YAGOPIN雑録

東海道徒歩の旅

関宿

● 伊勢国・2

四日市宿~亀山宿

 2002年12月23日10時44分、急行電車で近鉄四日市駅に到着した。四日市に泊まった弥次・北は出発のときに「やうやうと東海道もこれからは はなのみやこへ四日市なり」と詠んでいる。江戸時代、四日市から京都へは4日の道のりだった。中央大通りから東海道に折れ近鉄線の高架橋をくぐると、通り沿いにちらほらと古い家が見え、中には1852(嘉永5)年に建てられた薬局の建物などもある。空は冬らしい淡い色に晴れ上がっており、年末の大掃除で連子格子を拭いている光景にも出会う。醤油の匂いが漂う古い醸造所の横を過ぎる。

日永の追分
日永の追分

 日永神社の境内に1本の道標が保存されていた。正面に「大神宮 いせおいわけ」右に「京」左に「山田」と彫られたもので、1656(明暦2)年から現在の道標が建てられるまで東海道と伊勢街道の追分にあったものである。1kmほど歩くと国道1号に合流し、その日永の追分に着く。まっすぐ進むと伊勢街道、右斜めが東海道だが、現在はまっすぐが国道1号、右斜めは県道になっている。道が分かれるところは小さな公園のようになっており、1774(安永3)年に建てられた鳥居と1849(嘉永2)年に建てられた「左 いせ参宮道 右 京大坂道 すく江戸道」の道標があるほか、湧き水があるらしく水を汲みに来ている人が数名いた。鳥居は、東海道を行き来する人も伊勢神宮を遥拝できるようにと、伊勢商人の渡辺六兵衛という人が建設したもので、伊勢神宮の二の鳥居にあたる(一の鳥居は桑名の船着き場にあった。)。僕もいちおう鳥居に向かって柏手を打ってから東海道を進む。

 「東海道中膝栗毛」には、追分の茶屋で弥次さんが金毘羅参りの格好をした男と饅頭の食べ比べをする話がある。

こんぴら「わたくしもおゑどへいた時、本丁の鳥飼[店の名]のまんぢうを、かけどくして[賭けをして]二十八くつたことがござりましたが、又かくべつなものじや」
弥次「とりかいはわつちらが町内だから、まいにち茶うけに、五六十ヅヽはくひやす」
こんぴら「それはゑらいおすきじや。わたくしも、もちずきで、御らふじませ、此ぞうにを、いきなし五ぜんたべました」
弥次「わつちやア今こゝのまんぢうを、十四五もくつたろふが、まだそのくらいはいけるだろふ」

 そこで饅頭の食い比べが始まるのだが、金毘羅参りは饅頭を40個平らげ、あっけにとられる弥次さんから賭け金400文(10,000円くらいか。)を取り上げて立ち去っていく。「いまいましいめにあはしやアがつた」「ハヽヽヽヽ、大かたこんなことになろふとおもつた」などと二人が話すうち、饅頭を3つ4つずつ持った伊勢参りの子供たちが通りかかる。

北八「コレ手めへたちやア、そのまんぢうを、誰にもらつた」
いせ参「ハイコリヤ此あとで、こんぴらまいりの人が、袂から出してくれました」
弥次「ヱヽそんなら、あいつめらがくらつたと見せやアがつて、おいらをだまくらしやアがつたか」

 金毘羅参りは大津の釜七という手品師だったのである。弥次・北のふたりは伊勢神宮を目指し伊勢街道を進むので、約400kmにわたり同行した両氏ともここでお別れ。このあと二人は伊勢から奈良街道を経て宇治伏見京大坂をめぐり、さらに続編を通して金毘羅参り・宮島参詣、木曽街道から善光寺、草津温泉、中山道と、日本各地を回る長い長い旅に出ることとなる。

内部線の電車
内部線の電車

 県道に入り、近鉄内部線追分駅前の踏切を渡る。新幹線の線路は幅4フィート8 1/2インチ(1,435mm)、在来線は3フィート6インチ(1,067mm)あるが、内部線は2フィート6インチ(762mm)しかなく、この狭い線路で走っている旅客鉄道は、日本では内部線など近鉄線の一部と富山県の黒部峡谷鉄道だけである。駅前に「追分まんじゅう」の看板を見つけた。饅頭は好きだが、弥次さんのようにたくさんは食べられないので、1個だけ買う。ほのかにお酒の香りがする饅頭を食べながら、旧街道らしいのどかな道を進むと、やがて東海道は内部川にぶつかった。旧道には橋がないため、隣にかかる国道1号の橋を渡る。旧道の橋も杭だけ何本か残っていたそうだが見落としてしまった。

 内部川を渡ると采女(うねめ)という町に入る。采女とは豪族の娘から選抜されて天皇に仕える乙女のことであるが、この采女について『古事記』の雄略天皇の箇所に次のように記述されている。

天皇、長谷の百枝槻の下に坐しまして、豐樂(とよのあかり)したまひし時、伊勢國の三重采女、大御盞(おおみうき。杯のこと)を指擧(ささ)げて獻りき。ここにその百枝槻の葉、落ちて大御盞に浮かびき。その采女、落葉の盞に浮かべるを知らずて、なほ大御盞を獻りき。天皇その盞に浮かべる葉を看行(みそな)はして、その采女を打ち伏せ、刀をその頸にさし充てて、斬らむとしたまひし時、その采女、天皇に白して曰ひけらく、「吾が身をな殺したたまひそ。白すべき事あり。」といひて、すなはち歌ひけらく[このあと歌のやりとりが続くのだが、長いので省略。おめでたい内容の歌だった。]。故、この豐の樂にその三重采女を譽めて、多(あまた)の祿(もの)を給ひき。

 采女の町内には杖衝坂という坂があり、この坂については同じく『古事記』のヤマトタケルノミコトの箇所にこんな話がある。伊吹山の神を倒しに行ったヤマトタケルノミコトが、牛ほどもある白猪に出会う。「この白猪に化れるは、その神の使者ぞ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ。」とヤマトタケルノミコトはそのまま猪を倒さずに山に登っていくのだが、実はこの猪は神の使者ではなく伊吹山の神自身であって、神は大氷雨を降らせヤマトタケルノミコトを失神させるのである。ミコトは山を下り、やっとのことでこの坂までたどりつくのだが、「甚(いと)疲れませるによりて、御杖を衝きて稍(やや。そろそろと)に歩みたまひき。故、其地を號(なづ)けて杖衝坂と謂ふ。」

 杖衝坂はかなり急な坂で、『笈の小文』には芭蕉がこの坂で落馬したときに詠んだ句がある。

日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。『歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉』と物うさのあまり云出侍れ共、終に季ことばいらず。

杖衝坂
杖衝坂

 この季語のない俳句を刻んだ碑が坂の途中にある。その句碑の前に「自由にお持ち帰りください。史跡杖つき坂の資料です。」と書かれた菓子の缶が置かれていた。いま引用した采女の言われも杖衝坂の由来も、もちろんそこでいただいた資料をもとにして書いたものである。杖衝坂を上り切ったところにはヤマトタケルノミコトが足の出血を封じたことに所伝する血塚社という祠もある。坂の上から振り返ると四日市の工業地帯の鉄塔や煙突がにょきにょきといくつも立っているのが見渡せた。

 国道1号に合流すると小さな石碑の置かれた采女一里塚跡がある。四日市市と鈴鹿市の境から旧道に入り、地下道で国道を横断して坂を上ると石薬師宿の入り口に着く。石薬師は1616(元和2)年になって新たに設けられた宿場だったが、江戸から伊勢へ向かう旅人は先ほどの日永の追分から伊勢街道に行ってしまい、また逆に京から伊勢へ向かう旅人はこの先の関の追分から伊勢別街道を進むことになるので、両追分の中間にあるこのあたりは伊勢参宮の人が通らない寂しい宿場だった。旅籠はわずか30軒しかなく、その一方で百姓家は130軒もあって、ほとんど村といえる状況だったようだ。伊勢参宮とは関係ないが、現在の石薬師も人通りの少ないところである。小澤本陣の跡を過ぎた先に国文学者・歌人で第1回の文化勲章受章者である佐佐木信綱の生家と記念館があるが、来場者はほかに誰もいなかった。瑠璃光橋という瑠璃色に塗られた橋で国道を渡ると瑠璃光院とも呼ばれた石薬師寺に至る。

石薬師 石薬師寺
「石薬師 石薬師寺」
石薬師寺
石薬師寺

 石薬師寺は、聖武天皇の時代に森の中から現れ、弘法大師が爪で薬師如来を刻んだという巨石を本尊としている。弘法大師は小夜の中山の夜泣き石にも爪で念仏を刻んでいるし、よっぽど爪の丈夫な人であったのだろう。平家討伐の際には、源範頼が石薬師寺に戦勝祈願をし、その際に地面に挿した鞭が芽生えたという桜の木が近くにある。この桜の木は範頼の通称・蒲冠者(範頼の生地・蒲御厨に由来する。)にちなみ、蒲桜と呼ばれているが、やはり範頼に縁のある同名の桜の木が埼玉県の北本市にもあるようだ。石薬師寺は戦国時代に焼かれ、現在の本堂はその後の1629(寛永6)年に伊勢神戸城主・一柳直盛が建てたものである。「蝉時雨 石薬師寺は 広重の 絵に見るがごと みどり深しも」とは佐佐木信綱の詠んだ歌だが、広重が「石薬師 石薬師寺」に描き、佐佐木信綱も仰ぎ見た本堂が現在も残っていることになる。

庄野 白雨
「庄野 白雨」
「庄野 白雨」に描かれた地
「庄野 白雨」に描かれた地

 石薬師一里塚の先でJR関西本線をくぐり、しばらく田んぼの中を進むが、この付近は土地改良で昔の東海道の道筋があまり残っていないようである。国道1号に戻る。国道に並行して鈴鹿川が流れている。広重の「東海道五十三次」のうちでも名作のひとつに数えられる「庄野 白雨」はこのあたりの川沿いの風景を描いたものという。白雨とは夕立のこと。突然の雨に道を急ぐ旅人の代わりに国道を急いで通り過ぎるのは大型トラックばかり。夕立どころか、今日は真冬のいい天気。国道に沿って竹が茂っているのを、なんとか画中の竹やぶにこじつける。

 国道の右側にある日本コンクリート工業の工場は鈴鹿海軍工廠資材置場の跡地である。鈴鹿市にはかつて鈴鹿海軍工廠をはじめ陸海軍の施設が集中していた。戦後にそれらの軍事施設の多くが本田技研、カネボウ繊維、旭化成、富士電機などの工場になり、鈴鹿市は三重県下でも四日市に次ぐ工業都市になった。国道を離れて庄野宿に入る。ここは石薬師宿に8年遅れた1624(寛永元)年、東海道で最後につくられた宿場である。国道から外れた静かな宿場はほとんど人も通らない。庄野宿資料館は月曜日で休み。庄野宿本陣跡は町の集会所になっていた。10分ほどで庄野を通り抜け、国道をくぐって、のんびりと旧道を進んでいく。少し離れた場所に「従是東神戸領」と刻まれた領界石が2つ。片方は、2つに折られ削られて何かに転用されていたものを修復したようである。もう片方は女人堤防の碑と並んで建てられていた。「女人堤防」の名は、鈴鹿川の洪水に悩まされた村の女性たちが、藩の許可を得られないまま独自に堤防を築造したという伝説に基づく。女性たちは死罪になりそうになったが、家老が死をもって藩主を諫めたため逆に金一封を与えられることとなったという。女人堤防は一部が残存しているが、今は別に高い堤防が築かれたため、単に史跡として残されているだけのようだ。この付近で洪水が発生しやすかったのは、鈴鹿川と安楽川の合流点に近かったからであろう。川俣神社という名前の神社も複数存在する。そのうちのひとつに「従是西亀山領」の領界石と、中冨田一里塚跡の碑が立っていた。江戸から100里ということで、現在も東百里屋(ともりや)という屋号で呼ばれている家が近くにあるそうだ。ただし、別の資料によるとこの一里塚は98里目にあたるとある。

刑場供養塔
刑場供養塔

 和泉橋で安楽川を渡り、細い道を通って踏切を横断し、亀山市に入る。15時30分、JR関西本線の井田川駅前に着いた。時刻は。今日はここでおしまいにしようと思い、無人駅の時刻表を見たところ、次の列車は16時27分発だった。名古屋から四日市までは1時間に快速列車1本と普通列車2本が走っているが、普通列車1本は四日市で折り返し、快速列車は四日市から伊勢街道に沿う伊勢鉄道線に乗り入れてしまうので、ここまで来る列車は1時間に1本しかないのであった。駅で1時間電車を待つくらいならばもう1時間歩いて次の亀山宿まで行ってしまおうと思い、また歩き出す。川合町というところに「南無妙法蓮華経」の鬚題目を刻んだ碑があり、字のかすれた説明板が隣に立っている。曰く

「東海道刑場供養塔 その三 日蓮宗の信者、谷口法春は、東海道の道すじにある死刑場に供養塔をたてることを発願し、元禄八年春、妻子を伴い京を出発した。道中行脚をつゞけて、元禄十一年二月、江戸に到達し、さらに北にむかった。塔は現在同形のものが六基たっている。」

 現存する供養塔は千住、品川、江尻、ここ川合、関、三雲の6箇所に立っており、この塔は法春の子、法悦が願主となったものだそうである。残念ながら品川と江尻の塔には気づかずに通り過ぎてしまった。これから関と三雲を通る際には気をつけよう。

亀山城多門櫓
亀山城多門櫓

 「従是神戸 白子 若松道」と記された道標がある。神戸は城下町、白子と若松は湊町で、いずれも今の鈴鹿市にあたる。石上寺前の坂道を登っていき、復元された和田一里塚を見る。国道306号を横断した先にカメヤマ株式会社の蝋燭工場。カメヤマは蝋燭のシェア日本一の会社で、結婚式のキャンドルサービスもこの会社が提案したのだという。亀山城江戸口門の跡で東海道は右に曲がり、かつての亀山宿を引き継いだ商店街の中に入っていく。それぞれの店に「東海道亀山宿東町やまがたや跡」などと書かれた木札が貼ってあり、江戸時代の亀山宿を再現しようとしているのが面白い。大手門跡を左に曲がり、うねうねと続く細い道を進んで通りにぶつかったところで終わりにする。交差点から右手の坂の上を見上げると石川家(6万石)などの譜代大名の城であった亀山城の多門櫓が見える。各地の他の城と同じく明治維新の際に城郭のほとんどが破壊されているため、亀山城跡に現存するのはこの多門櫓などごく一部に過ぎない。城跡に背を向けて坂を下り、16時半ごろ亀山駅に着いた。関西本線と紀勢本線の乗換駅であり、かつては交通の要衝だった亀山駅だが、今は主要列車が通らず、駅前も閑散としていた。

※歌川広重「東海道五十三次」は、東京国立博物館研究情報アーカイブズ(https://webarchives.tnm.jp/)のデータを加工の上で掲載した。

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