境、JR瀬田駅近くにある一里塚跡の石碑などを過ぎると大江という町に着いた。在原業平の甥で「月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど」の歌で有名な平安時代の貴族・大江千里(おおえせんり、ではなく、おおえのちさと)がこのあたりを開発させたためにこの地名があるそうだ。西行法師も一時、この大江の地に住んでいたという。西行屋敷跡付近で直角に左折し、500mほど南で右折するのが東海道の道筋だが、右折せずにまっすぐ進むと律令時代の近江国庁(国衙)の跡がある。国庁は言うなれば現在の県庁で、およそ東西200m×南北300mの敷地に役所の建物が建ち並び、その外側には約1km四方の市街地が取り囲んで国府を形成していた。平城京や平安京はだいたい5km四方、官庁の集まる大内裏は東西1.2km×南北1.4kmほどの大きさであったので、国府・国庁は都の5分の1くらいのスケールで造られていたことになる。この国庁跡は1963(昭和38)年、住宅開発の最中に発見されたもので、1973(昭和48)年には国の史跡に指定され、今は築地塀や建物の一部が復元されている。律令時代には都と各国府を結ぶ東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の7つの官道が整備されており、先ほど歩いた国庁跡に至る道はかつての東山道である。江戸時代に東海道を定めるとき、この場所で500mほど古代の東山道を利用したため、道が左や右に折れ曲がったのだろう。

 天気が悪いせいか家が建て込んでいるせいか琵琶湖はまだ見えない。東海道はいったん少し広い道に合流するが、沿道の石屋さんの店先に「左 東海道」という石柱が立っていたので、それを信じて左斜めの細い道に入る。再び大きな道にぶつかると左手に建部大社の大きな鳥居が立っている。ここは日本武尊を祀る古社で、近江国一ノ宮とされている。周辺の地名は「神領」で、建部大社の領地であったことからこの名がある。やがて東海道は瀬田川にかかる瀬田の唐橋に行き当たる。瀬田川は琵琶湖から流れ出す唯一の川で、下流部は宇治川を経て淀川へとつながっている。現在の橋は1979(昭和54)年に架けられた橋だが、それまで江戸時代に19回、明治以降でも4回架け替えられている。この橋が初めて架けられたのは天智天皇が大津に都を遷したときであると伝えられているので、それから数えるといったい何回架け替えられているのか見当もつかない。「日本三大名橋 瀬田の唐橋」と書かれた石碑が立っているが、山崎橋、瀬田の唐橋(勢多橋)、宇治橋を日本三大橋と言い、それとは別に日本橋、錦帯橋(岩国)、眼鏡橋(長崎)を日本三名橋と呼ぶようなので、「日本三大名橋」では、これら二つの概念が混ざってしまっている。

瀬田の唐橋
瀬田の唐橋

 「御伽草子」などに見られる俵藤太藤原秀郷が大ムカデを退治した話の中にも、この瀬田の唐橋が登場する。「近江の国勢多の橋には、大蛇の横はり臥せりて、上下の貴賤行き悩むことあり。秀郷怪しく思ひて行きて見れば、誠に其の丈二十丈[約60m]もや有るらむと思しき大蛇の橋の上に横はり臥せり。[略]もし世の常の人見るならば、肝魂も失ひ、其の儘倒れぬべけれども、元来秀郷は大剛の男子なれば、少しも憚らず、彼の大蛇の背をむずむずと掴むで彼方へ通りけり。」すると、その夜、この世の者とも思われない容顔美麗な二十歳余りの女性が秀郷を訪ねてきて、「私は、琵琶湖に住む竜女ですが、獣や魚を食い殺す三上山の大ムカデを退治してくれる人間を探すために、大蛇の姿となって勢多橋に横たわっていたのです。」と言う。秀郷は3本の矢を携えて大ムカデに立ち向かい、2本ははね返されたが、鏃に唾を塗って射た3本目が見事ムカデの眉間を貫いた。ムカデは「百足」と書くが、この大ムカデは二、三千本も足があったといい、三上山を7周半するほどの大きさだったともいう。三上山は「近江富士」の別名にしては小さな山だが、それでも麓を一回りすれば5kmほどある(ただし三上山7周半の話は「御伽草子」には書かれていない。)。次の夜、竜女は再び秀郷を訪ねて来て、ムカデ退治のお礼に巻絹と俵と鍋を秀郷にくれた。これらは、とりあえず竜女が自分の持ち物をお礼として持ってきたもので、お礼にしては一見地味すぎるようだが、実はさにあらず。「巻絹を取出し衣裳に仕立たる処に、裁てども裁てども尽きず。又米の俵を開きつゝ米を取出すに、これも遂に尽きざり。さてこそ藤太をば俵藤太とは申しけり。さて又鍋の内には思ふ儘の食物沸き出でけるこそ不思議なれ。」秀郷はこの後、琵琶湖にある竜宮に招かれて、竜王から剣と鎧と釣鐘をもらう。橋の近くにはこの竜王と秀郷を祀る竜王宮秀郷社という小さな神社がある。

 橋を渡り京阪石山坂本線の踏切を渡ったところには壬申の乱で敗れた大友皇子を祀った御霊社がある。壬申の乱のときに瀬田の唐橋が最後の決戦場になったためだが、戦略上の重要拠点であった瀬田の唐橋は、壬申の乱のほかにも何度も大きな戦乱の舞台となっている。恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱では、孝謙女帝側が橋を落としたために押勝が逃げ道を失い、本能寺の変のときには明智軍が京都から近江に向かうのをとどめるため前田利長が橋を落としている。交差点を右に曲がると粟津町という地名があるが、ここは木曽義仲が戦死した場所として知られている。今は人通りも車通りも多い賑やかな場所だが、かつては琵琶湖に臨んで松原の続く風光明媚な場所であり、「粟津青嵐」として近江八景のひとつにも数えられていた。

琵琶湖
琵琶湖

 15時。雨が強くなってきたので、石山駅前のマクドナルドで休憩する。JRの線路によって旧道が分断されており、強いて言えば石山駅の橋上駅舎を通るのが(平面的には)江戸時代の東海道に近い。東海道を歩いていて駅の中を通るのは初めてである。駅の北側にはNECの大きな工場がある。道なりに歩いていくと途中で道路が直角に曲がる場所があり、「膳所城勢多口惣門跡」という小さな碑が立っている。膳所城は本多氏などの譜代大名が入った城で、藩の石高は3万石から7万石であった。もともとは大津に城があったのだが、関ヶ原の戦いの後に、防備の関係から琵琶湖に突き出した場所に築かれ直されたのだという。建物は明治維新のときにほとんど破却されてしまっており、城跡は公園になっているが、近くの神社には大手門などが移築されている。ぜんぜん関係ないが、城跡の前にある生涯学習センターの建物もお城風になっている。町並みは城下町らしい趣で、セブンイレブンまで昔ながらの商家を改造して営業していた。小田原や岡崎のように街道沿いの城下町は宿場町を兼ねているのが普通だが、この膳所は純粋に城下町であって宿場町に指定されていないのが珍しい。大津宿まで距離が近すぎるのが原因だろうか。

 街道を離れて琵琶湖を少し眺めてから「膳所城北惣門跡」を過ぎる。その先、源(木曽)義仲の側室・巴御前(正室だとばかり思っていたが、側室なのだそうです。)が義仲を供養するために草庵を結んだのが始まりと言われる義仲寺に立ち寄る。義仲寺はかつて琵琶湖に面しており、松尾芭蕉もこの地がたいへん気に入って、晩年たびたび滞在していた。芭蕉は1694(元禄7)年に大坂南御堂の近くで亡くなっているが、「骸(から)は木曽塚[義仲寺の別名]に送るべし」との遺言に従い、遺体は大坂から伏見まで淀川をさかのぼり、伏見からは陸路で義仲寺に送られた。「義仲の寝覚めの山か月悲し」という句があるように、芭蕉は、悲劇の武将であった義仲に対して強いシンパシーをいだいていたとも言われている。

芭蕉の墓
芭蕉の墓

 義仲寺は太平洋戦争後に一時荒廃したことがあるためか、境内はさほど広くない。巴塚、源義仲の墓と並んで芭蕉の墓があり、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を刻んだ句碑が立つ。小さな池があり、新緑が雨に打たれている。「東海道」を歩く、この旅を始めたとき、十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」と歌川広重の「東海道五十三次」をテーマとして定めてきたのだが、これまで弥次・北や広重と同じくらいよく登場してきたのが芭蕉であった。思い返せば、川崎の「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」からこの「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」まで、街道沿いには多数の句碑が立っていた。別段俳句に興味があるわけでもないので意味のよく分からない句もあったが、「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き(箱根)」「道のべの木槿は馬に喰はれけり(金谷)」など素直に楽しめる句もまた多かった。芭蕉の坐像を納めた翁堂の軒下に雨宿りしながら、「芭蕉翁」と彫られた墓石と対峙する。かつて芭蕉はここに住み、そしてこの地下に葬られたのだと思うと、300年の時を越えて、芭蕉が急にリアルな存在に感じられてきた(といって、別に幽霊が出てきたわけではないので、念のため。)。

 大津の宿場に入り、滋賀県庁の前を過ぎる。1939(昭和14)年に竣工したもので、県庁らしい立派な建物である。県庁の建物は全国的にこの時期に建てられたものが多いように思うが、何か理由があるのだろうか(行政組織が大きくなったためか、建築技術上の理由か、それとも景気対策か。)。JR大津駅前の大通りを渡って、相変わらず6mほどの道幅しかない狭い道を歩いていくと道端に「此附近露国皇太子遭難之地」という小さな石柱が立っていた。大津の歴史上、おそらく最大の事件である「大津事件」が発生した場所である。1891(明治24)年、シベリア鉄道開通式出席のため、ウラジオストクに向かう途中だったロシア帝国皇太子ニコライ=アレクサンドロヴィッチ(23歳)が国賓として来日した。神戸港に到着した2日後の5月11日に琵琶湖と三井寺を見て、滋賀県庁で昼食をとり、宿泊先の京都・常盤ホテル(現在の京都ホテル)に戻るため県庁から東海道を西へと向かう途中、事件は起きた。警備に当たっていた津田三蔵巡査がいきなり腰のサーベルを抜くと、人力車に乗った皇太子に切りかかったのである。ロシアが日本を侵略するための偵察旅行だと思い込んでの犯行だったと言われる。

道の両側に群衆が並んでいた狭い道路を左折した。そのとき、私は右のこめかみに強い衝撃を感じた。振り返ると、胸の悪くなるような醜い顔をした巡査が、両手でサーベルを握って再び切りつけてきた。とっさに「貴様、何をするのか」と怒鳴りながら人力車から舗装道路に飛び降りた。変質者は私を追い掛けてきた。誰もこの男を阻止しようとしないので、私は、出血している傷口を手で押さえながら、一目散に逃げ出した。(ニコライの日記より)

大津事件の起こった場所
大津事件の起こった場所

 ニコライは頭を切られて大量に出血したが、命に別状はなかった。しかし、このとき、まだ日本には欧米列強と渡り合うだけの力がなく、ロシアが宣戦布告して皇太子とともに訪日している7隻の軍艦が砲撃してきたらひとたまりもなかった。就任したばかりの松方正義総理大臣ら政府首脳は色を失い、急遽、青木周蔵外務大臣と西郷従道内務大臣が京都に飛んだが、激怒しているロシア側は皇太子への面会を許さない。東海道本線は1889(明治22)年に全通しており、新橋から京都までの所要時間は15時間。翌日には、明治天皇自らが列車で京都へ向かい、お見舞いに訪れた。さらに国民から1万通を越えるお見舞い電報と大量のお見舞い品が届いたこともあって、ロシア側も日本側の誠意を汲みとり、賠償要求もなく事件は無事解決したのである。第一次世界大戦がセルビア人によるオーストリア皇太子の暗殺事件から始まっていることを考えると、ロシア側の対応はずいぶん寛大だったように思う。弱小国日本のことなどあまり気にしていなかったのか、迅速な日本政府の対応が効を奏したのか。

 5月27日、事件を起こした津田巡査に対しては、無期懲役(無期徒刑)の判決が下された。政府は刑法第116条「天皇、三后、皇太子ニ対シ危害ヲ加へ、又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」を適用して津田を死刑にしようとしたが、大審院長(現在の最高裁長官)児島惟謙が日本皇族に対する殺人未遂罪を外国皇族に拡大適用するのは不可能であると強硬に反対したため、一般の殺人未遂罪の最高刑である無期懲役刑が科せられることとなった。ロシア側はこの判決に不快感を示したが、このとき日本は不平等条約改正交渉を行っている最中だったということもあり、法治国家としての体面が保たれたことは結果的に正しかったと言える。なお、津田は北海道の刑務所に送られ、事件からわずか5ヶ月後の10月2日、肺炎のため獄死した。

 他方の当事者であるニコライ皇太子は、行程を繰り上げて離日した。ニコライは、訪日経験のある叔父から日本の話を聞かされて、日本に大変な興味と好意をもっていたと言われ、事件後も日本に対する好意的な見方は変わらなかったという。しかし、1894年に彼がロシア皇帝ニコライ2世となった後、1904年には日露戦争でロシアは日本と戦うことになる。さらに1917年、ロシア革命が勃発するとニコライは退位させられ、1918年には家族とともに銃殺刑に処せられている(享年50歳)。遺体はひそかに埋められ、正式に埋葬されたのはソ連崩壊後の1998(平成10)年になってからのことだった。このとき遺体の鑑定のために大津事件当時の血のついたハンカチなどが用いられたという。

道路を走る京津線の電車
道路を走る京津線の電車

 その先、札の辻の丁字路で今回の旅はおしまいとする。京都と大津を結ぶ京阪京津線の電車が4両連なって堂々と路面を通っていく。路面電車の長さは軌道運転規則という運輸省令によって原則30m以内と決められているが、ここでは特別の許可を受けて運行されているそうである。坂を下ると京津線の終点・浜大津駅。現在は京阪電車の駅である浜大津駅は、もともと1880(明治13)年に東海道線の大津駅として開設されたもので、当時は長浜から大津まで琵琶湖を渡る船による連絡となっていた。17時24分発の電車で帰宅する。京都まではあと残り3里(約12km)の道のりである。

(ニコライの日本観について・・・ニコライの日記には日本に対してかなり好意的な表現が散見されるという。他方で司馬遼太郎の『坂の上の雲』には、ニコライが大津事件の前から日本人を「猿」と呼び、非常に嫌悪していたとある。「猿」の話はロシアの首相や蔵相を務めたウィッテの回顧録に由来しているようであり、そうなるとニコライかウィッテかどちらかが嘘を書いていることになる。僕はニコライの日記の一部しか読んでいないので、どちらとも判断しかねるのだが、通常、日記は公開を前提とせず、回顧録は何らかの意図を持って公開されるものであること、長崎で腕に竜の刺青をしたり大津で日本土産を大量に買い込むなど大津事件前後のニコライの行動が親日的に見えることから、ここではいちおうニコライは親日家であったということにした。)

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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